ラジオエクストラ ♭60 Master and Servant | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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デペッシュ・モードは86年の作品
収録アルバムは4th SOME GREAT REWARDS。

Some Great Reward/Depeche Mode

¥2,979
Amazon.co.jp

このバンドの
押しも押されぬ傑作というのは


個人的にはやはり
本編(♯15)でまず取り上げた
Everything Countsに尽きるのだけれど、


同曲の収録は、
このSOME GREAT~の前作に当たる、
CONSTRUCTION TIME AGAINという
85年の3rdアルバムだった。

だから、これだけの曲が、
出てきてしまったのが


今になってキャリア全体を俯瞰してみると、
少し早過ぎたのかもしれないな、というのが、


今も昔も変わらない
率直な感想だったりする。

というのはつまり、もう少しアメリカにも
名前が浸透してきてから
同曲が発表されていたとしたならば、


あるいは怪物級のヒットに
なっていたんじゃないかなと、
そんなことを想像してしまうのである。


ま、いっても仕方がないことだけれど。


さて、今回のMaster and Servantは
バンド、あるいはレコード会社が


いよいよ本格的にアメリカ進出を
考え始めた時期のトラックである。


まず同じアルバム収録の
People Are Peopleという曲が、
結構大々的にプロモーションされていた。

だがこのトラックにしても、
やっぱり普通のポップ・ソングではない。


むしろゴア特有の
シニカルで哲学的な、
訳のわからなさが全開である。



僕には理解できないんだ。
一体どんな理由が、人をして、

他者を憎むということを
可能にしているのだろう。


どうか教えてくれないだろうか。


サビに載ってきているリリクスは
大体こんな感じである。

戦争であるとか、人種差別であるとか、
そういった諸々の背後に
間違いなく潜んでいるであろう
憎悪という感情の告発である。


こんなラインを、曲がりなりにも
ポピュラーと呼ばれるジャンルの
音楽に載せて歌っている訳である。


こういうのも確信犯というのだろうか。

いずれにせよ、不思議なトラックである。

ガーンのヴォーカルがあって初めて、
ぎりぎりポップの範疇に
留まることができている気がする。



そして、このPeople Are Peopleが
ようやく全米HOT 100で、

トップ10入りこそ逃したものの、
13位にまでは上昇という、
過去最高の実績を収めたところで、


ある意味満を持して
シングル・カットされた、


とでもいった形に
本来なるべきだったのが、
今回のMaster and Servantなのである。

――いや、どうしても歯切れが悪くなる。

この歌、いきなり、
It’s a lot(like life)という


まあ言葉としては普通といえば普通の、
ファルセット気味のコーラスで開幕する。

そして、空気を切るようなとしか
形容しようのない、
奇妙なシンセサイザーの効果音が鳴り、


それこそPeople Are Peopleと同様の
インダストリアル・ミュージック全開の、
独特のリズムと

音楽というより音響とでも
いった方がよさそうな
不思議なスケールがパターンを作り出してくる。


サウンド的には本当に、
この時期のデペッシュの先鋭さ、独特さに
満ち溢れているといっていい。


――しかし。

冒頭の一節、
こいつはおおよそ人生みたいなもんさ、と
歌っている訳なのだが、


Lotのところでほぼ必ず切れるので、
むしろLoveという単語を
いおうとしているようにも聴こえる。


これも、たぶん
わざとなんじゃないのかなあ。

そういう錯覚を持った上で、
改めて曲のタイトルを眺めてみる。


――支配者と従属者。

なんとなくどころではなくいかがわしい。

さて、そろそろはっきりと書いてしまうが、
だからこの曲がテーマにしているのは
モロSMプレイなのである。


だから空気を切るような、というのは、
鞭の音なのである。


本人たちは、本当は本物を
サンプリングしたかったんだけど、などと
おっしゃっているようではあるが、
録音されているのはシンセサイザーのもの。

さすがに許してもらえなかったんだろうなあ。

