スポーツ障害 運動療法専門施設 麻生スポーツ理学センター

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ランニングで痛くて走れなくとも諦めさせないと誓ったブログ

患者専用トレーニング施設完備で腰痛、膝・足関節痛等の疼痛治療はもちろん、再発防止からパフォーマンス向上まで一貫サポート!

ってお決まり説明ですが、日々蛇足を書き綴るブログです。w


スポーツの秋。

やり過ぎボロボロシーズン突入です!w

早くも10月。

スポーツの秋です。

マラソンはいよいよシーズン突入ですが、もちろんランニングだけではありません。

夏の暑さが落ち着き、いろいろなスポーツが動きやすくなる季節。

そして同時に、

「やり過ぎボロボロシーズン」でもあります!


調子が良くなると練習したくなる。

大会が近づけば、さらに頑張る。

多少痛くても「このくらいなら大丈夫!」と続ける。

そして、膝、腰、肩、肘、アキレス腱……。

痛くなってから、慌てて治療に来る。

まあ、よくある話です。w



ただ、当院には少し違った通い方をされているスポーツ愛好家の方も、かなりいらっしゃいます。


実は当院に通われるスポーツ愛好家の方は、半分くらいが故障などの「治療」。

そして、もう半分くらいは、体調やコンディション管理のための「定期的な来院」です。



ここは、私が当院で大切にしているところです。

「痛くなったら治療する」

だけではなく、

「痛くならないように身体を管理する」

という考え方。

今の身体の状態なら、今週はどんなトレーニングをした方がいいのか。

逆に、何を控えた方がいいのか。

練習量は適切なのか。

疲労は抜けているのか。

そういうことまで含めて、その人の状態に合わせて考えます。

もちろん、痛みが出たら治療します。

でも、痛みがないから何もしなくていい、というわけでもありません。

スポーツを長く続けたいのであれば、

「壊れてから治す」だけでなく、
「壊さないために管理する」

ことも大切だと思っています。

ただ揉んで「楽になりました」で終わる。

それだけがスポーツのサポートではありません。

せっかくのスポーツの秋。

頑張るのはいい。

でも、

頑張り過ぎてボロボロになってからでは遅い。

今年は「スポーツの秋」を、

「やり過ぎボロボロの秋」にしないように。



……まあ、ボロボロになってから来てもらっても、できることはしますけどね。


前職時代は売るのが仕事、売れる靴が良い靴だった。もちろん足に良い、身体に良い、その人に合った靴が良いのは当然なのだが、良い物が必ず売れるとは残念ながら限らない。


箱にハガキでも入れて購入動機のアンケートを取ってみても、1位は価格、2位はデザイン。酷いと機能性なんかランク外。仮に最後2種類で悩んだとしても、結局好きな色の方を買ってみたり。ザ・アリガチ。


今は当然、売上ノルマなんて無いから、患者にはガチで安全と健康最優先で、おすすめシューズを提案する。


商売柄、基本全員痛くてやってくるから、痛みを最優先で見立てるのだが、フォームより重要な事が幾つもある。それは過去何度も触れている【トレーニングエラー】という、時間と頻度と強度の概念だ。


例をいくつか挙げると、その患者の職種、睡眠、食事の趣向を聞いてからでないと、適切なシューズの提案など出来はしない。そこのところは、現職の30年と、前職シューズメーカー時代の経験の賜物である。


