ブログラジオ ♯147 We didn’t Start the Fire | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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ではビリー・ジョエルである。

 

今回のジャケ写は00年に出た

当時までの

オール・キャリアのベスト盤。

 

何故このチョイスになったかは、

後で説明するつもり。

 

 

実際この方については、

どの曲を取り上げようか

かなりどころではなく迷った。

 

順当ならStrangerである気もした。

 

とりわけ本邦においては

同曲の登場のインパクトは、

たぶん相当すさまじかったし、

 

おそらく現在に至るまで

我が国で一番聴かれている

このビリー・ジョエルのトラックは

 

ひょっとするとこちらに

なるのではなかろうかとも考えた。

 

何より僕自身、この

ビリー・ジョエルの名を

 

鮮明に脳裏に焼き付けられたのは、

この曲によってであったことは

絶対に間違いがない。

 

古い映画のようなピアノのイントロ。

同じ旋律を追いかけて始まる、

気障といってしまっていい口笛。

 

そしてブレイクともいえない

一瞬の間を挟んで、

 

軽くひずませたギターが

曲の前面に登場してくると、

たちまち雰囲気が一変する。

 

ロックという言葉とは

少しだけ違っている。

 

でもやはり、くくるとしたら

その範疇にしか入ってこない。

 

そういうサウンドであり、

メロディー・ラインだった。

 

ところがこれは僕自身

後になってから知ったのだけれど、

 

実はこのStranger、

アルバム・タイトルにこそ

なってはいるが、

 

本国米国では

シングルとしてカットされることが

一切なかったのだそうで。

 

なるほど確かに、

このトラックの骨格となる

メロディーラインは極めて

日本人好みであった気もする。

 

中盤の展開の箇所の旋律も、

意表を突かれこそするが、でも

むしろどこかしっくりとくる。

 

一応書いておくと、

Everyone Goes Southのラインが

出てくる辺りの箇所ね。

 

個人的にはあそこが

すごく好きだったりします。

 

まあ、どこがどうというのが

上手く説明できなくて

 

非常にもどかしくはあるのだが、

正直やはり

入り易かったのだと思う。

 

そして同曲があの頃あれほど

僕らの耳に届いてきたのは、

 

当時の日本のスタッフの中に、

このアルバムをプロモートするには、

 

日本独自の戦略を採る方が

絶対有効だろうと判断し、

それを躊躇なく実践できた

 

そういうなんというか

慧眼を有したA&Rがいた訳で、

 

やはりこれも

手放しで誉めるしかないよなあ、と

今更ながら思ったりもするのである。

 

まあでも、そもそもすべては

アルバムそのものが

 

極めて充実していればこそ、

成立する話ではあるのだが。

 

もちろん今更僕ごときが

いうまでもないことだけれど、

この作品もけだし名盤である。

 

 

さて、このTHE STRANGERの

シーンへの登場は

77年の出来事になる。

 

ちなみに当時僕はようやく11で、

たぶん初めてギターに

触ってみたくらいの時期だと思う。

 

もちろん日本と

アメリカ本国とでは

 

ヒットにも少なくない

タイムラグがあったはずだから、

 

リリースから少し遅れて、

つまりは僕の中学への進学を

挟んだくらいの時期にかけて、

 

とにかくこの

ビリー・ジョエルの音楽は

 

次から次へと

巷に流れてきていたものである。

 

全米で大ヒットしていた

Just the Way You Areを筆頭に

Honesty、My Life辺りの楽曲が、

 

まだ洋楽を聴く習慣など

ほとんどなかった僕の耳にも

入れ替わり立ち替わりに届いてきた。

 

校内放送なんかでも

よくかかっていた気がするし、

 

英語という教科の

教科書を開いたばかりだった僕らが

 

HonestyのHは

発音しないんだぜ、

みたいな会話さえ

 

交わしていたようにも

記憶していないでもないから、

 

自ずとその席巻振りが

知れてこようというものである。

 

考えてみれば

ビートルズがすでに歴史だった

僕らの世代の日常に

 

初めてリアルタイムで

入り込んできたあちらの音楽は、

彼だったのかもしれない。

 

Moving Out辺りの

テンポの速い曲も

あるにはあったが、

 

当時のこの人の印象は終始

希代のメロディー・メイカーだったと

いってしまっていいかと思う。

 

Honestyはもちろんのこと

Just the Way You Areも

New York State of Mindも

 

実に美しい旋律だよなあ、と

思いながら聴いていた気がする。

 

