ブログラジオ ♯153 Hard Habit to Break | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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シカゴである。

グレイテスト・ヒッツ1982-1989/シカゴ

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実はこのシカゴ、
グループとしてはアメリカで、

歴代でビーチ・ボーイズに次ぐ
売り上げ枚数を誇っているのだそう。

――え、そうなのか。

イーグルス(♯150)とか
ヴァン・ヘイレン(♯136)とか
ボン・ジョヴィ(♯137)とかの方が

チャート・アクション的には
明らかに上なのではないかと
一瞬思いもしたのだが、

よく考えてみれば
このシカゴというバンド、

これらのビッグ・ネームと比べても
圧倒的に作品数が多いのである。

しかも実働機関が極めて長い。

さらには、比較的間を置いて
いわば間歇的に
思いもかけないような
ビッグ・ヒットを出している。


まずトップ・ワン獲得曲が
実に三曲もあるのだけれど、

これが見事に
時期的にばらけている。

最初が76年で、次が82年、
そして最後が88年である。

トップ10入りを果たした
シングルとなると、

一位までいった三曲を含め、
なんと計21曲にも上る。


範囲をトップ40にまで広げれば
この数字は当然さらに増える訳で、

なるほどセールス的に、
歴代二位というふうに
いってしまっていいのかどうか、

いずれにせよそういった
意外といえばいえなくもない実績が

積み上げられていても、
確かに何ら不思議はないようである。

継続は力なりなんて言い回しが、
自ずと浮かんで来てしまうが。

それでもまあ、紆余曲折は
やはりあるものなのである。


さて、このシカゴの
レコード・デビューは
69年の出来事になるのだが、

結成となると、さらに二年遡り
67年の日付になるのだそう。

――そっか。

僕と一つしか違わないのか。


だからつまりは、
ほぼ半世紀である。

それだけの時間、
音楽に携わっているということが
いったいどういうことなのか。

それはそういう人生を
通過した人たちにしか
たぶん本当にはわからない。

非常に興味深くはあるけれど。

さて、このシカゴの原型となったのは、
当初ビッグ・シングと名乗っていた


当時大学生だった
メンバーらによって
組まれていたバンドで、

そこにすでに地元の
ローカル・バンドで

レコーディングやツアーを
経験していた

当時まだハイ・ティーンだった
ピーター・セテラをベーシストに、

それから鍵盤に
ロバート・ラムなる方なんかを
さらに迎えたところで、

シカゴはその長い歴史を
開幕することになった。

もっともデビューの際には
シカゴ交通局
(トランジット・オーソリティー)なる
バンド名を考えていたのだそうで。

ところが最初のアルバムの発表後、
本家といっていいのか、

その交通局の方から
クレーム的なものがついてしまい

結局シカゴにバンド名を改めて
そのまま今に至っているらしい。



実は僕自身はこの人たちが
70年代にどんな音を
出していたかについては、

お恥ずかしながらほぼまったく
知らないといっていい。

辛うじて上でちらりと触れた
76年の最初のトップ・ヒット

If You Leave Me Nowを
何度か耳にしたことがあるだけである。

だいたい僕らが
音とバンドの名前が
初めて一致したのがたぶん、


82年の
『素直になれなくて』の邦題で、
一世を風靡した

Hard to Say I’m Sorryなる
ヒット曲によってだったのだが

この曲の収録アルバムの時点で
すでにバンドの作品としては
なんと16枚目を数えていた。

面白いのはこの方たち、
当時までは基本的には、

自分たちの発表した
スタジオ・アルバムには

通し番号でタイトルを
振っていたので、

当然この作品は
CHICAGO 16と
名付けられていた。

当時僕はまだ高校生である。
15枚遡って聴くだけの
根気と財力とは正直なかった。

