ブログラジオ ♯99 Tears in Heaven | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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さてラス前は、クラプトンである。

やはりどうしたって
取りこぼす訳には絶対にいかない。


The Clapton Chronicles/Eric Clapton

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エリック・クラプトンは
1945年の生まれ。
御年70歳の、いわば重鎮である。


ていうか、僕がお名前を
存じ上げた時からもうすでに
押しも押されぬ種類の存在だった。

だから、前回のパープル以上に、
僕ごときが記事にするのは


正直にいうとかなり腰が
引けてしまったりしないでもない。


しかも、すごく聴き込んで、
熱心に追いかけているという
訳では決してないし、

とにかくキャリアが長いので、
たぶん今回は本当に、
外枠だけという感じになる。



在籍していたグループだけでも、
ヤードバーズ、クリーム、
ブラインド・フェイス(♯75
デレク・アンド・ドミノスと挙がる。


また、パーマネントなものではないが、
ジョン・メイオール・
ブルースブレイカーズとか、

あるいは
プラスティック・オノ・バンド、
ジョージ・ハリスン&フレンズにも
名を連ねている場面がある。


さらには、
ハウリン・ウルフやB. B.キングに
A.フランクリン、
E.ジョンにP.コリンズ等々、


クレジットの有無に関わらず、
共演した大物アーティストも
数え切れない。

ほとんどもう、彼自身が、
生きた伝説であると
いってしまってかまわないだろう。


知らない方もいないと思うが、
この方は基本、ギタリストである。


だからこそ、こういう
キャリアが出来上がる。

まさに腕一本で、という感じである。


そもそも僕がこのクラプトンの
名前を初めて知ったのは


たまたま前回も触れているけれど、
ビートルズのWHITE ALBUM所収の
こちらはジョージの作品である、

While My Guitar Gently Weepsでの
あの印象的なラインがまず
最初だったことは間違いがない。


それこそ泣いているようなギターが、
トラックを見事に決定づけていた。



同作制作時のビートルズというのは、
いってしまえば空中分解寸前で、

ジョージの書いてきたトラックには、
ジョンはレコーディングにすら
参加しないといった状況だったらしい。


そんな中、ジョージはこの曲を、
何とかして、いわば完璧に
仕上げたかったのだろう。


クラプトンのスケジュールを確かめ、
朝自分の車で自宅まで迎えに行き、

スタジオへと向かうその車内で、
レコーディングへの参加を
依頼したのだという。


いうまでもないが、
ジョージはもちろん、
ビートルズ唯一無二の
リード・ギタリストである。


その彼が、自分で弾くよりも
絶対によくなると思えたというのは、
これ以上は考えられないくらいの
絶大な信頼だったといっていいだろう。

クラプトンがこの期待に、
見事に応えきったのは、
レコードに残されている通り。


とにかく、ほかの人では
決して出せない
艶みたいなものが響いてくる。



しかしながらこのハリスンと、
クラプトンとの関係というのは、

思わずちょっと首を
傾げてしまうほどややこしい。


そもそもはギターを通じて、
お互いに認め合う仲だったことは、
間違いはないはずである。


だがしかし、クラプトンは、
当時ジョージの妻だった、
パティのことを、
それこそ心底愛してしまうのである。

親友の彼女に心を奪われてしまったという
この苦悩の中から、
あのLaylaが生まれてくることになる。


これが1970年の出来事である。

その後クラプトンは、薬物とそれから
アルコールの問題を抱えこんでしまう。

もちろん、パティやジョージのことが
すべての原因だった訳ではないだろう。


少し横道に逸れるけれど、この同じ年に、
あのジミ・ヘンドリックスが、
急死してしまったことも、


彼の脳裏に影を落としていたことは、
たぶん間違いがないのだろうと思われる。

いずれにせよ、そういった思慕が
ほとんど公になりながらも、


このギタリスト二人が、
