「それは精神的なものじゃないですか?」
医療の現場では、ときどき、こういう言葉を耳にする。
しかし私は、医学的・解剖学的に説明できる可能性が残っているうちは、決して精神的要因にしてはいけないと思っている。
これは医療の大原則であり、基礎中の基礎だ。
もちろん、本当に精神的な要因が関係していることはある。
しかし、身体的な原因を十分に探らないまま「精神的なもの」としてしまうのは、あまりにも安易だ。
自律神経のせいにするのも、私はほぼ同じレベルだと思っている。
「自律神経ですね」
そう言ってしまえば、一見それらしい説明にはなる。
だが、それで何が分かったのだろうか。
「分からない」を「精神的」に置き換えてはいけない症状がある。
検査をしても、はっきりした異常が見つからない。
治療をしても、思うように改善しない。
そこで、
「精神的なものでは?」
「ストレスでしょう」
「自律神経でしょう」
と片付けてしまう。
これは、原因を突き止めたのではない。
分からないことに、それらしい名前を付けただけかもしれない。 安易に自律神経のせいにしてはならない。
本当に必要なのは、
「なぜ、この人に、この症状が起きているのか」
を考え続けることだ。
未熟だから、そういうことが起きる
もちろん、未熟が故にそういうことは起こり得る。
経験が少なければ、分からないことも多い。
知識が足りなければ、見えてこないこともある。
それ自体は仕方がない。
問題は、自分が未熟であることを自覚できるかどうかだ。
未熟な人ほど、自分の未熟さに気づかない。
だから、
「これは特殊な症例だ」
「精神的な問題だ」
「自律神経だ」
と、自分が説明できないことを別の言葉に置き換えてしまう。
一方で、自分の未熟さを自覚している人は違う。
「自分が見落としているものはないか」
「他に原因があるのではないか」
「もっと勉強しなければいけないのではないか」
と、常に原因や理由を模索する。
分からないからこそ、考える。
それが医療者としての姿勢ではないだろうか。
原因と理由は違う
そして、そもそも「原因」と「理由」の違いが分かっていなければ、話にならない。
「最近、仕事が忙しいから腰が痛い」
これは理由の一つかもしれない。
しかし、それだけでは原因を説明したことにはならない。
なぜ仕事が忙しいと腰が痛くなるのか。
どの組織に、どのような負荷がかかっているのか。
姿勢なのか。
運動なのか。
筋力なのか。
可動性なのか。
回復不足なのか。
睡眠なのか。
生活そのものなのか。
そこまで掘り下げて初めて、原因を考えることになる。
「理由」と「原因」を混同すると、診断も治療も曖昧になる。
人を診るということ
そして、もっと根本的な問題がある。
医療者は「病気」だけを見ていてはいけない。
「症状」だけでもいけない。
「検査結果」だけでもいけない。
人を診なければならない。
その人がどんな生活をしているのか。
どんな仕事をしているのか。
何をしていると痛いのか。
いつからなのか。
どのように変化してきたのか。
何を不安に思っているのか。
そして、その人がどんな人間なのか。
そこまで見て、初めて「人を診る」ということになる。
だからこそ、身体的な原因を十分に探ることもせず、すぐに「精神的なもの」としてしまうことには、私は大きな違和感がある。
それは、もしかすると、人を診るレベルに、人間としてまだ到達していないということなのかもしれない。
病気や癖は治る。でも、性格は……
小生が学んだ訓の一つに、
「病気や癖は治るが、性格は治らない」
というものがある。
これは医療にも、人間関係にも通じる話だと思っている。
病気は治療できる。
悪い癖も、本人に自覚があって努力すれば変えることができる。
しかし、長年培われた性格というものは、そう簡単には変わらない。
だからこそ、自分自身がどういう人間なのかを知ることが大切になる。
自分の未熟さを認められるか。
分からないことを「分からない」と言えるか。
分からないからこそ、調べ、考え、学び続けられるか。
医療者に必要なのは、知識だけではない。
自分の未熟さを自覚する能力こそ、最も重要な資質の一つなのではないか。
医学的・解剖学的に説明できる可能性があるうちは、精神的なものにしない。
自律神経という便利な言葉にも逃げない。
原因と理由を分けて考える。
そして、病気ではなく「人」を診る。
そのためには、まず自分自身が、人間として成熟し続けなければならない。
長く医療に携わってきた今でも、これは自分自身への戒めとしている。