ちなみに今では
この通しナンバー

30くらいにまで
なっている模様である。


ただ、副題がつけられて、
そちらがなんというか
メインに押し出されて

プロモーションされるようには
なってきている模様である。


さて、デビュー当初から
このシカゴは

ブラスを大胆に導入した
ロック・バンドという
スタイルを標榜していた。

そういった斬新さが、
70年代の前半から中盤にかけての


彼らの躍進を
支えていたのだろうと思われる。

ところが80年代が始まる直前、
ディスコ・ブームというのが訪れる。

ビー・ジーズ(♯129)の時に
多少は触れているかと思うのだが、

シカゴはおそらくこの煽りを
真っ向から受けた形で、

70年代終盤の時期には
セールス的に極めて苦戦を
強いられてしまっていたらしい。

すごいなと思うのは、
もうすでに15枚も
アルバムを発表し、

のみならず、いわば最初の
黄金時代も
十分に築いていたというのに、

グループがグループとして
結束したまま、

次のステージを模索することを
諦めなかった点である。

前後して初代ギタリストの
ピストルの暴発による
事故死といった出来事も
彼らに襲いかかってはいるのだが、


やがてワーナー傘下の
リプリーズなるレーベルへと
移籍したシカゴは、

そこである意味
運命的ともいっていい
邂逅を果たすことになる。

プロデューサー
デヴィッド・フォスターとの
出会いである。

この方がまあ、なんというか
とんでもない才人なのである。

たぶんプロデューサーとしては
クィンシー・ジョーンズと同等か、


あるいはそれ以上の
実績を誇るのではなかろうか。

長いスパンで見ると
たぶんあの頃絶頂にいた

ナイル・ロジャーズをも
優に超えているだろう。

ただ、この人の得意な
トラックのタイプというのは、

ダンス・フロアに
はまるような音楽とは

明らかに一線を画しているので、
単純な比較はできないのだけれど。

セリーヌ・ディオンの発掘などが
たぶんこの方の業績としては
筆頭に挙がってくるのだろうし、

こちらも上手い例に
なっているのかどうか
あんまり自信もないのだけれど、

たとえばMJ(♯143)の
Earth Songを共作しているのが
この方だったりする。

だからこう、
軽快というのとはちょっと違った、


むしろ胸に迫ってくるような
タイプの旋律や音楽を

もっぱら得意とする
プロデューサーである。

そしてたぶん、このフォスターと、
セテラの感覚というのが、
実は非常に近いものだったのだと思う。

いわずもがなかもしれないが
Hard to Say I’m Sorryは、

セテラとフォスター、それに
ラムの三人の共作による作品である。


それからこの時期に新しく
バンドに加入することになった
ビル・チャップマンはたぶん、

このフォスターの推薦もあって、
正式な参加が
決まったのではないかとも思う。

さて、そのチャンプマンと
セテラの二人が
リード・ヴォーカルを
分け合っていたのが、

今回のHard Habit to Breakなる
トラックである。

最高位こそ三位止まりではあったが、
個人的には先の
Hard to Say I’m Sorryより
こちらの方が好みだったりする。

シカゴのヒット曲は
大体そうなのだが、

この曲もやはり、
ラヴ・バラードという言葉が
一番しっくりとはまる。

こういったシカゴの
いわばメロウな旋律を聴くたびに、

ひょっとするとこれがアメリカ人、
特にアングロサクソン系の人々の

琴線に一番触れてくる
メロディー・ラインなのかなあ、
なんてことを考える。


たとえばディズニー映画の
クライマックスに近いような

ダンス・シーンで
かかってきても遜色がない、

そんな手触りである。

加えて歌詞も
ちょっと普通の日常の中では

口にできないような
照れくさい言い回しが多い。


タイトルのHard Habit to Breakは
断ち切ることのできない習慣と
いう意味なのだが、

自分の元を去っていった
恋人に向けて、

君はそういう存在なのだと、
訴えかける歌詞である。

普通はクスリとかあるいは
アルコールへの依存などに
使われる表現なのだと思うのだけれど、

そこまでこう、なんというか