当時必死にコピーしていた

ビートルズの作品群の中でも

 

Let It BeやHey Judeといった

とりわけポールの手による

 

バラード・タイプの楽曲に

通じるような気配を

なんとなく感じたようでもある。

 

でも考えてみれば、それぞれに

後年クラシックの作曲にまで

手を伸ばすようになるこの二人が、

 

今に至るまである種の

コラボレーションみたいなことを

 

一切やっていないようなのも、

なんだか不思議な気もしてくる。

 

おそらく互いに通じるものは

少なくなくあるだろうに。

 

いや、そういう実績については

もし僕のリサーチ不足だったら

大変申し訳ないのだが。

 

 

さて、ビリー・ジョエルはだが、

実はいわば苦労人だったりする。

 

70年代が始まったばかりの

時期を挟む形で、

 

最初にバンドの形で68年に、

その次にディオで70年に、

 

さらには71年に最初のソロ作品と

いわば計三度にも及ぶ

 

レコード・デビューにこそ

一応こぎ着けてはいたものの、

 

どれもセールスは

ほぼ泣かず飛ばずだったと

いってよかったらしい。

 

この時期に彼は

ロック誌のライターをしたり、

 

あるいはロスへと移り住んで、

同地のナイト・クラブで

 

別名でピアノの弾き語りの

仕事をこなすなどして、

まさに糊口を凌いでいた様子である。

 

今となってみれば、

時代の方が彼を見つけるのに、

 

それだけの時間がかかったのだと

いえるのかもしれないが、

 

そしてレコード会社を移して、

いよいよ73年に発表された、

 

二作目のソロ作品PIANO MANで

ようやく全米での

大ヒットを記録するのである。

 

さらに二枚のアルバムを挟んで

登場してきたのが

冒頭から触れているこの

THE STRANGERである。

 

ちなみに同作は現在に至るまで

1000万枚のセールスを

記録しているのだそうで、

 

ここでビリーはすでに

アメリカを代表する

シンガーとなっていたのである。

 

 

その後も彼のトラックは

新譜が登場してくるたびに

必ずといっていいほど

僕らの耳にも入ってきた。

 

前述のHonestyとMy Lifeは

THE STRANGERの次作

52nd STREETからのヒットで、

 

次のGLASS HOUSESからは

You may be Rightに

It Still Rock and Roll to Meが、

 

そして過去の作品をリメイクした

81年のSONGS IN THE ATICからは

Say Goodbye to Hollywoodが

 

さらに翌82年の

THE NYLON CURTAINからは

AllentownやPressure等々と

まあそういった具合に、

 

とにかくいつも、

今現在のビリー・ジョエルが

 

どんなことをやっているかは、

さほどアンテナを張っていなくても

はっきりとわかってくる感じだった。

 

そして83年に

AN INNOCENT MANが登場してくる。

 

Tell Her About Itに

Uptown Girlなど

 

モータウン・ポップスの影響を

巧妙に昇華した

いわば上向きのトラックを中心に

 

結果として計6曲もの

シングル・ヒットを生み出すなど、

 

こちらもやはり

ほとんど化け物みたいな

作品となった。

 

しかも同作に収録のThis Timeは

ベートーヴェンの交響楽『皇帝』の

ポピュラーなメロディーに、

 

歌詞を載せ、ポップスとして

きっちりとまとめ上げたもので、

 

こんなこともできちゃうんだなあ、と

懐の深さみたいなものを

見せつけられた気分になったものである。

 

しかしビリー・ジョエルの音は

改めて、実にクロいなと思う。

 

本当にやることは

とにかく幅広いのだが、

 

根底のところで

ソウルフルとか

ゴスペルチックみたいな形容が

ひどく似合ってくる気がするのである。

 

New York State of Mindなんて

ほとんどジャズにしか

聴こえてこないし。

 

ところがそういう影響が

決して単なるコピーの域に

とどまることをしようとはせず、

 

むしろ何かが必ず

そういう枠組みの外側へ外側へと

常にはみ出していくところが、

 

このビリー・ジョエルの

キャリアを一貫する

特質なのだと

いえばいえるのかもしれない。

 

ブルー・アイド・ソウルの根幹と

通じるものがあるともいえよう。

 

そうやって考えてみると、

僕自身の好みの骨格を

作り上げていたのは、

 

実はこの人の音楽だったのかも

知れないなと、

改めてそんなふうにも思ってしまう。

 

