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スポーツ障害 運動療法専門施設 麻生スポーツ理学センター

ランニングで痛くて走れなくとも諦めさせないと誓ったブログ

患者専用トレーニング施設完備で腰痛、膝・足関節痛等の疼痛治療はもちろん、再発防止からパフォーマンス向上まで一貫サポート!

ってお決まり説明ですが、日々蛇足を書き綴るブログです。w


毎年同じなのだが、この時期はとにかく忙しい。
もう少し続く見込みだが、案の定こうして忘備録の更新も滞る。

新患もほぼ取れない状況。
それでも何とか時間を捻出して話だけは聞き、最低限の提案をする。

…のだが、その提案すら聞き入れない問い合わせが一定数ある。

実はこれ、ある共通項がある。
世代的な問題だ。

今さら「デジタル世代」なんて言葉も古いが、
物心ついた頃からスマホ、PC、ゲームが当たり前にある環境で育った世代。

この恩恵は大きい。
情報も答えも、昔とは比べものにならない速さと精度で手に入る。

ただし——当然ながら、失ったものもある。

当院の屋号にもある「理学」という言葉。
少し堅苦しいが、要はこういうことだ。

「なぜそうなったのか」「どうやって起きたのか」を考えること。

これを抜きにして結果だけ求めるのは、理学ではない。

しっかり治る人は、この部分をこちらが言わずとも理解している。
逆に、治らず繰り返す人ほどここが抜けている。

どんなに丁寧に説明しても、
計画を立てても、
そもそも“受け入れる土台”がない。

厳しく言えば、履行できない。

小生的に例えるならこうだ。
「小学校6年間でここまで出来るようになりますよ」と説明しているのに、
「思ってたのと違う」と言って3年生で辞めていく。

当然、ゴールには辿り着かない。

だが本人は「合わなかった」で終わる。

まぁ、それも自由であり、自己責任だ。

ただ一つだけ確かなのは——
悪くなったのにも、治らないのにも、必ず理由があるということ。

そしてその多くは、自分自身の思考と行動にある。

「これをすれば治る!」
そんな都合のいい話は、ほぼ存在しない。

耳障りのいい言葉に飛びつき、
結果を急ぎ、
途中でやめる。

その繰り返しで時間だけ失うのは、さすがにもったいない。

せめて一度くらい、
「なぜ?」に向き合ってみてほしい。

それが遠回りに見えて、
一番の近道なのだから。


その答えは簡単だ。
「まず自分の質問に対して、否定的に教えてください」と一言添えるだけ。

今どきのAIチャットは、とにかく共感が大原則。優しく、肯定的に、気分を害さぬように返してくる。それはそれで結構なことだが、こと問題解決となると話は別だ。

自分が抱える失敗や不調を本気でどうにかしたいのであれば、まず自分の“ダメな部分”を指摘してもらう必要がある。だがAIは、放っておくとそれをやらない。いや、やれない。

だからこそ「否定的に答えてほしい」と、こちらから条件をつける。

例えば腰痛ひとつとってもそうだ。
同じ症状でも、聞き方ひとつで「ストレッチをしましょう」とも言えば、「むやみにストレッチはするな」とも答える。
つまり答えは一つではなく、問いの質でいくらでも変わるということだ。

日々患者と向き合っていて強く思う。
「治らない」のではない。
“治るのを邪魔している何か”が、必ずある。

しかし厄介なのは、それを見つけて指摘しても、真摯に受け入れないケースが少なくないという現実だ。

運動でも、食事でも、仕事でも、人間関係でも同じ。
「こうすれば良くなる」という未来の話の前に、
「なぜこうなったのか」という過去の整理が必要だ。

反省と後悔。
耳障りは悪いが、これが人間を前に進める数少ない原動力だと、つくづく思う。

では聞こう。
叱咤激励してくれる、本当に大切な人はいるだろうか。

もし思い当たらないなら、今すぐ作った方がいい。
そしていなければ――せめてAIにその役をやらせればいい。

ただしその時は忘れるな。
「優しくしてくれ」ではなく、
「厳しく否定してくれ」と頼むことだ。


そもそも「勉強」とは何なのか。
「学習」との違いは何なのか。

今ではこの二つ、ほぼ同義語として雑に使われているが、本来は少し違う。

漢字で書けば一発だ。
勉強とは――強いて(強)勉める(勉)。
つまり、泥臭くやる“行為”そのものだ。働くことに近い。

一方の学習。
こちらは机と紙と鉛筆の世界。
情報を集め、整理し、理解した気になる“準備段階”に過ぎない。

ここを履き違える人がやたら多い。

情報をいくら詰め込んでも、それは知識ではない。
知識とは、経験でしか裏打ちされない。

やって、失敗して、痛い目見て、ようやく残るものだ。

それなのに――
やたら詳しい。やたら語る。やたらドヤ顔。

だが現場では使えない。

なぜか。
学習で止まって、勉強していないからだ。

もっと厄介なのは、
情報を知識と勘違いして振りかざすこと。

これはもう凶器である。

昨今は特にひどい。
スマホ一つで、他人の経験を“つまみ食い”できる時代。

便利になった反面、自分の器を超えた情報を抱え込み、
分別もないまま動いて、勝手に壊れる。

そして傷つく。

だがそれは、間違えたからだ。
道を外したからだ。
失敗したからだ。

ここまではいい。誰でもやる。

問題はそこから先。

自分の失敗に気づかない。
向き合わない。
他人の言葉で誤魔化す。

会ったこともない、
自分のことなど一ミリも理解していない人間の言葉を、
なぜそこまで信じられるのか。

不思議でならない。

感化、影響、感銘――
言葉は立派だが、中身はどうだ。

薄っぺらくなっていないか。

それに気づけるかどうか。
結局それも、自分次第である。