『くたばれインターネット』③ | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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おかげさまでちらほらと
すでに読み終わって下さったと
思しき声も見受けられまして、

自分は面白かったけど
人を選びそうだなあといった内容の
コメントも拝見ました。

――その通りだなと思います。

たとえば、


「『ティファニーで朝食を』は、
 男性の風俗産業従事者が
 女性の風俗産業従事者をいじめる話だ。
 そうすればこの女性の風俗産業従事者も、
 男性風俗産業従事者の抱いた
 女性蔑視的な愛情を
 受け容れられるようになるからだ」

とか

「『老人と海』というのは、
 老年の域に入った市民が、
 自分のテストステロンの有効性は
 まだ物言わぬ獣を殺せるほどには
 維持されているのだということを
 どうにか誇示しようとするのだけれど、
 最後には別の物言わぬ獣に
 裏をかかれてしまうという話である」


といった記述がまあだから、
笑って許せてしまうかどうかに
絶対よるよなあ、とか思っております。

あのう、決して僕自身が
これらの作品を

こんなふうに思っている訳では
まったく全然
ちっともないので念のため。

いや、でもこの要約も決して
間違ってはいないかもなあとは
思わないでもなかったけど。


もっともどちらも目を通したのはもう
四半世紀くらい前のことになりますが。

細部なんかすっかり忘れてるし。

あ、ちなみに僕は『指輪物語』は
読もうと思って手に取って、
断念してしまったクチです。


でも、どうでしょう?

ネットの生み出した文化って
ひょっとして
こういうことじゃないですか?

何もかもが、最小限に
要約されてしまうことが可能である。

そうでないと次の情報が
入って来られなくなっちゃうから。

しかもその要約の課程には
実はどんな偏向も

そっと忍び込んでしまうことが
現実的に可能な訳です。

そういうことをふと
考えさせてしまうからこそ本書は

本国アメリカを離れ、欧州を中心とした
各国にまで伝播していったのかなと、
ちょっとだけ思わないでもありません。



それを企んでやっているのだとしたら、
この人は確かにものすごい。

でも絶対わざとやっている気がする。

きっと『ティファニー』も
『老人と海』もSFも
本人は大好きであるのに違いない。

本当はこんなもんじゃないからなと
陰で言っているような気がしないでもない。


もちろん僕がそんな気がする
だけなのかも知れない訳ですが。

でも僕自身も本書の
ほんの簡単な記述で、

北欧産のミステリーが
何故今こうも隆盛を誇っているのか

なんとなくだけどわかったような
気にもなってしまったりして、

同時に、いや、一冊も読んでもいないのに
そんな簡単に
理解できる訳ないよななどと反省しつつ

でもきっとこういうことなんだろうなと
また思いなおし、

いや、これこそウィキを読んで
何かわかることができるというのと

同じ類の錯覚ではないかと
また頭を切り換えて、

はては理解とただの情報の摂取との境界は
いったいどこに引くべきなのだろうとか
ついぐだぐだ考え出してしまい、

なんだかほんの二ページ分の
訳をやっているだけで、
実に忙しかった記憶もあります。

やはり本筋にはほぼまったく
関係のない箇所なんですが。


最初にさらっと読んでて、一番なんか、
ああ、やられたな、と
痛切に思ったのが以下の箇所。

炎上のきっかけとなった
大学の教室での講演で
ヒロインのアデレーンが
喋ったとされる台詞のうちの一部。


「ネットって本当変な世界よね。
 誰もが何に関しても
 我こそは道徳の十字軍みたいに
 振る舞うでしょ?」


――“道徳の十字軍”。

その是非について、
この場で論じるつもりも勇気も
僕にはまだないのだけれど、

でも今起きているのは
それこそ要約すると

ひょっとして
こういうことなのかもなと
思ったことは本当である。

それはアメリカでも同じなのかと。

いや、この国がそっちに
似ていっているというのが正確なのか。

簡単には断言できない問いではあるが。



表現というものはきっと
この先なべてどんどんと
短くなっていかざるを得ないのだろう。

だってみんな忙しいから。

そうすると、文意は自ずと極端になる。

ニュアンスというものが失せていく。

なんだか言葉が表明できるものが
賛同か反対のどちらかしか

許されなくなっていくような気が
ずっとしないでもないできている。

たぶん現実にそうなっている。

なんかそういう一切に
小説は負けていくのかなとか、

正直本書を読んで
思わないでもなかったです。

あり得るのは
こういう抗い方なのか、とも思ったけど。



いやだから、基本はやっぱり
笑いながら読む本なんですけどね。

ただまあ、こうしたことを
考えさせてくれる本と出会えて、

しかもそれを紹介するという
大役まで担えたことは
単純に嬉しく名誉だと思っています。

いや、この点はあとがきにも
同じことを書いているのですが。

だってねえ、似ているものが
そう簡単に見つからないことは
間違いなく確かです。

新しいってそういうことだとも思うし。

そして、大手がたぶんきっと
出版に二の足踏んだだろう理由も
わからなくもないではない。

いや、もしかして本人は
最初から自分の力だけで
世に出すつもりだったのかも知れないが、

だってこれ、それこそ
マーク・ザッカーバーグや
シェリル・サンドバーグ本人から
激しく文句付けられても仕方ないもの。


「しかしこれらは決して
 十二才の子供によって
 書かれた訳ではない、書いたのは
 マーク・ザッカーバーグである」

「なるほどシェリル・サンドバーグという女性は
 自身のキャリアのすべてにおいて、
 誰かほかの人物について触れ歩く以外のことは
 大してしていないようにも見える」


切り取るとわかりにくいかも知れないが、
決して誉めていないのはたぶん明らか。

こういうことができるだけでも
天晴れだな、と思う。

ま、片棒をかつがせてもらった訳ですが。

とにかくこんな感じの本です。

合いそうだな、と思ったら。

僕もたぶん、これを喜ぶのは
ひょっとして自分の
今まで知っている読者さんとは
全然違うのかも知れないなと思っています。

それでも遠い昔、上で挙げた
カポーティやヘミングウェイや

あるいはアーヴィングとか
アップダイクにフィッツジェラルド
マッカラーズ辺りにも
結構触れていた身としては、

アメリカの小説の今が
ちょっとだけわかったような気がして
大層楽しかったです。



でもあれですよね。
今回は大分引用しましたが、

これは僕が僕の日本語を
転載してるって解釈で押し通して
いいものなんでしょうかね。

そんなしょうもないことを
考えてしまえるのも、

翻訳という体験の
面白みの一つなのかもしれません。


今回はでは最後に
この二作品をついでながら御紹介。





はたしてちゃんとお勧めしたことに
なるのかどうかは
はなはだ疑問ではありますが。