疎遠になってしまうということも
どうやらなかった模様なのである。


むしろ、互いの作品やステージに
頻繁にゲストとして参加し合っている。

親友という言葉だけでは括り切れない、
もっと強い何かが、
彼らには通い合っていたのだろうと思う。



やがてジョージとパティが離婚した後、
79年にクラプトンは
ついに彼女と結婚している。


しかも、祝賀会には
ジョージも出席していたらしい。

はたしてパティを含めた三人で
談笑するような場面はあったのか。


あったとしたら、
そこではいったい
どんな会話が交わされたのだろう。


邪推というか、
ほとんど野次馬根性だよなあとは
重々自覚しつつも、
ついついそんな想像をしてしまう。


さて、80年代を通じても、
クラプトンは比較的コンスタントに
作品を発表している。


もちろん87年のジョージの
いわば復活の狼煙となった
CLOUD NINEにも参加している。


ただし、クラプトン自身は
ティナ・ターナーや
P.コリンズとの共同作業で
話題を振り撒きこそしていたけれど、

シーンに絶大なインパクトを
与えるまでの存在感は、
正直なかったようにも思う。



シンセ・ポップ全盛のあの時代と、
クラプトンのいわば原点である
ブルース・フィーリングみたいなものが、
やや噛み合わなかったのかもしれない。


そういう訳で、僕はほとんど
彼のアルバムに手を伸ばすまでに
当時は至らなかったのである。
いやまあ、結局は言い訳なんだけれどね。


ところが90年代に入った直後、
不意に風向きが変わってくる。


MTVが企画した、
アンプラグドという
シリーズがあるのだけれど、


説明するのも野暮ではあるが、
電源を抜いて、つまり完全な
アコースティックのスタイルで、

ビッグ・ネームたちに
ステージを演ってもらい
番組を作ろうという企画であった。


開局から十年の時を走り抜け、
PVというツールの地位を
極限にまで押し上げて、


同時にシンセ・ポップ/ロックの勃興と
すっかり並走してきたといっていい
MTVそれ自身による

ある種の反動というか、
揺り戻しみたいなものだった気も、
今となればしないでもない。


この企画には、
ポール・マッカートニーやスティング、
スプリングスティーンなどが
ラインナップに名前を連ねることになる。


クラプトンの登場は92年。
そしてこの時のステージが、
ライヴ・アルバムとして発表され、

その中から、今回表題にした
Tears in Heavenが
それこそ爆発的な
大ヒットとなったのである。


それも十分頷ける、
これは本当に掛け値なしの名曲である。



さて、このTears in Heavenを
きちんと紹介するためには
決して落とすことのできない内容がある。

もっともこれも、
相当有名な話ではあるのだけれど。


同曲の発表は先述のように92年。

実はこの前年にクラプトンは、
まだ四歳だった
一人息子を亡くしているのである。

当時暮らしていたアパートの
53階からの転落事故だった。


この子がパティと間の子供では、
残念ながらないところが、


複雑というか、
なんともコメントに困る部分ではあり、

しかもこの事故の起きてしまう少し前、
89年に結局クラプトンとパティとは
別れてしまっていたりもするのだが、


いずれにせよ、この精神的な苦境を
クラプトン自身が
乗り越えるために生み出されたのが、
実は同曲なのである。



そう思って聴くと、
このトラックの美しさには、
ある種鬼気迫るようなものがある。


君は僕の名前を覚えていて
くれるのだろうか

天国というあの場所で、
もし、もう一度出会えた時に

君は変わらないままなのかな
再びまみえたその時も――


冒頭からいきなり始まる問いかけは、
もちろん息子コナーへの手向けとして、
まずは書かれたものに違いない。


だが、それだけでは決してない。
むしろこのリリクスは
そこに留まることを
絶対によしとしようとはしない。

些か堅苦しくいえば、
個人的な体験が
ある種の普遍性へと
飛翔していくその一瞬が、


このトラックには
深く刻み込まれているように
僕には思えて仕方がないのである。



使われている言葉は全編を通じ、
これ以上はなくシンプルである。

悲しみに暮れていたはずなのに、
メロディーもテンポも
穏やかとしかいいようがない。


繊細なギターワークに載せて、
クラプトンはむしろ淡々と、