 

さて、今回はずいぶんと

記事中に曲名を出したけれど、

 

これだけの数多の

名曲群を押しのけて

 

僕が今回の記事の標題に

掲げることを選んだのは、

 

さらに時代を降った、

89年のナンバー・ワン・ヒット

We didn’t Start the Fireである。

 

もちろん同曲も大ヒットだった。

STRANGERでの

最初の大ブレイクから実に

 

12年という歳月を数えた上で、

再びシングル・チャートでの一位を

いわばもぎ取っているところが

 

最早すごいという程度の

形容ではまるで済まないほど、

 

ビリージョエルという人の

圧倒的な存在感を見せつけている。

 

ところがこのトラックはある種

ビリー・ジョエルらしからぬほど、

 

メロディーラインや構造は

まったくもってシンプルなのである。

 

決してラップではないのだが、

ボディの部分はほとんどそちらに

振り切っているといっていい。

 

そしてこの箇所に

載せられてくる言葉たちが、

非常に異質だったのである。

 

冒頭、少しだけ引用してみる。

 

Harry Truman, Doris Day,

Red China, Johnny Ray――

 

こんな感じ。

 

発声はされてこそいないけれど、

歌詞カードの冒頭には

’49という年号が記されている。

 

つまりこのリリクス、

その西暦の各年ごとに、

 

その年を象徴するような

固有名詞たちを

ただ羅列していっているのである。

 

最初のハリー・トルーマンは

もちろん当時の大統領だけれど、

 

次に出てくるドリス・デイと

中国共産主義を挟み、

登場してくるジョニー・レイとは

 

ポップ・ミュージックの

シンガーである。

 

延々こんな感じで

63年まで毎年を

中には確かに幾つかの短文も

見つかることは見つかるのだが、

 

基本的にはアインシュタインとか

エルヴィス・プレスリーとか、

あるいはスターリンとか、

 

とにかく固有名詞だけを、

接続詞も使わず

挙げ続けていっている。

 

いや、この歌詞を初めて見た時は

すごいな、これ、と心底思った。

 

ちなみに開幕の49年とは

もちろんビリー自身が

この世に生を享けた年である。

 

それからこれも当然だと思うが、

音楽のジャンルからの

ピック・アップは

 

レノンやディランを筆頭に、

極めて多い。

 

だから、これだけのことで

ビリー自身の人生と、

 

それから同じだけの歳月の間に

アメリカという国そのものが、

通過してきた時間が、

 

なんだかここに過不足なく

浮き彫りにされて

しまっているような、

そんな気がしてきたのである。

 

もっと大袈裟にいえば、

そうだよな、歴史って

 

本当はこういうものかも

しれないんだよなあくらいに

感じいってしまった。

 

そしてしかも、このタイトルである。

 

――僕らが炎を起こした訳じゃない。

 

否定の見解であるはずの

この一文が、

 

ボディのパートの事象の羅列と

結合されることによって、

 

虚しい自問とでもいおうか

むしろどこか反語的にも響く。

 

決して我々が

灯した訳ではない炎。

 

それはもちろん

随所で仄めかされている

あらゆる戦火の

象徴的な比喩でもあるのだけれど、

 

たぶん僕らがこのトラックから

感じ取ってしまうのは

それだけでは決してない。

 

ここからは所詮

個人的な所感に過ぎなくなるが、

 

思うにそれはおそらく

前回のスプリングスティーンが

 

Born in The U.S.A.の中で

シンボルとしてアメリカに

向けていたものと

 

同じ種類の感情では

ないのかなと

思ったりもするのである。

 

生の根源に

含まれるような種類の

やり場のない憤り。

 

延々と燃え続ける炎の正体は実は

世界とか現実とか

そういったすべてなのではないか。

 

そこに様々なものが

現れては消えていく。

 

永遠とか不変なんてものは

本当は存在していない。

 

その事実はたぶん

人のみならず、

生きとし生ける物すべてにとって

 

不満の対象というか、

向けられていく

その標的になるはずである。

 

そして僕らは

決して自ら望んで

そういう世界に

身を置いた訳でもなかったはずだ。

 

その事実は常に

苛立ちに似た手触りで

僕らの日々に張り付いている。

 

同時にまた、そういう不満を

抱え込んでいるが故に初めて、

 

たぶん僕らは前に進むという

それだけのことが

なんとかできるように

なっているのではないだろうか。

 

そしてそう気づくことが

また苛立ちを誘いもするのだが、

 

