上総介謀殺 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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いや、あの泣き声は絶対に

“武衛(ぶえい)”と聞こえるよう

加工してありますよね。

 

というわけで今回も

『鎌倉殿の13人』を

視聴した所感をちょっとだけ。

 

今回はずっと頼朝を

一人だけ“武衛”呼びしていた

 

佐藤浩市演じる上総介広常の謀殺が

メインの出来事だったわけですが、

 

実はこの“武衛”という言葉は

僕もほんの少しだけですが、

かつて自分の原稿で使っています。

 

ある作品で、吾妻鏡の

本文を一部引用しながら

 

プロットを進めていくという

手法をとっておるのですが、

 

その引用文というのが

実は虚実織り交ぜてありまして、

 

早い話、僕が作った古文擬きも

中に紛れ込ませてあったりするんですね。

 

たとえばこんなのです。

 

『十二月大 二十七日 

 丙午 終日曇る

 武衛橋供養のため相模に趣く――」

 

これはですから

それっぽく自分で書き起こしています。

 

 

ついでながら、吾妻鏡というのは

朝廷公認ではないにせよ、

政府の公式文書ではあるので、

 

こんな感じに各節が、

まずは日付とか天気の記載から

導入されていくと

いった形になっています。

 

十二月大の“大”は

大の月だったということで

 

その後の干支は、

その日の日付の干支ですね。

 

建久九年の12月27日の

干支がなんだったかって

どうすれば調べられるものか

頭を捻った記憶があります。

 

ちなみに結局丙午にしたのは

僕の成年の干支だからだったはず。

 

さらについでに触れておくと、

この吾妻鏡というのは

幕府の公式の記録でありながら、

 

ずいぶんとまとまった単位で

欠落があるというのも有名なお話で、

 

現在に伝わっているものは、

江戸幕府草創期に

 

家康が回収し揃えなおした写本が

元になっているらしいです。

 

なお、解説っぽいことを

いろいろ書いておりますが

 

僕自身はお恥ずかしながら

決して全文にきっちりと

目を通している訳ではなく

 

必要な箇所を拾い読みしたと

いう程度ですので念のため。

 

 

さて、そして今回放送回のキモである

上総介広常の謀殺もまた、

 

この吾妻鏡の欠落期間の

出来事だったりします。

 

すなわち、基本情報があまりない。

 

義仲、ひいては平家との対決を

目前にしていたこの時期に起きた

 

いわば坂東武士同士の身内争いを

ではどう解釈するかというのは

 

難しい反面、一番腕が鳴るような

箇所だったのではないでしょうか。

 

――いやあ、唸りましたね。

 

いったいこの展開、

三谷さんの頭の中で

 

どういうふうにパズルが

嵌まっていったのかなと

 

ちょっとだけ想像してしまいました。

 

武衛という、あまり一般でない尊称を

ずっと広常だけに使わせていたのは

 

ここに持ってくるためだったのか、と

ついそんなことをひとしきり。

 

そもそも武衛という言葉は、

たぶん目にも耳にも基本はあまり

入ってくることがないと思うんですよ。

 

だけど吾妻鏡にはかなり出てくる。

 

はたしてこの言葉を

見つけた三谷さんが、

 

赤ん坊って時々ぶええって泣くよね、とか

その時に思ったのか思わなかったのか。

 

そしてたぶん、広常の事件の同じ年に

義時の嫡男泰時が

誕生していることに気がついた。

 

あるいはそこから逆算しての

一連の武衛呼びだったのだろうか、と。

 

まあそんなことを考えている時点で

すっかり術中に嵌まっているなあと、

 

つくづく思ったりしておりますです。

 

しかも、この後の義時の変化に

十分な説得力を与える

展開だったよなあ、とも思いますし。

 

いやまあ、どうしても

ネタバレに気味になりますが、

 

義時と政子によってこの先

鎌倉を追われていくのは

御家人たちだけに留まりませんからねえ。

 

父親や兄にも匹敵する存在として

描かれていた広常の命運を

結果として自分の手で

潰えさせてしまった形になった。

 

迷いが消える、というよりはむしろ

ただどこまでも冷徹になれる

その根拠にも十分成り得るよなあ、と。

 

通過儀礼といってしまうには

あまりに重い。

 

そういうものを三谷さんは

小栗義時に背負わせるんだなあ、と。

 

 

そういう訳で義仲/巴はもちろん

義経の出番でさえほんの一瞬だった

寿永二年の暮れであることすら

 

すっかり忘れてしまっていた今回でした。

 

 

ちなみにですが、吾妻鏡の欠落を

埋めてやろうという試みには

僕自身も一度挑んだことがございます。

 

上でまず引き合いに出している

古文擬き云々の作品がそれです。

 

「されこうべ」と言いまして、

やはりこちらの

『黄蝶舞う』に収録されております。

 

 

機会がありましたら。

 

あと、またぞろですいませんが

こちらもやっぱり書影だけは。

 

 

 

粟津、壇ノ浦辺りは

来週から再来週にかけて

扱われるはずですので。

 

この機に是非。