ラジオエクストラ ♭47 Thorn of Crowns | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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とにかく変な曲である。

オーシャン・レイン/エコー&ザ・バニーメン

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以前に本編の方で、
ジョニー・ヘイツ・ジャズなるバンドを
紹介した際(♯51)、そのついでに


同バンドのシンガーだった
クラーク・ダチェラーのソロ作品として
Crown of Thornsという楽曲に
ちらりと触れたことがあるかと思う。


――茨の冠。

繰り返しになるけれど
ヴィア・ドロローサを行く、
キリストの頭に載っていたあれである。



しかしながら、
今回はその曲ではないのである。


エコー&バニーメン(♯43)の
84年のアルバムからの御紹介である。

まったく別の曲である。
そもそもタイトルの語順が違っている。


冠の、茨?

なんのこっちゃである。

しかもこのよじれっぷり、
曲名だけでは済まないのである。


まったく奇妙なバンドであり、
このイアン・マッカロクという方、
やっぱり異才の詩人なのだと思う。



さて、今回のOCEAN RAINは
PORCUPINEに次いで発表された、
バンドの四作目のアルバムである。

彼らのカタログの中では
おそらく最も著名で、同時に
評価の高い一枚なのではないかと思う。


もっとも、英国でのチャートの実績は、
PORCUPINEに譲るのだが、


バンドのほぼ唯一といっていい、
アメリカでのヒット曲、Killing Moonは
こちらのアルバムの収録であり、

アナログ当時のB面の頭という
位置に配されていた。


その直前、だからいわゆるA面の
クロージング・トラックだったのが、
今回の「冠の茨」なる楽曲なのである。



とにかくこの曲、すごいインパクトなのだが、
たぶんどの国でもシングルにはなっていない。

どう考えたって無理であろう。
こんなものがラジオから流れてきたら、
たぶん相当数の人が目を点にしてしまう。


エスニックという語は当たらないと思うが、
端から端まで
奇妙なエキゾチシズムにあふれている。


非常にプリミティヴなドラミングに
変な音階のギターが載っかって、

開幕からある種のワイルドさ、
あるいは独特の野蛮さを想起させてくる。


しかもそれが、やはりきちんと
ロックの話法に則っているのである。


極めて強烈なのだけれど、
キャッチーという言葉とは程遠い。

逆にいえば、アルバムという形式があってこそ、
誕生してくる種類のトラックなのだと思う。



さて、イアン・マッカロクというこの
同バンドのヴォーカリスト、
以前にもいった通り、
非常に独特の声と唱法とを得意としている。


粘っこいというのをすっかり通り越し、
空間にペタリと張り付いて、
ともすれば音像そのものを
平板にしてしまいかねないとでもいおうか、

ある種のセロハンテープのようにして
耳とも違う変な場所に残像を結ぶ。



で、その彼が、この歌では、
キュウリとかキャベツとか、
カリフラワーとか、そんな野菜の名前を


ほぼ狂乱の体になりながら、
繰り返し連呼しているのである。

しかも、あたかも吃音のように、
最初の子音を繰り返しながら。


この野菜たちを導入してくるのが、
曲の冒頭のラインで、


君は僕の歯を自分の端っこに置かせる。
君は自分のことを野菜だと思っていて、
貯蔵庫から出てこようとしないんだ、

といったような一節なのである。

後半になれば、君は死に掛けの種族だ、
なんて呼びかけも出てくる。


当然もう、何がいいたいのかなんて
ちっともさっぱりわからない。

だからこれは、そういう態度を完璧に捨てて
ただ向かい合わなければならない、
そういう種類の歌なのである。



極めつけは、その野菜の連呼の直後の
短いサビの部分であろう。


――火星の人類、四月の雨。

そしてこのラインが、実はこの曲の
クライマックスなのである。


最後にこの話者は、この冠の茨なるものを、
自らの頭上に抱く決意を高らかに宣言して
この奇態なモノローグを閉じる。


なんとも野心的な怪作であり、
決して誰にも真似することなど
できないだろうという点において、
たぶん傑作なのだと思う。

そしてまた、Cucumber、Cabbage、
Cauliflowerという名詞のチョイスは、


おそらくキリストのスペルが、
同じCで始まっているが故の
ことなのだろうと思われる。


もっともこれは、私見の域を
決して出るものではないのだけれど。


さてこのアルバム、80年代当時に
聴いていた頃は、個人的には、


オープニング・トラックのSilverと
それからSeven Seasという、
明るめの二曲を
すごく気に入っていたように記憶している。


Thorn of Crownsほどぶっ飛んではいないが、
どうしてどうして、
どちらの歌詞も、それなりに無茶苦茶である。
一応、これはいい意味で。

たとえばSeven Seasはこんな感じ。

七つの海をずっと泳いでいく。
自分の顔がその中に浮いて、


海ガメたちの甲羅に
キスしているのを見ていると、
とても幸せな気持ちになれるんだ。

これがサビのラインである。

ストリングスと、アコギに寄せたギターが、
ポップな空間を作り出してくる
それなりに開幕には相応しい手触りの
オープニングのSilverにしたって、


シャンデリアにぶら下がって、
銀のお盆の上で、
僕の甘い世界が揺れている

みたいな感じで始まるのである。

正直この訳にも、
確固とした自信は持てない。


実はなんか、違う意図が
そこに潜んでいるような気がしてたまらない。

ほか、僕はヨーヨー男、
いっつも上がったり下がったりしてるんだ、とか、


皮膚を燃やして脱ぎ捨てて、
屋根の上に昇れ、
さすれば汝は完成されるであろう、とか、


まあとにかく奇天烈なのである。


しかも同時に音楽の方も、
ずいぶんと独特なことをやっている。


彼らは比較的好んで
ストリングスを採用するのだけれど、


この手触りが、曲によっては時々
ロシアのクラシックを思わせたりもするし、

明るめの曲でも、
たとえばディスコ・ミュージックのような
派手とか華美とかいうべきな、


そういう方向に突き抜けてくれることを
ほとんどしない。


どこかが必ず小難しくて、湿っぽい。

だからやっぱり、このサウンドも、
基本的にはサイケデリックと形容するのが
たぶん一番相応しいのだろうとも思う。



でもエコバニの場合、
ちょっとだけこの語感からは、
微妙にずれているのである。


いうなれば青を基調とした、
寒色だけのサイケデリック。

なんとなくそんな手触りである。


で、そんなことを考えながら改めて、
本作のアートワークを眺めてみる。


そうだよな、こういう色調なんだよなあ、と

まあなんとなくそう、すっかり
納得してしまったりもする訳である。



このエコバニの独特のサウンドは、
次のセルフ・クレジットの五作目で、
ほんの少しだけ柔らかくなる。


多少手触りがわかりやすくなって、
それでいて強烈な個性が
まったく中和されてしまうのでもなく、
程よい具合にポップになって、

だから、ひょっとしてこれは、アメリカでも
今度こそ大ブレイクに繋がるんじゃないか、とか、


外野から勝手にそんなことを
考えたりもしていたものである。



しかしながら本編で扱った時にも触れたように、
この時期にはもうすでに、
バンドの亀裂はかなり深刻に
なってしまっていた模様である。

おそらくプロモーションとかライヴとか、
そういう歯車が全然上手く回らなく
なっていってしまっていたんだろうなあ。



で、その五枚目で、最初の解散前の
最後のアルバムである、
満を持してセルフ・クレジットを採用した、


ECHO & THE BUNNYMENなる一枚にも、
結構好きな曲が幾つか入っているので、

たぶんそのうちまた、ここで
取り上げることになるだろうと思っている。