この記事についてaiに評価してもらいました




上司「今月も未達だな。何が原因だと思う?」

部下「組織で決まっているKPIは、ちゃんとやっています」

上司「やっているのに、なぜ結果が出ないんだと思う?」

部下「決められたKPI自体に問題があるんじゃないですか」

上司「それは責任転嫁だろう」

元記事は、このような部下に足りないものを「執着心」であると説明する。

決められたプロセスやKPIを実行しただけで満足してはならない。成果が出ないなら、結果が出るまで創意工夫を続けるべきである。KPIに問題があると主張するのは、成果が出なかった責任を組織へ転嫁する態度だというのである。

たしかに、KPIを実行したからといって、成果が保証されるわけではない。決められた行動をこなしただけで仕事が終わったと考えることにも問題はある。

しかし、元記事はここから、十分な検証をしないまま部下の「執着心不足」へ話を進めている。

KPIが機能しなかった原因は、部下の姿勢だけにあるとは限らない。KPIそのものが誤っていた可能性や、部下には変更できない条件が成果を阻害していた可能性もある。

この構造を確認せずに「責任転嫁だ」と断定することはできない。

■「執着心」は原因を説明していない

元記事は、成果が出るまでKPI以上の行動を続けることを「執着心」と呼んでいる。

しかし、これは行動の原因を説明しているのではない。

成果が出るまで行動した人を「執着心がある」と呼び、行動を止めた人を「執着心がない」と呼んでいるだけである。

なぜ工夫を続ける人と、決められた行動で止まる人がいるのか。

なぜ同じ人でも、ある仕事では改善を続け、別の仕事では指示された範囲で止まるのか。

元記事は、この違いが生まれる構造を説明していない。

「執着心」という言葉は、説明ではなく、観察された行動へのラベルなのである。

さらに、「執着心を持て」と言われても、部下は何を変えればよいのか分からない。

訪問件数を増やすのか。

説明方法を変えるのか。

対象顧客を変えるのか。

商品や価格の問題を上司へ伝えるのか。

必要な行動を特定しないまま「もっと結果にこだわれ」と求めれば、結局は精神論になる。

■KPIは成果ではなく、組織が置いた仮説である

元記事が指摘するように、KPIを守ることと成果を実現することは同じではない。

たとえば営業組織が訪問件数をKPIに設定したとする。

そこには、次のような想定が置かれている。

訪問件数が増えれば商談が増える。

商談が増えれば提案が増える。

提案が増えれば受注が増える。

受注が増えれば売上目標を達成できる。

しかし、訪問件数を達成しても、顧客が商品を必要としていなければ受注にはつながらない。商品競争力が低下している場合もある。価格が高すぎる場合もある。そもそも訪問先の選定が間違っていることもある。

つまり、KPIとは成果そのものではなく、「この行動を増やせば成果が成立する」という組織の仮説である。

部下がKPIを実行したにもかかわらず成果が出なかったなら、部下の実行方法を検証する必要がある。同時に、KPIを設計した側の仮説も検証しなければならない。

ところが元記事は、部下の姿勢だけを検証し、KPIを設計した上司や組織の判断をほとんど検証していない。

部下の「KPI自体に問題があるのではないか」という指摘を確認せずに責任転嫁と扱えば、今度はKPIを設計した側が、自らの判断責任を部下へ転嫁することになる。

■元記事は異なる責任を混同している

この問題では、少なくとも四つの責任を区別する必要がある。

成果責任とは、売上などの実現すべき状態に対する責任である。

KPI設計責任とは、どの行動が成果につながるのかを仮説として設計する責任である。

実行責任とは、決められた行動を適切に行う責任である。

改善責任とは、結果を踏まえて仮説や処理を見直す責任である。

元記事は、部下に実行責任があることを根拠として、成果責任や改善責任まで当然に部下が負うものとしている。

しかし、部下がKPIを設計しておらず、価格、商品、対象顧客、契約条件などを変更する権限も持っていないなら、成果全体を一人で成立させることはできない。

成果責任を負わせるのであれば、成果を成立させるための処理を選び、変更する権限も必要である。

権限を与えず、成果が出なかったときだけ「もっと工夫しろ」と求めるのであれば、それは成果責任を与えているのではない。

成果不成立の責任だけを部下に負わせているのである。

■「KPI以上の行動」を求めればよいわけではない

元記事は、執着心を「KPI以上の行動」として捉えている。

しかし、この定義では、成果につながる改善と、単なる行動量の増加を区別できない。

KPI以上に訪問する。

KPI以上に電話する。

KPI以上に資料を作る。

これらは、たしかにKPI以上の行動である。

しかし、訪問先が間違っているなら、訪問件数を増やしても成果は出ない。価格が原因なら、提案回数を増やしても解決しない。商品に競争力がなければ、説明の熱量だけでは限界がある。