まあこのトラックはいつのまに

僕にそんなことまで

考えさせてしまうほど

 

たぶん強烈で

極めて強力なのである。

 

そんなことを考え合わせるうち、

あるいはビリー・ジョエルの

最高傑作と呼ぶべきものは、

 

過去の数多の名曲群を追い越して

実はこの曲に

なってしまうのではないかと、

 

まあそんなふうに

感じるようになってきた

今日この頃だったりするのである。

 

その証拠という訳でもないけれど、

この曲あちらでは

 

その性格から学校の教科書に

採用されたりもしているのだそう。

 

まあだから、たぶん

あながち間違っても

いないのかなあと思っている。

 

それにしても40を超えた年に

こんな曲が書けてしまった

 

ビリー・ジョエルという人は

やっぱり相当すごいよなあと

つくづくそう思うのである。

 

まあ今更僕などがいうまでもない

自明のことではあるのだが。

 

でもあるいはディランの次に

ああいう俎上に昇るのは

 

ひょっとすると

この方なのかもしれませんね。

 

で、ところが僕は

お恥ずかしながら

 

このWe Don’t~を収録した

アルバムSTORMFRONTを

 

今に至るまでちゃんと

聴いていなかったりするのである。

 

いや、なんで手を出していないのか、

自分でも全然わからない。

 

まあそういう訳で、

ほんの少しだけ

悔しいような気持ちも

しないでもなかったことは本当なのだが、

 

今回の記事に関しては、

諦めてベスト盤を掲げた次第。

 

いや、できればなるべく

オリジナル・アルバムを

紹介していきたいよなあとは

常々思っていなくもないので、

 

そのいわば例外をこの

ビリー・ジョエル・クラスの大物で

やってしまいたくはなかったのである。

 

なお、ちなみに

このコンピレーションは

 

アメリカでは未だ

発売されていないのだそうで。

 

これも今回初めて知って

なんでだろうなあ、と

首を傾げているところである。

 

ただただ不思議である。

 

 

さて、では締めの小ネタに行く。

 

でも今回もやや苦しいんだよなあ。

 

今時折、企画物として単発で、

制作されてもいるようだが、

 

ちょうど彼が最初に

シーンを席巻した時期、

 

土曜か日曜のお昼の時間帯に

『ドレミファ・ドン』という

クイズ番組があった。

 

いわずもがなかもしれないけれど、

出題のテーマを音楽、

それも基本ポップ・ソングに

 

すっかり絞り込んでしまうという

まあそういった企画であった。

 

だから基本はすべて

イントロ・クイズみたいな

ものばかりだったのだが、

 

やはりある程度の

ヴァリエーションは

必要だったらしく、

 

中盤には早押しで

回答権を得た人間が

 

出題の曲名ではなく、

その楽曲の1コーラス目を全部、

歌詞を一切間違えずに

歌い切れたら得点になるという

 

そんな形の出題が

何問か挟まれていたのである。

 

これを今のリメイクの特番が

やっているのかどうかまでは

僕はさすがに知らないのだが、

 

結構難易度の高い

コーナーだったと記憶している。

 

もちろん普通は

出題は邦楽からだった。

 

もうそろそろ大体ネタは

割れてしまっているだろうとも

思うのだけれど、

まあその通りで、

 

だからある時そこで

このビリー・ジョエルの

Strangerがかかった訳である。

 

あのピアノが鳴ったところですぐ、

その日の出演者であった

岩崎(当時)宏美さんが

 

ボタンを押して

マイクの前に立ったかと思うと、

 

このStrangerのAパートを

頭からきれいに

英語で歌い切ったのである。

 

司会者含め会場も

かなり騒然としていたけれど、

 

たぶん中学生だった僕も

テレビの前で

すっかり唖然としていたものである。

 

いやあ、プロって

すごいんだなあくらいのことは

考えていたかもしれない。

 

この場面もなんだか

今に至るまでまったく

忘れるような気配もないから

 

やっぱり相当な

インパクトだったのだと思う。

 

それが理由という訳でも

決してないのだけれど、

 

岩崎宏美さんのレコードにも

比較的好きな曲が多かった。

 

『聖母たちのララバイ』以前の

『想い出の樹の下で』とか

『万華鏡』や『思秋期』とかも、

 

ひょっとして今でも結構

口ずさめたりするかもしれない。

 

いやもちろん、Aパート全部

一切間違わずにというのは

たぶん絶対無理だと思うが。