最近つくづく、そんな人が増えた気がする。
やりたい事を優先する。
好きな事を伸ばす。
自分らしく生きる。
言葉だけ聞けば立派なのだが、現実はそこまで単純ではない。
失敗や挫折をしない人間には、実は共通点がある。
それは「強い人」でも「才能がある人」でもなく、“やりたくない事”から逃げ続けない人間だという事。
そもそも、本当にストレスを理解している人間は、壊れる前にガス抜きをする。
愚痴を言う。
酒を飲む。
走る。
旅行へ行く。
ゴミ箱を蹴飛ばす。
方法は何でもいい。
とにかく「今、自分は嫌なんだな」と自覚している。
だから意外と溜め込まない。
逆に危ないのは、「自分は大丈夫」と言う人間。
これは長年この仕事をしていて本当に多い。
こちらが遠回しに、
「ちょっと無理してません?」
「少し休んだ方が…」
と話しても、
「あ、自分そういうの平気なんで」
と返すタイプ。
そして得てして、一年後くらいに突然ガクッと落ちる。
昔からこの業界の先輩達に、
「メンタル関係には安易に手を出すな」
と散々言われてきた。
理由は簡単。
本人ですら自覚していない事を、他人がどうこう出来るほど甘くないから。
しかも厄介なのは、ひと段落すると本人は案外ケロッとしている事だったりする。
「まぁ俺も色々あったけどね」
などと、若干武勇伝っぽく語る。
だが周囲は、その間ずっと振り回されている。
もちろん本当に病気として苦しんでいるケースもある。
だから雑に語れる話ではない。
ただ、それでも思う。 続きはその2へ...
先日、多分肉離れのようだと言ってやってきた小学生の患者がいた。
しばらく前にも同じように痛くなり(今度は反対側)、整形外科で「肉離れですね、安静で」と言われたそうだ。
そして実際、痛みは取れた。
だから本人も親御さんも、「前回と同じ」「あぁ肉離れなんだ」と信じ、安心する。
だが、また出た。
症状、治療の詳細はここでは触れぬ。
だが厄介なのは、結果オーライだった事実そのものだ。
人は結果が良いと、途中の思考を省略する。
「治った=正しかった」と脳が勝手に変換する。
そして、
“自分は理解した”
となる。
しかし実際には、理解ではなく「納得した気になっただけ」という事が実に多い。
これは医療に限らない。
スポーツでも仕事でも、子育てでも、趣味でも全部同じ。
特に、人に何かを教える立場、使う立場になると危険性はさらに増す。
経験を積むほど、自信が付く。
だがその自信の中には、「検証を終えた気になった思い込み」がかなり混ざる。
だから昔から思う。
信じるのが先ではない。
まず理解しようとする事。
そして理解する為には、疑わねばならない。
「なぜ治ったのか」
「本当に同じ症状なのか」
「なぜ再発したのか」
「安静で治ったのか、たまたま時間経過だったのか」
そこを考えず、
“前もそうだったから”
で進み始めると、途端に思考が止まる。
以前も書いたが、経験10年前後の人間が一番危うい。
多少出来る。
多少知っている。
周囲からも認められ始める。
すると、人は「理解した側」に立った気になる。
だが本当に恐ろしいのは、その辺りから。
自分の中で答えが固定化し始める。
そしてそのまま伸びる者と、止まる者に分かれる。
小生も過去、何人も見てきた。
助言しても、「いや、自分は分かっていますので」と消えていった者達を。
出会いやチャンスは必ずあったはずなのだが、つかめぬ者はそこ止まり。
逆に、一度自分を疑えた者。
理解した“つもり”を壊せた者。
そういう人間は、後から大きく伸びた。
元スタッフにも数名いた。
だからウチでは、患者に症状名を安易に断定して話す事をあまりしない。
分かりやすさだけなら簡単だ。
「○○ですね」と言えば話は早い。
だが、その瞬間から相手は“理解した気”になる。
そしてその言葉だけが、一人歩きする。
責任とは常に付きまとう。
無責任な分かりやすさほど、実は怖いものはない。
昨晩、NHKの某番組を眺めていたら、「文化住宅」という言葉が出てきた。
久々に聞いたが、小生の頭の中にはすぐにあの木造二階建ての光景が浮かんだ。
ところが隣の妻は「聞いたことがない」と言う。
調べてみれば関西と関東で多少意味合いが違うらしいが、高度経済成長期に建てられた、風呂なし共同利用が当たり前の集合住宅。子供の頃の祖師谷には、まだいくらでも転がっていた。
つまり、小生の記憶の中では“当たり前”だったものが、すでに“知らない言葉”になっている。
当然だ。
物も言葉も、時代とともに消えていく。
建物だけの話ではない。
スポーツも、医療も、仕事の流儀も同じ。
かつての常識は、あっさりと塗り替えられ、やがて存在ごと忘れられる。
だが、今あるものはすべて、突然空から降ってきたわけではない。
誰かが試し、失敗し、改良し、積み重ねてきた結果だ。
その経緯を「古い」の一言で切り捨てるのは簡単だが、忘れた瞬間に人は同じ穴に落ちる。
人間は驚くほど学ばない。いや、正確には“忘れる”。
痛みも同じだ。
同じ場所を、同じ理由で、何度でも壊す。
そのたびに「たまたま」とか「歳のせい」とか便利な言葉で片付ける。
だが本当は、過去から何も学んでいないだけの話。
先人の知恵だの、基本だのと言うと、いかにも古臭く聞こえるが、
それを上っ面だけなぞるのもまた愚かだ。
分かった“つもり”が一番危ない。
結局のところ、
忘れてはいけないものほど、静かに消えていく。
だからこそ、意識して拾い上げるしかない。
痛みも、歴史も、言葉も。
そうしないと――また同じことを繰り返すだけなのだから。


