ブログラジオ ♯143 Thriller | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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さすがにこの辺で
取り上げておかないと
やっぱりまずいよね。

もちろんキング・オブ・ポップこと
マイケル・ジャクソンである。


スリラー/マイケル・ジャクソン

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ワールドワイドのレベルでは
たぶん今なお
誰も敵わない種類の知名度を
誇っているのではないかとも思う。


しかしあの突然の訃報から、
気がつけばもう
七年も経ってしまっているのか。

物心ついた時からすでに
シーンにいるのが
当たり前みたいだった方が
何故かいなくなってしまった世界に


すでにもうそれだけの時間、
自分が生きているのだなあと
改めて気づいてしまうと、


思わず方丈記とか
引用したい気分に
なってきたりもしてしまうが。

まあ、やらないけどね。

それどころか
よくよく考えてみれば、


この方が世を
去ってしまった年齢を

そろそろ自分自身が
超えつつあったりも
したりするのである。


そう考えるとなんだか
愕然としてしまうなあ。


まあそんな感傷は
とりあえず置いておくとして。


海の向こうにジャクソン5なる
ファミリー・グループがあって、


まだ十歳にもならない少年を
メイン・ヴォーカルに据え、
絶大な人気を
誇っていたことを知ったのは、


いったい僕自身が
幾つぐらいの時の
出来事だったのだろう。

洋楽を聴く習慣どころか、
レコードやラジオに
耳を傾けるといったことさえ


まだしていなかった
はずの時期である。


だから考えてみれば、
名前だけならばあの

ビートルズよりも先に
頭にはインプットされて
いたのかもしれないのである。


おそらくは本邦のフィンガー5が
このジャクソン5をお手本に
できあがったグループだという


そういう情報といおうか
認識が最初だったと思う。

たぶん僕自身の、
ポピュラー・ミュージックというか、
いわゆるヒット・ソングとの


極めて初期の出会いの一つが
このフィンガー5だったことは
断言してしまってかまわない。


「個人授業」とか「学園天国」とか
「恋のダイアル6700」とか

とにかくあの頃
本当に流行っていたんですよ。


子供が歌える歌だったからね。

まあだから、
いずれにせよその当時にはもう

本家といったら
相当語弊があるけれど、


とにかくこの
マイケル・ジャクソンは、


すでに押しも押されぬ
ビッグ・スターの
ポジションにいたという訳である。


そもそもジャクソン5は
71年にデビューして、


最初のシングルのABCから
実に四曲も連続で、


チャートでの一位を獲得するという
離れ業を成し遂げて、
シーンへの登場を果たしている。

このABCが、それこそ
ビートルズのLet it Beを
引きずり下ろす形で、


トップの座を奪い取ったのは、
たぶん有名な挿話なのだが、


確かに今となってみれば
非常に象徴的な出来事だったと
いえるのかもしれない。

まあこういうのは基本
後付けでしかないのだけれど。


とにかくだから登場以来ずっと、
このマイケル・ジャクソンは


ブラック・ミュージックの
先頭に立ち続けていた訳だし、

そればかりではなく
たとえばいわゆる
サブ・カルチャーの
進化とか発展みたいなものにも、


その突破口というか
先端みたいな箇所があるのだとしたら、


たぶんポップ・ミュージック全体の
そういう位置に居続け、

今なお、後続の誰も
そこに届いてはいないという、


たぶんそういった
途轍もない存在だったのだと思う。



この人のことを考えてまず、
いつも不思議といおうか、

なんだかこちらの想像の域なんて
はなからすっかり
超えてしまっているよなあと
つくづく思うのは、


彼にとっては自分が
あのマイケル・ジャクソンで
なかった時間というのは


物心ついてからずっと
一秒たりとて
なかったんだよなあという点である。

いや、言葉の上では
当然といえば
当然のことではあるのだが。


でもほかでもない、あの
マイケル・ジャクソンなのである。


上でもまず触れたように
デビュー当初からもう、

ジャクソン5の人気というものは
本当にものすごかったらしく、


すぐにメンバーというか
ジャクソン家の兄弟は
買い物や映画に行くことでさえ


ほとんど困難なような
状況になってしまったらしい。

たぶんこの時最も割を食ったのが、
当時一番年下だったマイケルで、


彼は普通に学校に通うことも叶わず、
年の近い友人と遊ぶ機会すら
すっかり奪われてしまった、


そういう少年時代を
送ることを余儀なくされたことは、
間違いがないといっていいかと思う。

そんな環境が後年、
父親への非難となって
一度は噴出したりもしているのだが、


おそらくだから彼にとっては
当時の所属会社モータウンの
レコーディング・スタジオが


ほとんど唯一の遊び場であり、
同時に学校みたいな
ものだったのではないかと思う。

そんな境遇に追い込まれた人物は、
たぶんこのマイケル以外には


後にも先にもほぼ