おそらくは、血を吐くようにして
自身の内側から
絞り出したに違いない言葉を紡いでいく。


強くならなければならないんだ
そして前に進んでいくんだ

だって僕はこれ以上、
この天国という場所に
留まることはできないのだから――



本当、この曲はもう、
ロックとかブルースとか、
ポピュラー・ミュージックとか、

とにかくそういった
一切のカテゴライズを


はっきりと拒む域に達している、
そういう楽曲ではないかと思う。


おそらくあと
20年経とうが50年経とうが

この曲の美しさが
訴えかけてくるものが
些かも減じることはないだろう。



死者を思うこと、送ること、
それは生きている者にしかできない。


だが同時に、生きている自分たちが、
次の明日を迎えなければならないことも、
また揺るぐことのない事実なのである。

その事実と対峙する覚悟とまで
いってしまうとやや大仰な気もするが、


たぶんこの曲は、
そのための勇気をくれる。


少なくともそうできることを目指し、
曲そのものが懸命に手を伸ばしている。

そしてそれは、クラプトン自身が
この時まさに必要だったものであり、


自らの手で作り出さなければ
ならなかったものなのだろうと思う。



さて、その後96年にクラプトンは、
今度は当時シーンにおいて
絶大な存在感を誇っていた

ベビー・フェイスを
プロデューサーに迎えて、
Change the Worldを発表する。


こちらはクラプトン自身の
ソングライティングに
よるものではなかったけれど、


いずれにせよ、この二曲が
90年代の、そして今に至る
クラプトンの存在感を
決定付けたことになるのだと思う。


さて、三大ギタリストという
言い回しがあるのだそうで。


これがワールド・ワイドで
通用するものなのか、
それとも本邦の音楽マスコミの
喧伝の成果なのかはさておくとして、


もちろん今回のクラプトンを筆頭に、
ジェフ・ベックとジミー・ペイジの
三人の名前が並ぶのだそうである。


で、この三人が三人とも、
しかもこの順番で、


上でもまず最初に言及した
ヤードバーズなるバンドの
歴代ギタリストだったりする。


お恥ずかしながら同バンドの音源は、
今に至るまで、
ちゃんと聴いたことがないままなので、

どうしても歯切れが悪く
なってしまうのだけれど、


改めて、いったいどれほど
すごいバンドだったのだろうと、
つくづく思ったりもしてしまう。


本当、そのうちちゃんと
聴いておかないとならないなあ。

しかも最終的に
同バンドの活動停止を受け、


ペイジはツェッペリンを
始動させることになる訳だから、


今さらながら、その重要度たるや、
測り知れないものがあるといえよう。


という訳で、ペイジについては
ここでも一応それなりに早い段階で、


ツェッペリン(♯4)には
触れているので、
まあよしとすることにしても、


遺憾ながら、
ジェフ・ベックをこぼします。

あと、ギタリストという括りであれば、
マイク・オールドフィールドと、
ゲイリー・ムーア辺りが、


ここに挙げられて然るべき
だったのかもしれないのですけれど、
やはり枠が足りませんでした。



では締めのトリビア。

クラプトンは85年に
あのYMOのBehind the Maskを
アルバムAUGUSTでカヴァーしている。


これは僕も
リアル・タイムで聴いた気がする。


へえ、クラプトンって、
こういうのもやるんだ、と
思ったような記憶がある。

そもそも同曲に最初に注目したのは、
あのマイケル・ジャクソンで、


THRILLERの収録曲の候補に
まずは挙がっていたらしい。


これが諸般の事情で
お蔵入りになってしまい、

本人の死後発表された、
2010年のアルバムMICHEALで
ようやく日の目を見たのは、
あるいは皆様ご存知かもしれない。


で、最初にマイケルが録音した時、
彼のバックを勤めていた
キーボーディストが、


80年代の半ばに、今度はクラプトンの
バック・バンドに加わることになり、
そこで同曲のカヴァーを
クラプトンに勧めたのだそうである。


いや、世間は狭いと
いってしまっていいものなのかどうか、
迷うところではありますが。


ちなみにお名前を、
グレッグ・フィリンゲインズというこの方。


あのクインシー・ジョーンズの
いわば一派で、後年は
TOTOに加わったりもしていた模様です。