生活も身体も常に変化する。

その変化に長く寄り添う付き合いこそが、怪我なく健康的に一歩前に進むことにつながる。


シューズ1足でも、検索クリック、好き嫌いだけで選んではならないのである。



「それは精神的なものじゃないですか?」


医療の現場では、ときどき、こういう言葉を耳にする。


しかし私は、医学的・解剖学的に説明できる可能性が残っているうちは、決して精神的要因にしてはいけないと思っている。


これは医療の大原則であり、基礎中の基礎だ。


もちろん、本当に精神的な要因が関係していることはある。


しかし、身体的な原因を十分に探らないまま「精神的なもの」としてしまうのは、あまりにも安易だ。


自律神経のせいにするのも、私はほぼ同じレベルだと思っている。


「自律神経ですね」


そう言ってしまえば、一見それらしい説明にはなる。


だが、それで何が分かったのだろうか。


「分からない」を「精神的」に置き換えてはいけない症状がある。


検査をしても、はっきりした異常が見つからない。


治療をしても、思うように改善しない。


そこで、


「精神的なものでは?」


「ストレスでしょう」


「自律神経でしょう」


と片付けてしまう。


これは、原因を突き止めたのではない。


分からないことに、それらしい名前を付けただけかもしれない。 安易に自律神経のせいにしてはならない。


本当に必要なのは、


「なぜ、この人に、この症状が起きているのか」


を考え続けることだ。


未熟だから、そういうことが起きる


もちろん、未熟が故にそういうことは起こり得る。


経験が少なければ、分からないことも多い。


知識が足りなければ、見えてこないこともある。


それ自体は仕方がない。


問題は、自分が未熟であることを自覚できるかどうかだ。


未熟な人ほど、自分の未熟さに気づかない。


だから、


「これは特殊な症例だ」


「精神的な問題だ」


「自律神経だ」


と、自分が説明できないことを別の言葉に置き換えてしまう。


一方で、自分の未熟さを自覚している人は違う。


「自分が見落としているものはないか」


「他に原因があるのではないか」


「もっと勉強しなければいけないのではないか」


と、常に原因や理由を模索する。


分からないからこそ、考える。


それが医療者としての姿勢ではないだろうか。


原因と理由は違う


そして、そもそも「原因」と「理由」の違いが分かっていなければ、話にならない。


「最近、仕事が忙しいから腰が痛い」


これは理由の一つかもしれない。


しかし、それだけでは原因を説明したことにはならない。


なぜ仕事が忙しいと腰が痛くなるのか。


どの組織に、どのような負荷がかかっているのか。


姿勢なのか。


運動なのか。


筋力なのか。


可動性なのか。


回復不足なのか。


睡眠なのか。


生活そのものなのか。


そこまで掘り下げて初めて、原因を考えることになる。


「理由」と「原因」を混同すると、診断も治療も曖昧になる。


人を診るということ


そして、もっと根本的な問題がある。


医療者は「病気」だけを見ていてはいけない。


「症状」だけでもいけない。


「検査結果」だけでもいけない。


人を診なければならない。


その人がどんな生活をしているのか。


どんな仕事をしているのか。


何をしていると痛いのか。


いつからなのか。


どのように変化してきたのか。


何を不安に思っているのか。


そして、その人がどんな人間なのか。


そこまで見て、初めて「人を診る」ということになる。


だからこそ、身体的な原因を十分に探ることもせず、すぐに「精神的なもの」としてしまうことには、私は大きな違和感がある。


それは、もしかすると、人を診るレベルに、人間としてまだ到達していないということなのかもしれない。


病気や癖は治る。でも、性格は……


小生が学んだ訓の一つに、


「病気や癖は治るが、性格は治らない」


というものがある。


これは医療にも、人間関係にも通じる話だと思っている。


病気は治療できる。


悪い癖も、本人に自覚があって努力すれば変えることができる。


しかし、長年培われた性格というものは、そう簡単には変わらない。


だからこそ、自分自身がどういう人間なのかを知ることが大切になる。


自分の未熟さを認められるか。


分からないことを「分からない」と言えるか。


分からないからこそ、調べ、考え、学び続けられるか。


医療者に必要なのは、知識だけではない。


自分の未熟さを自覚する能力こそ、最も重要な資質の一つなのではないか。


医学的・解剖学的に説明できる可能性があるうちは、精神的なものにしない。


自律神経という便利な言葉にも逃げない。


原因と理由を分けて考える。


そして、病気ではなく「人」を診る。


そのためには、まず自分自身が、人間として成熟し続けなければならない。


長く医療に携わってきた今でも、これは自分自身への戒めとしている。