ブログラジオ ♯136 Jump | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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80年代アメリカの
ロック/ポップス・シーンを

ある一つのトラックで
代表させるとしたならば。


そういう問いを
もし真っ向から発したとして、


僕の答えはこれである。

もちろん
ポインター・シスターズである。


――な、訳がない。

いや、わかる人にしか
絶対にわからないであろうネタで
本当に申し訳ありません。

ほとんど時期を同じくして
こういう名前で活動していた
女性三人のグループがあって、


彼女たちにも同名の曲が
存在していたのである。


当然、本当はこちらである。

1984 <2015リマスター・エディション>/ヴァン・ヘイレン

¥1,512
Amazon.co.jp

いやしかし、あの頃は
まさか自分が
五十を過ぎてなお、


この人たちの音楽を聴いて
喜んでいようとは、
よもや思いもしなかった。


本当、実際にそうなってみないと
わからないことというのは、
まだまだたくさんありそうである。


改めて正式に、アメリカ編の
トップ・バッターはこちら、


ヴァン・ヘイレンである。

満を持してようやくアメリカを
ここで扱い始めるに当たっては、

トップに誰を持ってこようか、
さんざん思い悩んだものである。


順当なら九分九厘、
ボブ・ディランだろうとは、
もちろんまず考えた。


ただ個人的に
このディランに関しては、

今に至るまで何故かあまり
ハマり切れていないのである。


自分でも理由はよく
わからないままでいるのだが、


アルバムを繰り返し、
かけておくということが
なかなかできない。

いや、ベスト盤以外には、
一枚か二枚しか
まだ手にとって
いないことも本当である。


たぶん彼の全盛期と、
僕自身が洋楽に
のめりこんでいった時期が


あからさまに
ずれているせいだろうとは思う。

時代とか巡り合わせとかって
たぶん
こういうことなんだろうなあ。


もちろんこのディランが、
60年代から70年代にかけて、


様々な場面でいわば
シーンの先頭に立ち、

ロック/ポピュラー・
ミュージックというものに対して、


いわば次のステージへの
進化を促してきた、


そういう存在であることは
重々承知しているつもりだし、

ボウイと同様、あるいはそれ以上に、
後続する多くの、しかも
ジャンルなんてものすら超越した
アーティスト群に


多大な影響を与えてきたこともまた
十分わかっているつもりではある。


ディランについてはだから、
僕自身もう少しきちんと
勉強してからでないと

ここではまだ扱えないかな、と
現状では判断している。


それからこの
ヴァン・ヘイレンにしても


僕自身は決して
ヘヴィー・ユーザーとはいえない。

アルバムを頭から
全部順番にと
いった聴き方はしていない。


いやまあ、さすがに、
そういうアーティストは
そもそも数えるほどしか
いないのだが。


だからまあ、これはもう
胸を張っていってしまうが、

僕は基本的にミーハーなのである。

でも、むしろだからこその
このJumpのチョイスなのである。



さて同曲、
最早80年代が産み落とした

スタンダードの一つだと
断言してしまっていいだろう。


今は確か、
ビールのコマーシャルだっけ?


