先日、多分肉離れのようだと言ってやってきた小学生の患者がいた。
しばらく前にも同じように痛くなり(今度は反対側)、整形外科で「肉離れですね、安静で」と言われたそうだ。
そして実際、痛みは取れた。
だから本人も親御さんも、「前回と同じ」「あぁ肉離れなんだ」と信じ、安心する。
だが、また出た。
症状、治療の詳細はここでは触れぬ。
だが厄介なのは、結果オーライだった事実そのものだ。
人は結果が良いと、途中の思考を省略する。
「治った=正しかった」と脳が勝手に変換する。
そして、
“自分は理解した”
となる。
しかし実際には、理解ではなく「納得した気になっただけ」という事が実に多い。
これは医療に限らない。
スポーツでも仕事でも、子育てでも、趣味でも全部同じ。
特に、人に何かを教える立場、使う立場になると危険性はさらに増す。
経験を積むほど、自信が付く。
だがその自信の中には、「検証を終えた気になった思い込み」がかなり混ざる。
だから昔から思う。
信じるのが先ではない。
まず理解しようとする事。
そして理解する為には、疑わねばならない。
「なぜ治ったのか」
「本当に同じ症状なのか」
「なぜ再発したのか」
「安静で治ったのか、たまたま時間経過だったのか」
そこを考えず、
“前もそうだったから”
で進み始めると、途端に思考が止まる。
以前も書いたが、経験10年前後の人間が一番危うい。
多少出来る。
多少知っている。
周囲からも認められ始める。
すると、人は「理解した側」に立った気になる。
だが本当に恐ろしいのは、その辺りから。
自分の中で答えが固定化し始める。
そしてそのまま伸びる者と、止まる者に分かれる。
小生も過去、何人も見てきた。
助言しても、「いや、自分は分かっていますので」と消えていった者達を。
出会いやチャンスは必ずあったはずなのだが、つかめぬ者はそこ止まり。
逆に、一度自分を疑えた者。
理解した“つもり”を壊せた者。
そういう人間は、後から大きく伸びた。
元スタッフにも数名いた。
だからウチでは、患者に症状名を安易に断定して話す事をあまりしない。
分かりやすさだけなら簡単だ。「○○ですね」と言えば話は早い。だが、その瞬間から相手は“理解した気”になる。そしてその言葉だけが、一人歩きする。責任とは常に付きまとう。無責任な分かりやすさほど、実は怖いものはない。