そして、いっていることも、
ぎりぎりどころではなく完全にアウト。


僕を犬みたいに跪かせておくれ、とか、
君が上で、僕がその下だ、とか

仄めかし、という言葉では
到底済まないレベルまで
はっきりと口に出している。


そりゃあ放送禁止になる訳である。

しかもガーンはさらに続ける。

これは新しいゲームなんだ。

――いや、そうかもしれないけどさ。

何もこのタイミングで
これをやることないだろう。

などと、まあ外野としては、
レコード会社の立場にも同情して、
そんなことを思ったりもしますけれど。


もっとも、バンドからしてみれば、
この歌を出すという行為自体が
ひょっとしてある種の
ゲームだったのかもしれないけどね。


まあそういう訳でこれは、
ラジオではほとんど
かかることのなかった曲なのである。

ちょっとね、僕自身もさすがに、
大見得切って好きだというのが
やっぱり多少憚れないでもない。


本当にユニークで、
ある意味クールな
トラックではあるのだが。



で、このアルバムには実はもう一曲、
また別の方向から
物議をかもしたトラックが収録されている。

ラストのBlasphemous Rumoursなる
楽曲がそれである。



そもそもがBlasphemousというこの単語、
僕自身は、この曲以外では、
たぶん一度も目にしたことがない。


これ、冒涜的な、とか敬虔でないとか
そういったような意味なのだそう。

――不敬な噂。

こんなタイトルの曲、
我が国だって誰も書かないだろう


しかもこちらもまた、
ひどく不穏なトラックである。

多少誤訳は混じっているかもしれないが、
サビのラインはこんな感じ。



私はいかなる種類の冒涜的な噂の
出所にも、なってしまったりは
本当はしたくないのだけれど、


だけど神のユーモア・センスには
少なからず具合が悪くなってくる。

きっと私が死ぬ時には、
彼が笑っているのを目にすることでしょう。



この歌がこのラインの背景として
ここまでに描き出してきているのは、
一人の少女の物語である。


彼女は人生に退屈し、
16歳で手首を切るが、
この時は幸い未遂に終わる。

二年後彼女はイエスへの信仰に目覚め、
人生に新しい意味を見出すのだけれど、


交通事故に遭い、
生命維持装置の上で息絶えてしまう。


こういった皮肉な内容が、
本当に削ぎ落とされた

ほとんど無感動ともいっていいくらいの
短い言葉でまとめられているのである。


Hit by a car, Ended up――
車にゴン、はい、お終い。


やはり正確ではないが、
全編が大体こんな感じである。

正直ちょっと引いてしまう。
遺憾ながらそういう曲では確かにある。



そして最後の場面でこのトラックは、
夏の日に不意に降り出した雨に


少女の母親の涙を重ねたところで
再びあのラインに戻ってくる。

だから、サビの部分の話者は
たぶんこの母親なのだと思う。


そう思って聴いてみると、
この一見不敬なラインが
背後に隠し持っているのは、


拭えない深い悲しみなのだと
ようやくわかってくるのである。

だけどやっぱり、これをラジオから
不意にぶつけられたくはないというのも


あちらの人にとっては、
本音なのではないかとは思う。


人生は理不尽だ。
信仰でさえその域を出るものではない。

たぶんこの曲が告発しているのは
そういう揺るがしがたい事実である。


ジョンのキリスト発言ではないけれど、
真意はどうあれ、関係者が怒るのは
まあ、ある意味では仕方がないことだろう。



そしてしかもこれをまたこの人たちは、
アルバムからの三枚目のシングルに
選んだりもしてしまうのである。

この時はさすがに、
もっと柔らかいバラードとの
両A面という扱いだったようではあるが、


たぶんレコード会社もバンドも
お互いに渋々うんといったんだろうなあ。


そしてもうあえて書くまでもないことだが、
このBlasphemous Rumoursも
少なからぬステーションで
無事放送禁止のリストに載ってしまう訳である。

だからたぶん、
やっぱりこのすべては
確信犯的なのだと思う。



それでも、今回タイトルを出した三曲が
三曲ともにそれぞれ、
極めて独特な音楽であることは確かで、


とりわけBlasphemous~からは、
シニカルであるが故の美とも
形容するべきような何かが、
ひどく鮮明に伝わってくる。


つまりこのアルバムもまた、
80年代というあの時代の産んだ


極めて重要な一枚の一つであることには
疑いを差し挟む余地などないのだと思う。