ほかにもあちこち、
思いがけないような場面で、

あのイントロのド派手な
コードワークを耳にする。


そしてその都度僕は、
唇を綻ばせるのと同時に、


今もこうやって、
このバンドを
思い出させてくれるものが、

エディのあの
超絶技巧のギターでもなければ、


デイヴィッド・リー・ロス独特の
ある種挑発的な
ヴォーカルでもないことに、


あきれるとも少し違った
それでもそれと非常によく似た

自分でも不可解な感慨を
抱かされたりしているのである。


唖然とするというと、
少なからずいい過ぎだし、
皮肉を感じている訳でもない。


ただただ不思議なのである。


さて、あの頃の僕らの多くが
このエディ・ヴァン・ヘイレンの
名前をまず最初に耳にしたのは、


78年のデビュー盤
VAN HALENに収録されていた


Eruptionなるレコーディングが
きっかけだったことは
たぶん間違いないはずである。

なんかすごいことをやっている
ギタリストがいるらしい。


そんな評判が、
なんとなく自分のベクトルが
洋楽に向いていることを


おいおい自覚し始めた僕の耳にも
どこからともなく届いてきた。

おおよそ82年頃の出来事である。

Eruption知らないの? お前。
あれは絶対聴いておいた方がいいよ。


実際にそんなやりとりが
あったかどうかはもう
まるで定かではないけれど、

なんというか、とにかくまあ、
当時の洋楽シーンを語る上での、
常識的なイディオムの一つとして、


エディの名前はまず、
僕らの元に届いてきたのである。


Eruptionは時間にして、
1分40秒余りの
小品といっていい録音である。

頭と節目にかぶさってくる
ドラムのほかは、
ギターしか聴こえてこない。


リズム・キープもなければ、
ヴォーカルはもちろん、
ベースも響いてはこない。


つまりはエディの自信の
表れとしかいいようがないのである。

なるほどそしてそのギターが実際
とんでもないことをやっていた。


いったいどういえばいいのだろう。

たとえばそれこそ、
あの白井選手の
床の演技を観ているような
感じかもしれない。

人間って
こんなことまでできるんだ。


そんな具合にただただ
あっけにとられてしまう。


いってみればそんな感覚だった。

ライトハンド奏法というのが
本邦での一般的な呼称だけれど、


あちらではどうやら
フィンガー・タピングという
呼び方の方が通りがいい模様である。


要はギターという楽器を
ストロークや
ピッキングではない方法、

つまりはプット・オンと
時にプリング・オフとを駆使して


普通では有り得ない高速の三連符か、
あるいはそれ以上の
メロディーラインを繰り出して
ソロ・パートを作り上げていく。


このエディが最も得意としたのは
そういった具合の弾き方である。

以下少し、まあ
いわば当たり前のことを書くけれど、


右利きがギターを弾く場合、
左手で音程あるいは和音を決定し、


弦に振動を与える役割、
つまり音を出す行為は
右手が受け持つのが普通である。

たぶんこれは、やはり利き手の方が
正確にリズムを取れるからだと思う。


まあこの点は、
ヴァイオリンでもチェロでも、


あるいはバンジョーでも
マンドリンでもウクレレでも、

弦楽器の名前で呼ばれるものは
おおよその場合変わらない。


二胡も琴もたぶん同じだろう。
誤解があったら申し訳ないが。


そういう意味ではこの
フィンガー・タピングそれ自体が、

音程の決定と発音を
同時に為すという意味において、


実は弦楽器よりはむしろ
鍵盤の方法論に似ている。


だからここにそもそも
ヴァン・ヘイレンのサウンドが

後にキーボード主体へと
シフトしていく
その萌芽があったのだと、


断じてしまえば、それはそれで
ややいい過ぎかもしれないが、


とにもかくにも、ジミヘンや、
あるいはジミー・ペイジ、
リッチー・ブラックモアらに並ぶ

ロック史上に名を残すであろう
天才ギタリストの名を


デビュー当初からすでに
ほぼほしいままにしていたのが、
このエディという人物だった。


しかもこのエディ、
最初に覚えたのは
やはりクラシック・ピアノで、