心酔しているということは、

まあ歌でなければ
なかなか口にする機会もないだろう。

僕は今も君に溺れているなんて、
たとえドラマの中でも

面と向かってはさすがに口に
できないのではなかろうか。

でも、そういう感情に
形を与えていくことも、

歌というものの持つ
一つの役割だろうとも
思うことは本当である。


それはまあ、小説なるものも
同じなのかもしれないけれど。


でもシカゴは本当に、
曲の後半の展開の仕方が
極めて上手いよなあと思う。

それがバンドのセンスなのか、
それともフォスターの
力に寄るところが大きいのかは、

音からだけでは
断ずることができないのだが、

Hard to Say I’m Sorryの
有名のメドレーの展開は
もちろんだし、


このHard Habit to Breakにしても、
ホーンの間奏が終わった後の展開が、

この曲をただの
ラヴ・バラードの域から

一歩どころではなく
踏み出させることに
成功しているような気がする。

とりわけこのトラックの場合
この箇所から
フェイド・アウト間際にかけての

ストリングスのアレンジが
極めて印象的である。

こういうのが一つの
フックの役割を果たし、

あれほどの大ヒットに
結びついていたのかなあと、

今回改めて耳を通して、
そんなことも考えた次第。

しかしながら
このCHICAGO 17の発表後、

70年代の中盤から
この時期にかけ、


メイン・シンガーとして
このシカゴを支えてきたセテラが
ついにバンドを離れてしまう。

どうやらこれが結構ドロドロな
対立の末の決断だったようで、

それから今に至るまで、
セテラとシカゴの共演は
一度も実現していない模様である。

その後ピーター・セテラは
これは御存知の方も
少なくないとは思うけれど、

映画『ベスト・キッド2』の
主題歌に起用された
The Glory of Loveと


それからエイミー・グラントとの
デュエットで発表した
The Next Time I Fallとで

80年代が終わるまでに
さらに二曲の
全米一位を記録することになる。

一方負けじとシカゴ本体の方も
こちらはビル・チャンプマンの
ヴォーカルで、

88年にLook Awayなる曲を
一位にまで押し上げている。

もっとも00年には
こちらのチャンプマンも

結局グループを
脱退してしまったらしいのだが、

それでもシカゴは
瓦解することなく
今も活動を続けている。

するってえと
僕より一つ下のこのシカゴは

来年結成50周年を
迎えるということになる訳で、

実はロバート・ラム以下の
結成以来ずっとバンドを離れず、
活動している四人が


本当は一番すごいのではないかと
思わなかったりしないでもない。

いや、さすがに
作品を発表する機会に関しては
苦戦しているのかもしれないが。


さて、では締めの小ネタ。

今回タイトルにした
Hard Habit to Breakと
同じアルバムの収録で、

シングル・チャートで
やはり三位にまで上昇している
You Are the Inspirationという


こちらもまた
極めてシカゴらしい
美しいバラードがあるのだけれど、

今回の小ネタはこちらの楽曲から。

この曲実は、最初はあの
ケニー・ロジャーズのために
書かれたものなのだそうで。

当時このロジャーズのアルバムも
平行してプロデュースを
手がけていたフォスターが、

セテラに楽曲の提供を
依頼したらしいのだけれど、

これがセテラ自身の
渡欧のスケジュールか
何かの都合で、

当初の段階では曲そのものが、
完成にまでは至らなかったと
いうことだったらしい。

結局話そのものが立ち消えになって
その後アルバムCHICAGO 17で

同曲については
ようやく日の目を見る
次第になったのだということである。

このケニー・ロジャーズは
ウィリー・ネルソンと並んで、


当時のカントリー界の
ビッグ・ネームだった人物である。

だからやっぱり
セテラとフォスターの書く

メロディー・ラインや
リリクスというのは、

ある意味ではアメリカの
特に白人に訴えかける何かと

親和性が高いのかもしれないと、
まあそんなことも改めて
感じないでもなかったりしている。