『くたばれインターネット』② | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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では続き。

まず原書のアートワークがすごいので、
是非こちらからご覧ください。


よもやのドピンク。

何故これをいきなり持ち出したかというと、
こっちを思い出していただきたいのである。


パンクのいわば、象徴といっていい一枚である。

以前ここでたぶんついつい
書いてしまっていると思うのだが

正直僕はあまりパンクには
興味を持ってはいなかった。

アルバムにまで手を出したのは
せいぜいがザ・ジャムくらい。

それもパンクだと思って聴いてはいない。
ポール・ウェラーがいたバンドという認識である。

それがまあ、先のトレイシー・ソーンや
あるいはクリッシー・ハインドなどの
近年随時発表されている、

僕自身の若かりし日々を
彩ってくれたアーティストたちの
自伝に目を通していくうちに、

その果たした役割というのが
ものすごくよく見えてきた。


パラダイムシフトとまで言えば
言い過ぎになるのかも知れないが、

パンクとはそういう一つの
大きなきっかけでは
確かにあったのだなと
漸う認識を新たにした次第。


パンクの勃興は、たぶんプログレが
全盛期を越えた時期に当たる。

あるいはファンク・ブラザーズや
レッキング・クルーといった
スタジオミュージシャンたちによる
バンド群をも

ここに引き合いに出してしまっても
かまわないのかも知れないが、

いわばレコードの創り手という立場を、
これら技術と経験とに裏打ちされた
専門家たちの手から
結果奪い取るような形となったのが、

実はこのパンクという
現象だったのだなと
今はそんなふうに考えている。

それが現在までに至っていることは
言わずもがなでもあろう。

トレイシーが、もしパンクがなければ
自分は音楽をやっていなかっただろうと
冒頭から述懐しているのは、
間違いなくそういう理由に拠る。

自分でやればいい(DO IT YOURSELF)。
手段は幾らでもある。
やろうと思えばできる。

ピストルズもクラッシュも
ある意味でそういった
見本となっていたのだなと思う。


本当、幾つになっても
新しくわかることはたくさんある。

そしてこの現象が実は今、
映像制作の世界で起きているのが
ひょっとすると現代なのかも知れない。

ふとそんなことを考えもした。

この点はあまり今回は
掘り下げないでおくけれど。


いや、前置きが思っていたより
ずいぶんと長くなってしまったけれど、

なぜ本書の宣伝に
パンクを持ち出したかというと、

この本、成立自体が
極めてパンキッシュなのである。


そもそもこの“I HATE THE INTERNET”
本国でも最初は自費出版である。

それも本人が自分で起こした
出版社(といっていいかどうかも正直怪しい)
からの刊行である。

作者本人が某所で
記していた内容によれば、

自分のベッドの下にある一室で
印刷製本までしていたらしい。

まさにDIY(=DO IT YOURSELF)精神の
発露そのものではないか。


だからまた別のとある記事では、
毎年数限りなく刊行され
誰にも顧みられることなく消えていく

そうした一冊となっているのが
むしろ当然だったとの記述も見つかる

それが今や九ヶ国後に翻訳され、
十二ヶ国で出版されている。

そんな展開も、なんとなくだが
ピストルズを巡って起きた一連の騒動に

どこか呼応しているように
思えてしまったことも本当である。


そしてまた内容の方も
パンキッシュという形容に
実に相応しかったりする。

新旧を問わず既存の権威の一切に
まったく媚びるところがない。

むしろ噛みつくために持ち出している。


作中で多少なりとも誉められているのは
J・G・バラードにトールキン、
それからアントニー・バージェスくらいだろう。

もっとも映画の『指輪物語』はぼろくそだが。

また、このスタンスは
文体や構成といった
小説としての細部の随所にも
明らかに現われてきている。

一例を挙げると、本文では
関係詞節というものが
滅多に登場してこない。

比喩も同様である。

だから、あまり小説を読んでいる気がしない。

少なくとも文芸っぽくはまったくない。

ところが作者に言わせると
こうした“文芸作品”というものは、

「上流階級の人間によって用いられる術語で、
 無目的な性行為を、
 本質的には抵当みたいな諸々の物事に関する、
 ぐだぐだと回りくどい思考過程と結びつけて
 展開されている種類の書物を指す」

ということになってしまう。

こんな文章が登場できる小説なのである。



――小説なのか?

たぶん小説である。

ほかに呼びようがないからだ。



いやまあ本当、僕も自分が
こんな作品を本邦に
紹介することになろうなどとは
ついぞ思ってもいなかった。

そうなった経緯の詳細については
また次回以降に譲ることにするが、

でも面白くなければ最後までやらない。

むしろいろいろと
小説について常々考えていることを

随所で刺激されもした
希有な読書体験でもあったと思う。

いや、どうしても小難しく
なってしまうのだが、
でも基本はやっぱり
笑いながら読む本なのである。


駄洒落も訳した。

だから爆弾みたいだというのである。

そういうわけでもうそろそろ、
続きはまた次回の講釈ということに
させていただこうかと思う。


なお、本書は来週末辺りから
店頭に並び始める予定です。


あとついでながら、今回浅倉実は初めて、
訳者あとがきというものを
書かせていただいてもおります。

なるべくその内容とは違うことを
ここには書こうとか思って始めたら、

ついついパンクの話になってしまいました。

今一つかみどころがなくなってたら
大変申し訳ありません。


さらにちなみにこのパンクという語、
そもそもはニューヨークで
『PUNK』という雑誌が創刊されて、

それをきっかけに
音楽の一つのジャンルというか

スタイルあるいはスタンスを示す
術語として定着していったらしく、

むしろ決してイギリス起源だと
いう訳ではないのだそうで。

これもついこの前知りました。

本当、幾つになっても
新しく覚えることばかりです。



では、またぞろ最後にこちらもよろしく。


特にパンクの影響力については
本稿も相当どころではなく
本書を参考にしています。