それからしばらくは
ドラムを叩いていたというから、
なんというかまあ、
納得するより仕方がないだろう。



さて、今回のジャケ写の1984は
バンドの実に
6枚目のアルバムに当たっている。


もちろんタイトル通り、
84年の作品である。

エディとその兄である
ドラムスのアレックスの
ヴァン・ヘイレン兄弟に、


ハイ・スクール時代の
ライヴァル・バンドからそれぞれ、


ヴォーカルのデイヴ・リー・ロスと
ベースのマイケル・アンソニーを

引き抜くような形で
ラインナップを整えたバンドは、


ロス界隈を中心にギグを重ねつつ、
一旦はキッスのジーン・シモンズの


後押しを受けるなども
していたらしいのだが、

やがてワーナーに見出され
上述のVAN HALENで
80年代が始まる前に
すでにデビューを果たしている。


Eruptionの強烈な
インパクトも手伝って、


同作は、HRバンドの
デビュー盤としては
異例の売り上げを記録する。

バンドはその後も
着実どころではない実績を
順調に積み上げていくのだが、


この時期にもロイ・オービソンの
Oh! Pretty Womanを
取り上げるなどもしているから、


ポップ・チャートへの接近を、
かなり早い時期から
模索していたことは
おそらくは確かだったのだろう。

ハード・ロックであることと
メインストリームであることの両立。


エディが目指していたのは
たぶん最初からそこだった。


そんなアプローチの中で、
彼らが仕掛けた
次のトライアルがこのJumpだった。

当時もうすでにアメリカで
おそらくは一番有名だった
HRバンドの新曲としては、


このJumpの第一印象は
あまりに異質だったに違いない。


上述のように、まず冒頭から
飛び込んでくる音からして、

いかにもシンセサイザーとしか、
形容しようのない音色である。


ストリングスとブラスとの
電気的なハイブリッド、みたいな感じ。


しかも全体を
かなり高音に寄せている。

正直、何が起こっているのか
よくわからなかった。


さらにいえばこの曲では、
皆無ではないが、
エディはほとんど
ギターを弾いてすらいない。


それでもなおかつこのJumpは
紛れもなくロックだった。

そういう意味で、この曲は十分に、
僕らやあるいは
アメリカの市場がいまだかつて


耳にしたことのなかった
サウンドだったといえるのだろう。


ある意味やはり後出し的な
見解だとは自分でも重々思うけれど、

結果的にあれほどの
ブレイク・スルーとなったのも、
十分に頷ける。


実際Jumpはビルボードでも
5週に渡って
不動のトップに君臨している。


だから、こういった種類の
ある種の突出さが、
やはり時代を作っていくのだなと、

この曲を聴くたびに
僕はもう30年以上、


そんなことをつくづく
考えさせられている訳である。



このJumpが登場していなければ
おそらくボン・ジョヴィから

ガンズ&ローゼズへと至る
アメリカン・ロックの次代の流れや、


デフ・レパード、ホワイトスネイク、
あるいはアイアンメイデンといった


イギリス系のHMバンドが、
ビルボードのチャートの上位に

相次いで名前を連ねると
いったような事態も、
たぶん起こってはいなかっただろう。


ちなみにアルバム1984の方は、
この時は残念ながら
最高位2位どまりであった。


これは当時その上に
MJのあのTHRILLERが
延々と居座り続けていたからで、

いや、本当巡り会わせというのは
あるものだよなあ、とつくづく思う。


しかも同作収録のBeat Itでは
まさにこのエディその人が、
ギターを弾いていたりするから面白い。



さて、ところがこの
1984の大成功の直後、

バンドからはすぐさま、
不穏な気配が漂い始める。


同作からのシングル・カットが
一段落ついたと思われた頃


今度はいきなり、
デイヴ・リー・ロスのソロによる
California Girlsが
いろんなところでかかり始めた。

聞けば四曲入りのシングルを
発表したのだという。


Jumpの路線をこのデイヴが実は
あまり快くは
思っていなかったなんて話も
前後してもれ聴こえてきて、