見つけることはできないだろう。


それでもあるインタビューで彼は
いつも心の奥底では
自分の進むべき道、

定められた仕事のようなものを
常に感じているといった主旨の
発言を残してもいる。


それは曲をパフォーマンスすることで
人々を楽しませることなんだ、と。


そんな決意がいったい幾つの頃、
彼の胸に宿ったのかは
もちろんはっきりとは
わからないのだけれど、

たぶんジャクソンズ時代に
なんといえばいいのか、


自分の宿命というか
そういうものを受け入れて、


正面から、しかも真摯に
音楽というか
エンターテイメントなるものと

向き合う覚悟を
決めたのではなかろうか、と、


まあそんなふうに
想像してみることにしている。


だからこそ、グループを離れての
ソロ・キャリアにも
こだわったのだろうし、

同時にそれ故に、ほかの誰にも
決して追いつくことの
できないだろう種類の音楽の数々を


この世界に顕現させることが
できたのではなかったかと
まあそんなふうに感じるのである。



何よりこのマイケルの
残したレコーディングを聴いて
いつも不思議に思うのは、

バッキングと歌とが
ほかのアーティストの作品では


決してありえないほど
一体となって
迫ってくる点である。


時にまるで彼の声が
一つの新しい楽器であるかの
ようにも錯覚されてきてしまう。

おそらくは緻密に計算され
構成されたに違いない、


各パートの音色と
演奏のパターンの上に


マイケル独特の唱法が
見事なまでに溶け込んでいる。

かといってヴォーカルの
メロディーとリリクスが
すっかり身を縮込めて
しまっている訳でも決してない。


この辺りがだから、
クインシー・ジョーンズの


すごいところなのかなあとも
当初は考えたりもしていたのだが、

やはり同時にマイケル本人の
意向というものも
相当強く反映されていたらしい。


もちろんこの辺りは
ソロになってからの話なのだが、


スタジオに入ったマイケルは、
その録音で予定されている楽曲の
すべてのパートを、

自分で演奏するまでのことこそ
しなかったものの、


全部のラインを
完璧に歌うことが
できていたのだという。


あの彼独特の声で、
ギターのワウのニュアンスや

あるいは複雑な
ドラミングのパターンを、


口ずさんで表現する
マイケルの様子は
確かに容易に想像できる。


だから各ミュージシャンには、
こういうふうに弾いてほしいんだと、
かなり具体的に要求を出し、

演奏がそのニュアンスに
近づけば近づいていくほど、


全体が締まっていったというか
大体そういったような感じで


各トラックは
仕上げられていったらしい。

それはつまり、
彼の頭の中には、


自分が欲しいサウンドの
ある種のヴィジョンみたいなものが、


最初から鮮明にあったと
いうことにほかならない。

加えてスタジオに入ってからは
マイケルは自分の
ヴォーカル・パートを


リハーサルすることは
ほぼまったくしなかったと、


こちらはプロデューサーの
クインシー・ジョーンズが
はっきりと証言している。

だからレコーディングに入る前には
歌はもう、ほぼ完璧に
仕上げられていたのだそうである。


こういったエピソードを知ると、
極めてストイックに
音楽なるものと向き合っていた、


この人の人物像が改めて
浮かび上がってくるような気がする。


ちなみにジャクソン5時代に
バックを努めていた
ミュージシャンの発言によると、


マイケルとそれから
姉のラトゥーヤとだけは、


ほかの兄弟が遊んでいる間も
ダンスや歌の
練習ばかりしていたそうで。

それにしても彼のヴォーカルは
上手いとかそういう形容すら
すっかり通り越し、


最早誰にも真似ができない
完成度を誇っているように思う。


それも子供の頃からである。

周囲やマスコミからも
変声期を過ぎてしまえば、


今のような人気は
維持できないだろうと
いわれ続けていた彼は、


音域を維持するために、
平素から高い声で
しゃべることを
気をつけていたのだともいう。

なるほどそれがあの声の
理由だったのかと思うと、


なんだか切なさにも似た
気持ちを覚えないでもなくなってくる。



さて、クインシーと組んだ
実質的なソロ・デビュー作である
79年のOFF THE WALLと

続いたこのTHRILLERの二枚が
シーンに与えた衝撃というのは、


本当に想像を絶するほど
すごいものだったのだろうと思う。


当時メイン・ストリームだったと
いっていいであろう、

そして後期のジャクソンズが
追いかけていた


往年のディスコ・サウンドとは
似て非なる
まったく別のものだったといっていい。


けれど同時に、
クインシーが得意としていたはずの

フュージョンとか
アーバン・ミュージックといった
括りもほとんど当たってはこない。


その種の洗練さを
十分に感じさせるのに、


基本ダンス・オリエンテッドで
あろうとすることを、
決して譲ろうとはしていない。

この時点でもう
突き抜けていたといっていい。


ユニーク、唯一無二である。

しかも音楽そのものが
それほど突出しているというのに、

さらに加えてあの
誰にも真似の出来ないであろう、
ダンス・パフォーマンスと


それから独創性に満ちた
ビデオの数々が
