『思い出のマーニー』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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ようやく観た。決して嫌いではない。
そんなことはやっぱり全然ないのだけれど。

だからこそ、今回はやや辛口になるかなあ。

思い出のマーニー

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基本ここでは、折角取り上げるのだから
読み終わっていただいて、


これ、ちょっと観てみたいかも
しれないな、くらいには

思ってもらえるようなテキストに
仕上げようとは常々思ってはいるのですよ。



そういう意味では、
さて、この作品どうしたものかな、と
思わないでもなかったのですが。


まあ、とにかく。


さて、まず最初に断っておくけれど、
本編やっぱり、
ものすごいクオリティーである。


とりわけ背景そのものの色彩や、
景色の動き、すなわち風や水面の描写、


それから人物の動作なども、
極めてスムーズであるし、

ジブリというスタジオが、様々な意味で、
今なおアニメというジャンルの
トップに君臨していることを
改めて痛感させてくれもする。


本当、毎度毎度、よくここまで
徹底して仕上げてくるよなあ、と思う。


基本は絵なのだということを
思わず忘れてしまいそうにすらなる。


前作『アリエッティ』でも
同じように感じたのだけれど、


とりわけこの米林監督の作品、
緑の使い方が印象に残る。


普通にある配色であるはずなのに、
どこかがあまり見た記憶のない種類の
明るさを感じさせてくれるのである。

かといって、ティム・バートンや、
あるいは中島哲也監督作品に見つかってくる、
サイケデリックさをまとうようなこともない。
この辺の匙加減が絶妙である。


そして、この鮮明なグリーンの印象は、
おそらくは監督の想定している
物語、あるいは作品全体のテーマ、


いわば上向きのエンディングへと
向かおうとするベクトルと、
きっちりと呼応しているようにも思える。


こういう舞台装置/細部が
しっかりとしていることが、


物語、特にファンタジーのニュアンスを
骨格として有する作品群の
基本的な入り口というか、


受け手の全体へのシンパシーを左右する、
その前提と成る種類の要件であることは、
たぶん断言してしまって大丈夫だろう。

だから、物語の舞台がようやく都会を離れた時、
やはり期待はいや増したのである。



もちろんこの点には、美術の種田さんの
センスのすごさもあるのだけれど、


それを全体の中で統御していくのは、
最終的にはやはり監督の手腕だろうと思う。

その意味でこの米林監督なるお方、
画面全体の印象をまず頭の中で想定し、
絵や構図を決定していくことに関し、


十分に非凡なセンスと、
それからこだわりとを
備えておられる方なのだろうと思う。



まあでも、例によってこういうのは、
外野からの勝手な想像の域を
決して出ることのない印象でしかない訳で、

もし万が一、このテキストのここから先が
御本人の目に止まったりして、
不快なお気持ちにさせてしまったら、
それは確かに申し訳なくは思うのだけれど、


それでも、自分の名前を冠して
作品を発表していくということは、


それにかかる毀誉褒貶のすべてを、
引き受けるということでもあるし、

そして、その中に次に繋がるヒントや契機が
見つかってくるという場面も
決して皆無ではないはずなので、


その辺は、米林監督も、
十分おわかりなのではないかと思われる。


まあ、こういうのもやはりまた、
僕の勝手な想像に過ぎないものでは
あるのだけどね。


なお、今さらながらという気も
多少しないでもないけれど、


こと本作に関しては、恐縮ながら僕は
きちんと原作にまで目を通したうえで、
本テキストを書いている訳では決してない。


むしろまったく、映画から受けた
印象だけを頼りに書いている。

だから、以下のテキストで
原作に言及している部分に関しては


基本すべてが想像であることを
ご理解の上で、この先については
読み進めていただければな、と思います。



さて、おそらくこの
『思い出のマーニー』という作品の
骨格となっているプロットの中で、

クライマックスと成り得る、
すなわち、受け手にとってのカタルシスを、
成立させられる可能性を持っている
要素というのは、実は二つある。


一つはもちろん、メイン・ヒロインである、
杏奈というやや狭量な少女の成長であり、


もう一つはマーニーの正体にかかる
ある種の謎解き/サプライズである。

もちろんこの両者は
互いに密接に関わり合いながら、
物語を成立させている。


そもそもが、マーニーの登場は
ヒロイン杏奈の成長を
外部から促すためのものであり、


そして、この因果関係こそが、
