実朝と公暁--「黄蝶舞う」と「悲鬼の娘」① | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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気がつけばとうとう二ヶ月も

ここを放り出しておりました。

 

ツイッターでは少しだけ触れていますが、

『ボクのクソリプ奮闘記』発売の後は

 

十月の大半を、英放送界の

ある方の自伝の追い込みに費やし

 

その後は今度はアメリカの

某シンガーソングライターの

評伝なんてものの、

下読みとリサーチをやっておりました。

 

たぶんどちらも来年には

出てくれるんじゃないかなあと

皮算用をしているところです。

 

もっとも評伝の方は、

これからせっせと

訳文を作るわけですが。

 

とにかくまあそんなわけで、

頭の中があんまりきちんと

鎌倉時代へと

戻ってこれぬままとなり、

 

はたと気づけばもう明後日には

あっというまに

たぶん冒頭からいきなり鶴岡なんで

 

やや慌てて今これを書いている次第。

 

 

それにしても、今年は本当に

『鎌倉殿の13人』のおかげで

なんとも不思議な楽しませ方を

堪能させていただきました。

 

思い起こせばなんといっても

“蝉の抜け殻”と

“比企の尼”のインパクトが

 

個人的には相当に

強烈だったわけでして、

 

かつて経験したことのない昂揚を

味合わさせてもらったなあという感じです。

 

いやまあ実のところ、本音を言えば

このまま行けばひょっとして

NHKさんの映像技術で

 

若宮大路の上空を乱舞する

黄色い蝶の群の姿を

目にできるんじゃないかと

 

一時期はちょっとだけ

期待してもいたのですが、

まあさすがにそこまでは。

 

 

そういうわけで、

今回から少しまとめて、

 

拙作「黄蝶舞う」と

「悲鬼の娘」という作品のお話を

この場でさせて

いただこうかと思っています。

 

この両編、表裏一体というか

対になって“鶴岡の惨劇”を

それぞれに実朝と公暁の視点から

描いた物語となっております。

 

所収はこちら。掉尾を飾る二編です。

あ、自分で飾るとか言っちゃったし。

 

 

 

まあでも、特に「黄蝶舞う」については

自分でもよく書けたなあと

つくづく思っていることは本当です。

 

けっこうきっちり

実朝の生涯を追いつつも、

 

因果をめぐる新たなドラマを

創出できたと自負しております。

 

このラストは実はかなり好き。

 

 

さて、以前にも書いた通り、

まず「悲鬼の娘」というテキストは

デビュー前にはもう草稿が

手元にあったものでして、

 

それに手を入れた上で、2006年に

『文蔵』誌さんに掲載していただき

世に出た作品であります。

 

書いている時はそういえば

公暁を主人公にした作品は、

 

たぶんきっとこれが

本邦初になるなんじゃないかな、とか

考えていた気もします。

 

特に本編については

いわゆる起承転結を

 

かなり意識しながら構成したことを、

はっきりと覚えています。

 

直前に書いていた「双樹」の方が

序破急の形だったせいもあるのかな。

 

そこで、その起承転結に、

春夏秋冬を割り振ろうとか

思いついちゃったんですよねえ。

 

ほら、鶴岡が冬だから。

 

そこをゴールにして、

なら幼年期が春で

青年期が夏でって行けば

 

けっこうきれいに決まるかな、とか

その時は思ったんですよ。

 

ところがその後史実を調べてみたら、

春と秋では本当は成立しない場面を

些少ながらつい書いちゃっておりました。

 

どうしようかなあとは

一応は思ったのですけれど、

結局そのままにしてあります。

 

杉の枯葉の褥(しとね)や

出立を飾る桜といったモチーフが

かなり嵌っているように

自分でも思えてしまったもので。

 

この点については、つい後書きで

言い訳してしまってもおります。

 

御興味がある方は御笑読ください。

 

 

それから起承転結の話で

もう一つだけ書いておくと、

 

同作の転パートでは、

筋書き的な要素のほかに、

書き方によって、

 

起、承、と続いてきた流れを

ねじ曲げてみるという

試みをやっております。

 

この「悲鬼の娘」という話は

実朝暗殺事件の

もう一人の実行犯として

 

比企一族の生き残りの

緋沙という名前の娘を

設定して進めているわけですが、

 

“転”に当たる三のパートにのみ

この緋沙の内面描写を突っ込んでいます。

 

これはあえてやってます。

 

筋書きの方でも、このパートで

公暁はようやく

実朝殺害の決意を固めるわけですけれど、

 

そういう物語の転換を、

いわば話法によって

演出できないかな、とか

考えたうえでの作為です。

 

まあ、この緋沙の心理を

ちゃんと書こうと思うと

 

入る場所がここしかないのも

また本当なのではありますが、

 

はたして意図した効果が

きちんと作れているかどうかは

 

読んでいただいた皆様の

判断に委ねるほかはありません。

 

それから本編で、

自分でもすごく

決まったはず、とか思っているのは、

 

「すでに心はなかった」

 

という一文ですね。

 

物語の終了間際、文庫版の366頁、

自分の腕の中で息絶える

緋沙を前にしての公暁の内面描写です。

 

いや、心が非(あら)ずって書いて

悲しいって読むんだよなあ、と

改めて痛感しながら

書いていた記憶があります。

 

比企の当て字がここで生きた、みたいな。

 

そしていよいよこの「悲鬼の娘」と

「双樹」の入れられる

短編集を作ろうかという段になり、

 

あとは頼朝の死ぬ場面をかけば

材料は揃うかなと、

一旦は思ったのですけれど、

 

それでは一冊にまとまった時

あまりに実朝の影が

薄くなってしまうと気づいて、

 

すでにぼんやりとアイディアのあった

「されこうべ」を後回しにし、

 

「黄蝶舞う」の構想へと

着手していったわけですが、

 

これがまあ、大変というか、

予想外というのがいいのか

 

とにかく調べれば調べるほど

この実朝という人が

面白いどころではなく、

 

ちょっとびっくりするくらい

異質な人物だったわけですが、

 

その辺りのお話は、

また次回の講釈とさせていただきます。

 

 

ただまあこういう場面で、

自分がなにかに導かれているとでも

いうのがいいのか

 

実は作品の方が、顕現する手段を

探しているんじゃないかとか

考えてしまうことは正直あります。

 

エウレカ的な手応えですね。

 

そしてこれこそはこの仕事の

醍醐味なんじゃないかとも思います。