脱退が伝えらるのに、
さほどの時間は
かからなかったように記憶している。

ほどなく後任に、
すでにソロ・アーティストとして
十分知名度のあった、


サミー・ヘイガーが
起用されることが発表され、


彼をヴォーカリストに迎えた
新生ヴァン・ヘイレンによる
アルバム5150は、

バンドにとって初の、
そしてたぶん念願だった、


メイン・ストリームの
アルバム・チャートでの
トップを獲得する運びとなった。


この後もバンドは、OU812とか、
F@U♯C%Kといった

なんだか奇体なタイトルを
あえて冠したアルバムを、


発表するたび毎度毎度
それこそ当たり前のように


ほとんど力技みたいな感じで、
チャートのトップにまで
押し上げ続けていたものである。

ちなみに上の5150とは、
精神病理に懸かる、
アメリカの条例の番号だそうで、


彼らのプライベート・スタジオの
名前にも採用されている。


それからOU812の方は、
こちらは駄洒落で、
Oh, you ate one, tooと
読むのが正しいのだそう。

これにはちょっと説明が必要で、
この少し前のデイヴの
ソロ・デビュー・アルバムが


EAT’EM AND SMALE
(彼奴らを食って笑おうぜ)なる
タイトルで発売されていて、


だからエディは、
なんだ、お前も同じもん食ったのか、
みたいな感じで、

アンサー・ソングというと
決して正確ではないが、
まあそんな具合に
このタイトルを選んでいるのだそう。


そういえばジョンとポールも、
分裂直後には確か、
似たようなことをやってたよなあ、と
ちょっとだけ思わないでもなかった。



もちろん傍目からの
勝手な物言いでしかない訳だけれど、

このヘイガー期の
ヴァン・ヘイレンは


基本的には別のバンド
みたいなものだと
当時からずっと思っている。


詳しくはエクストラなどで、
機会を改めることにするつもりだが、

なんというか、
すべてが必要以上に、
アンセムチックなのである。


Dreamsとか
Can’t Stop Loving Youとか


これがヴァン・ヘイレンの
レコーディングの
イントロかと思う場面がしばしばある。

ところが、だからといって、
興を削がれてしまう訳でも
決してなかったりする。


むしろ真逆なところが、
本当に摩訶不思議である。


でも、だからたぶんこの路線が
エディが最初の最初から考えていた、

つまりは、アメリカン・
ハード・ロックの
最高峰となるべき自分たちが
やらなければならない歌なのだと、


それは同時に
あの時代が必要としていた
アメリカの音楽だったのだ、と


なんとなくだが今は、
まあそんなふうに
理解することにしている。

実際この時期のアルバムの実績は
その方向性が正しかったことの
十分な証明になっていると
いってかまわないのではないかと思う。



再び内紛めいたものが
起こってしまうのは、
96年のベスト盤制作の際だった。


この一枚のために
書き下ろされた新曲に、

エディは何故かいきなり、
デイヴに声をかけ、
ヴォーカルを入れることを
依頼するのである。


サミー・ヘイガーにしてみれば
これはたまらなかっただろう。


一緒にやってきた10年間は
いったいなんだったんだ。

そういう気持ちになって当然だと思う。

でも出来上がったトラックは、
確かにデイヴィッドの
ヴォーカルの方がはまっている。


この後当然のように
ヘイガーは一旦バンドを離れ、

またデイヴの方も、
あるいは予測される
すったもんだを嫌ってだったのか、


その背景はよくわからないけれど、
ただちに元の鞘に収まることはせず、


バンドは新たに
ゲイリー・シュナイダーなる
ヴォーカリストを迎えて、
アルバムを一枚作成する運びとなった。

これらが大体90年代が
終わる前の出来事である。


もっともこのゲイリー時代の作品は、
商業的にもさほど振るわず、


ゲイリーはすぐに脱退、
当時のトラックは、
コンピレーションに
収録されることもなければ

セット・リストに
加えられることも
どうやらほとんどないらしい。


00年代に入ってしまうと、
事態はさらに混迷を深めていく。