ラスト間際で明かされることになる

このもう一人のヒロインの正体を
説得力のあるものにする。



しかしながら、その両方を
過不足なく成立させるためには、


本編の場合、明らかに、
尺が足りていないのである。

脚本の段階で、もう少しきっぱりと、
作り手側がきちんと焦点を絞れて
いるべきだったのではないのか。


まあだから、所詮外野なので
また勝手なことをいってしまうけれど、
観終わったところでどうにも、
そういった印象が否めなかったのである。



おそらく米林監督は、やっぱり両方とも
作中でちゃんと消化したかったのだろう。

そうすると、どうしても
外すことのできない
シークエンスというのが、


倍とまではいわないが、
少なからず増えてきてしまうことになる。


たぶん原作では、もう少しこの
マーニーの杏奈への接し方が
注意深く描かれているのではないかとも思うし、

杏奈のモノローグも、
それなりに複雑なのではないだろうか。



だから、ここから先は最早ほとんど
邪推の域に入り込んでしまうのだけれど、


第一稿の段階では、脚本の全体が、
もう少し丁寧に、細部を拾っていたのでは
なかったろうかと思うのである。

それを、一時間半あまりという
興業的な判断から、どうしても
越えられない尺の中に収めるために、


ヴィジュアル的なキー・モチーフの方に
やや重きを置き過ぎて取捨選択が為され、


言葉なり台詞なりを
乱暴に削り過ぎたのではないのか。

まあ、そんなふうに
感じてしまった次第である。



とりわけ中盤で、マーニーの言葉を、
自分のものとして引き受けることによって、
多少なりとも達成されたはずの杏奈の成長が、


タイミング的な意味では
最大のクライマックスとなっている、
一連のサイロのシークエンスの後で、

まるでチャラになってしまったようにしか、
受け止められなかった点については
大いに不満を感じざるを得なかった。



原作に、この部分をきちんと説明し、
納得させてくれる要素があるのかどうかは、
遺憾ながら未確認のままではあるのだけれど、


端的にいって、本編に関しては終始、
時系列的なポイントだけを点的に繋げた、

いわば単なるダイジェストのような印象が、
最後まで拭えなかったのである。



全編の焦点を、マーニーの正体の
開示に絞るのであれば


この少女の言動には、もう少しでいいから、
ある種の老獪さを感じさせる要素が
随所で提示されていなければならないだろう。

この場合、杏奈の持つバック・グラウンドや、
とりわけ同年代の少女たちとの関係は
もっと割愛されることになる。



逆に杏奈の成長をメインに据えるのであれば、
極端な話をいってしまえば、
マーニーの正体にかかる設定そのものを
一切説明せずにしてしまうこともできたはずである。


そしてもちろん、
どうしても両方を成立させるのであれば、

時間的な外枠を思い切って壊してしまうしか
方法はなかったのではないかと思われる。



宮崎作品と比べるのが酷なことは
十分承知でいうけれど、


『もののけ~』にせよ
『千と千尋~』にせよ、

物語の中で主人公が出会う異世界を
きちんと説明しようとすることは
いわば最初から放棄されている。


むしろあの『もののけ』のコダマのように
得体の知れないものを得体の知れないまま、
受け手に提示できるという点こそが、


実はアニメという手法の
最大の利点なのではないかとも思うのである。


正直にいって、僕はやっぱり、
アニメという表現手段を
どこかでひどく羨ましく思っている。


それこそ『もののけ』のあのラスト間際の
粘着質の濁流など、まさに好例なのだけれど、


文字だけでは到底表現できるはずもない
異質な存在やイメージを、

映像というのものは
実に軽々とそこに出現させてしまう。



翻って小説の場合、音や色だけで、
はっきりいってもう手一杯である。


自作の話で恐縮だが、
『向日葵の迷路』や
『雪の夜話』なる作品辺りでは、

プロットをきちんと提示する傍らで、
どうやったら色が文章になるか、
みたいなことにも、
割と真剣に挑戦したつもりでもいる。


それでもせいぜい、黄色とか白とか、
一色くらいどうにかできたかなあ、と
いった程度の手応えにしか所詮ならない。


まあ、そういうことに挑んでいくのも、
やはり楽しいからやっているのだけれどね。


いずれにせよ、物語というものを
その本来持っているはずの


相応しい姿に仕上げることは、
やっぱりひどく手間がかかるし、


同時に、その本質に適した
器の大きさというものが、

揺るがしがたく存在することも
実は本当なのではないかと思っている。



だからこの『マーニー』に関しては、
いわばクリエイターの側からでは
どうにもできないような種類の要因が、


結果として大きくマイナスに
作用してしまった気がして、
ひどく残念なのである。

まあ映画もビジネスだから、
それも仕方がないといえば
仕方がないことなのかもしれないけれど。