スポーツ障害 運動療法専門施設 麻生スポーツ理学センター

スポーツ障害 運動療法専門施設 麻生スポーツ理学センター

ランニングで痛くて走れなくとも諦めさせないと誓ったブログ

患者専用トレーニング施設完備で腰痛、膝・足関節痛等の疼痛治療はもちろん、再発防止からパフォーマンス向上まで一貫サポート!

ってお決まり説明ですが、日々蛇足を書き綴るブログです。w


先日、多分肉離れのようだと言ってやってきた小学生の患者がいた。
しばらく前にも同じように痛くなり(今度は反対側)、整形外科で「肉離れですね、安静で」と言われたそうだ。

そして実際、痛みは取れた。
だから本人も親御さんも、「前回と同じ」「あぁ肉離れなんだ」と信じ、安心する。

だが、また出た。

症状、治療の詳細はここでは触れぬ。
だが厄介なのは、結果オーライだった事実そのものだ。

人は結果が良いと、途中の思考を省略する。
「治った=正しかった」と脳が勝手に変換する。

そして、
“自分は理解した”
となる。

しかし実際には、理解ではなく「納得した気になっただけ」という事が実に多い。

これは医療に限らない。
スポーツでも仕事でも、子育てでも、趣味でも全部同じ。

特に、人に何かを教える立場、使う立場になると危険性はさらに増す。

経験を積むほど、自信が付く。
だがその自信の中には、「検証を終えた気になった思い込み」がかなり混ざる。

だから昔から思う。

信じるのが先ではない。
まず理解しようとする事。

そして理解する為には、疑わねばならない。

「なぜ治ったのか」
「本当に同じ症状なのか」
「なぜ再発したのか」
「安静で治ったのか、たまたま時間経過だったのか」

そこを考えず、
“前もそうだったから”
で進み始めると、途端に思考が止まる。

以前も書いたが、経験10年前後の人間が一番危うい。

多少出来る。
多少知っている。
周囲からも認められ始める。

すると、人は「理解した側」に立った気になる。

だが本当に恐ろしいのは、その辺りから。
自分の中で答えが固定化し始める。

そしてそのまま伸びる者と、止まる者に分かれる。

小生も過去、何人も見てきた。
助言しても、「いや、自分は分かっていますので」と消えていった者達を。

出会いやチャンスは必ずあったはずなのだが、つかめぬ者はそこ止まり。


逆に、一度自分を疑えた者。
理解した“つもり”を壊せた者。
そういう人間は、後から大きく伸びた。

元スタッフにも数名いた。


だからウチでは、患者に症状名を安易に断定して話す事をあまりしない。


分かりやすさだけなら簡単だ。
「○○ですね」と言えば話は早い。

だが、その瞬間から相手は“理解した気”になる。

そしてその言葉だけが、一人歩きする。

責任とは常に付きまとう。
無責任な分かりやすさほど、実は怖いものはない。


昨晩、NHKの某番組を眺めていたら、「文化住宅」という言葉が出てきた。
久々に聞いたが、小生の頭の中にはすぐにあの木造二階建ての光景が浮かんだ。

ところが隣の妻は「聞いたことがない」と言う。
調べてみれば関西と関東で多少意味合いが違うらしいが、高度経済成長期に建てられた、風呂なし共同利用が当たり前の集合住宅。子供の頃の祖師谷には、まだいくらでも転がっていた。

つまり、小生の記憶の中では“当たり前”だったものが、すでに“知らない言葉”になっている。

当然だ。
物も言葉も、時代とともに消えていく。

建物だけの話ではない。
スポーツも、医療も、仕事の流儀も同じ。
かつての常識は、あっさりと塗り替えられ、やがて存在ごと忘れられる。

だが、今あるものはすべて、突然空から降ってきたわけではない。
誰かが試し、失敗し、改良し、積み重ねてきた結果だ。

その経緯を「古い」の一言で切り捨てるのは簡単だが、忘れた瞬間に人は同じ穴に落ちる。
人間は驚くほど学ばない。いや、正確には“忘れる”。

痛みも同じだ。
同じ場所を、同じ理由で、何度でも壊す。

そのたびに「たまたま」とか「歳のせい」とか便利な言葉で片付ける。
だが本当は、過去から何も学んでいないだけの話。

先人の知恵だの、基本だのと言うと、いかにも古臭く聞こえるが、
それを上っ面だけなぞるのもまた愚かだ。

分かった“つもり”が一番危ない。

結局のところ、
忘れてはいけないものほど、静かに消えていく。

だからこそ、意識して拾い上げるしかない。
痛みも、歴史も、言葉も。

そうしないと――また同じことを繰り返すだけなのだから。


毎年同じなのだが、この時期はとにかく忙しい。
もう少し続く見込みだが、案の定こうして忘備録の更新も滞る。

新患もほぼ取れない状況。
それでも何とか時間を捻出して話だけは聞き、最低限の提案をする。

…のだが、その提案すら聞き入れない問い合わせが一定数ある。

実はこれ、ある共通項がある。
世代的な問題だ。

今さら「デジタル世代」なんて言葉も古いが、
物心ついた頃からスマホ、PC、ゲームが当たり前にある環境で育った世代。

この恩恵は大きい。
情報も答えも、昔とは比べものにならない速さと精度で手に入る。

ただし——当然ながら、失ったものもある。

当院の屋号にもある「理学」という言葉。
少し堅苦しいが、要はこういうことだ。

「なぜそうなったのか」「どうやって起きたのか」を考えること。

これを抜きにして結果だけ求めるのは、理学ではない。

しっかり治る人は、この部分をこちらが言わずとも理解している。
逆に、治らず繰り返す人ほどここが抜けている。

どんなに丁寧に説明しても、
計画を立てても、
そもそも“受け入れる土台”がない。

厳しく言えば、履行できない。

小生的に例えるならこうだ。
「小学校6年間でここまで出来るようになりますよ」と説明しているのに、
「思ってたのと違う」と言って3年生で辞めていく。

当然、ゴールには辿り着かない。

だが本人は「合わなかった」で終わる。

まぁ、それも自由であり、自己責任だ。

ただ一つだけ確かなのは——
悪くなったのにも、治らないのにも、必ず理由があるということ。

そしてその多くは、自分自身の思考と行動にある。

「これをすれば治る!」
そんな都合のいい話は、ほぼ存在しない。

耳障りのいい言葉に飛びつき、
結果を急ぎ、
途中でやめる。

その繰り返しで時間だけ失うのは、さすがにもったいない。

せめて一度くらい、
「なぜ?」に向き合ってみてほしい。

それが遠回りに見えて、
一番の近道なのだから。