突然サミー・ヘイガーが復帰して、
往時のラインナップで
ツアーに出たかと思うと再び離脱、

次にはデイブとサミーが
一緒のステージに
立つような場面さえ起きる。


その後もエディの舌に
癌が発見されてしまったり、


あるいは彼の
たぶんアルコールへの依存が
リハビリが必要な
レベルになってしまったりして、

バンドとしての十分な
活動ができなくなってしまうと、


今度は結成期からの
メンバーだった、
ベーシストのマイケルが


サミーのツアーの方に
同行するようなことまで起きてしまう。

しかも一時期はこの二人、
THE OTHER HALF(一方の半分)
などとも名乗っていたようで。


それはもちろん、
ヘイガー期のヴァン・ヘイレンが


やはり一つの時代を築いたことに
大きな自負があったからだろう。

それでもさらなる紆余曲折の末、
エディとデイヴは今、
再び同じラインナップに並び、


マイケル・アンソニーの抜けた穴は
エディの息子、ヴォルフギャングが


正式にベーシストとして加入して埋め、
バンドはどうにか存続している。

ちなみに13年の来日は
この編成によってのものだった。



なんとなく、
結局はこのエディという天才に、
誰も彼もが振り回されて、


周囲に残ったのは、
血縁だけだったという気も
正直しないでもないけれど、

たぶんそういうのが
仕方のない部分として


発生してしまうのも
少しだけわかる気がしないでもない。


それだけの巨星なのである。

そして何よりも僕は、
この人がギターを弾いている時の、


なんともいえず楽しそうな表情が
見るたびにものすごく
羨ましかったりするのである。



では例によっての締めの小ネタ。

実は今回ここに何を持ってこようか、
直前まで相当悩んでいたのだけれど、


いやあ、探せばきちんと
見つかってくれるものである。


前回に引き続き、
これはトリビアの名に
相応しいよな、と
胸を張ってお届けする。


最初にデイヴが脱退した際、
後任がサミー・ヘイガーに決まるまで、


実はエディはまず
パティ・スマイスなる
女性シンガーに
声をかけているのだそうで。


これ、あのパティ・スミスでは
まったくないので念のため。

実はこの人物、何を隠そう、
僕の偏愛バンドの一つ、


SCANDALの
リード・シンガーだった方で、


ドン・ヘンリーのアルバムに
コーラスで参加したりもしているし、

ちょうどヘイガー期の
ヴァン・ヘイレンが
不動の人気を誇っていた92年には


そのD.ヘンリーをゲストに迎えた
Sometimes Love Ain’t Enough
なるデュエット・ソングが
全米2位の大ヒットを記録している。


もちろんD.ヘンリー共々
後できちんと枠を取って
紹介する予定ではいたのだが、

はからずもアメリカの一発目に
こんな形で名前を出すことと相成った。


そもそもこの人の名前を
僕がここで触れるより前に
知っていた方がいらっしゃったら、


たぶん名古屋までは、
退屈せずに新幹線が御一緒できる。

実は繰り返しやっているこのネタ、
ひそかに実話だったりする。


数年前のことになるのだが、
とある取材で
名古屋まで日帰りで同行してくれた


僕よりも十以上も若い
某誌の編集者の方が、
はからずも彼女を知っていてくれて、

僕は終始、
はしゃぎまくっていたのである。



さて、そしてこのパティに
結局断られてしまった後エディは、


今度はあのダリル・ホールに
オファーを出していたのだそうで。

どうやらこの噂は、
業界ではまことしやかに
囁かれていたらしいのだけれど、


昨15年、テレビ番組での
まさにサミー・ヘイガーとの対談の中で、


ダリル・ホール自身が
相手の質問に答える形で、
ついに認めたのだそうである。


いや、ダリル・ホールの
ヴァン・ヘイレンも
ちょっとどころではなく
興味深いとは思うのだが、


個人的にはやはり、
パティ・スマイスの
あのパワフルなヴォーカルに、


エディのギターが絡む様が
是非とも見てみたかったものだと、

痛烈にそう思っている。

もし実現していたら、
たぶんロックの歴史のどこかが


きっと大きく
変わっていただろうに違いない。