続々と出てきてアルバムを支える。


その突き抜け加減とでも
いうべきものは、もう最初から、

ほかの追随を許さない域に
達していたといっていい。


今更どんないい方をしても
おそらくは言葉足らずに
なってしまうだろうことは
どうにも否めないのだけれど、


マイケル・ジャクソンはやはり、
レコードというか、
ポップ・ソングそのものを

単に聴くだけのものから、
見て楽しむといおうか、


ある意味では
まったく別の新しいソフトに
進化させてしまったのだと思う。


もちろんそれは
MTVの登場などにより、
そういう潮流が
生み出され始めていた時期と

彼のソロ・キャリアの展開が
絶妙に一致していたという
背景の中での出来事ではあるのだが、


だからといって
あのThrillerの
映像の革新性は
些かも揺らぐものではない。


実際いったいどれほど
繰り返し見たことか。

とにかくどの箇所も目を離せない。

そういう、どんな形容も
拒んでくる種類の
圧倒的な強さがあった。


このマイケルの一連の作品が
あったからこそ、

MTVが当初保持していた
ブラック・ミュージックに対する
ある種の垣根を


取り払わざるを得なくなったことは、
もちろん周知の通りである。



ここでも同じことを
何度かすでに
書いているとは思うのだが、

このTHRILLERは全世界で
史上最も売れたレコードである。


その総売り上げ枚数、
実に6500万枚というから、


今後もその地位を譲るようなことは
ほぼ起こりえないないだろう。

それからもう一つ
付け加えておくべきは、
そのステージについてではなかろうか。


彼とそれから
マドンナ(♯141)の場合、


ステージはライヴというよりは
もうほとんどショウである。

音楽があるのは当然で、
シンガーはもちろんのこと、


彼あるいは彼女を
取り囲むダンサーたちと


それから巧みに組まれたセットとが
その曲の有している物語を
聴衆の前に描き出す。

そういういわば
ライヴともミュージカルとも
似て実は違っている、


新しいタイプの
エンターテイメントが
この時期のマイケルによって


創出されたのだといえば
あるいはいい過ぎに
なるのかもしれないけれど、

それでも実はその辺りが、
マドンナとこのマイケルとが、


とりわけ欧米以外の地域でも、
支持を受け続けた
理由なのではなかったかと
最近思ったりもするのである。



さて、ジャクソン5時代の
古巣モータウンから
エピックへの移籍の時の話とか、

あるいは映画「ウィズ」での
クインシー・ジョーンズとの
そもそもの出会いのこととか、


あるいはムーン・ウォークの
初披露の舞台の熱狂とか、


重要なエピソードを
今回はすっかり
すっ飛ばしてしまった気もするし、

触れたい曲も
もっといっぱいあるのだけれど、


いや、とにかくもう
この人の場合は
言葉なんてものでは、


やっぱり到底
追いつくことはできないのである。

音楽、そして映像作品の数々。

それらに触れていただくしかない。

いや、この人のことを
この記事まで知らなかった人も
ほとんどいないだろうとは思うが。


後年彼が、二度にわたって、
あまり芳しくない訴訟沙汰に


巻き込まれてしまったことは
本当に心の底から残念に思う。


捜査方法に抗議する映像や、
あるいは当時の弁護士、
周囲のスタッフの証言などを
ちらちらと垣間見る限り、

当時の精神的な消耗ぶりは、
相当なものだったらしい。


あれがなければあるいは
もっとものすごいアルバムが


あと一枚か二枚は、
世に登場してきていたかも
しれないなと、

まあそんなふうに思わずには
いられなかったりする。


それからキャリアの後期にこの人が、
世界を変えるには
まず自分を変えるべきなんだという


レノンのImagineの
内包していたものと、

非常によく似たメッセージに
到達していたことは


なんだか個人的に非常に
興味深かったりもするのだが、


その辺りはまた
機会を改めてとさせていただく。

いやあ、今回もなんだか
ひどくとりとめなく
なってしまった気がします。


キャリアを俯瞰するというのは
書いている途中に諦めました。


例によってのおつきあい、
皆様どうも有り難うございました。


では最後に例によっての締めの小ネタ。

まあこれもまた相当
有名な話ではあるのだけれど、


あのBadは実は最初は、
プリンス(♯138)との
デュエットを想定して
書かれた曲なのだそうである。

だから僕はこの曲を聴くたび、
どの辺りのラインが
プリンスに振られたはずのパートで、


そしてはたして彼ならば
どんなギター・ソロを


あの上っていくベース・ラインの
強烈なパターンに
ぶつけてきていただろうかと、

今でもそんなことを考えずには
いられなかったりするのである。



一時期は楽屋に遊びに行って
卓球をするくらいだったはずの
この二人の仲が


本当のところは
何がきっかけで
こじれてしまったのかは

今となってはわからないし、
正直いって
さほど興味がある訳でもない。


僕としてはただ今頃
天国で再会したであろう二人が


今度こそ満を持して
この曲のセッションを

最初から試みていたり
してはいないものだろうか、と


そんなことをつらつらと
想像させてもらえるだけで、
個人的には十分である。