必要なのは、KPI以上に行動することではない。

どの条件が満たされていないために成果が出なかったのかを認識し、それに対応する処理を行うことである。

自分で変更できる処理なら、自分で変える。

自分では変更できない制約なら、処理できる主体へ渡す。

KPIそのものが誤っているなら、根拠を示して更新を求める。

元記事は、この構造的な改善と、単なる努力量の増加を区別していない。そのため、「KPI以上に行動しろ」という主張は、機能していない処理をさらに繰り返すことまで正当化してしまう。

■KPIを批判することは、責任放棄ではない

もちろん、「KPIに問題がある」と言えば、それだけで部下の責任がなくなるわけではない。

自分で確認できることを確認せず、変更できることも試さず、ただ組織のせいにしているのであれば、部下にも問題がある。

しかし、問題はKPIを批判したことではない。

その後に何をしたかである。

どの条件が満たされていないと考えたのか。

その根拠は何か。

自分で何を試したのか。

何を変えれば改善すると考えたのか。

自分では変更できないものを誰に伝えたのか。

ここまで確認して初めて、責任転嫁なのか、必要な問題提起なのかを判断できる。

現場でKPIの不適合を認識し、根拠を示し、改善案を提案することは、責任転嫁ではない。組織の仮説を更新するために必要な行動である。

元記事は、この違いを確認せず、「KPIが悪い」という発言そのものを責任転嫁として扱っている。これは、KPIを疑う行為と、責任を放棄する行為を混同している。

■「言われたことだけやる部下」は、組織がつくっている

元記事は、「言われたことはやっている」と答える部下を、受動的で粘りのない人物として描いている。

しかし、そのような主体認識を組織自身が形成している可能性を見落としている。

KPIだけで評価する。

KPIから外れた行動を注意する。

改善提案を受け入れない。

権限外のことをするなと指導する。

失敗したときだけ個人責任を問う。

このような運用を続ければ、部下は「自分の仕事はKPIを実行することだ」と学習する。

決められた行動だけを行う方が安全である。

余計な提案をしない方が評価を下げられない。

失敗の可能性がある工夫は避けた方がよい。

その結果として、「言われたことはやりました」という反応が生まれる。

組織が部下の行動範囲を制限し、評価基準をKPIへ固定しておきながら、成果が出なかったときだけ自主性を求めるのであれば、問題は部下の執着心ではない。

責任、権限、評価の設計が矛盾しているのである。

■問うべきは、執着心ではなく責任と権限の構造である

元記事には、「KPIを守ることと成果を出すことは同じではない」という妥当な問題意識がある。

しかし、その問題を「執着心」で説明したことで、組織の構造的な問題を部下個人の精神力へ還元してしまっている。

本当に問うべきなのは、部下に執着心があるかどうかではない。

誰が成果を成立させる責任を負うのか。

誰がKPIを設計したのか。

誰がKPIの妥当性を検証するのか。

誰が処理を変更する権限を持つのか。

現場で発見された制約を誰が引き取るのか。

この構造が整理されているかどうかである。

冒頭の会話では、上司は部下に「もっと工夫しろ」と求めている。

一方、部下は「決められたことは実行した」と考えている。

この対立は、部下の執着心の有無から生まれているとは限らない。

上司は部下に成果責任を求めているが、部下には実行責任しか与えられていない可能性がある。

元記事は、この責任認識のずれを検討せず、部下の側だけを責任転嫁と評価している。

しかし、KPIを設計した組織がその妥当性を検証せず、成果が出なかった不足分を部下の精神力で埋めさせようとするのであれば、責任を転嫁しているのは部下だけではない。

むしろ、組織が引き受けるべき設計責任を、部下個人へ押し戻しているのである。