『レジェンド・オブ・フォール』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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ブラッド・ピット主演による94年の作品


レジェンド・オブ・フォール

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ひょっとして彼の出演作品では、
これが一番好きかもしれない。



しかしながら、やや言葉は悪くなるが、
実は本作、たぶんそんなに
大したことはないのである。


設定がものすごく斬新な訳でもないし、
サプライズやサスペンスといった要素が
秀でて優れている訳でも決してない。

では映像がすごいのかというと、
確かに水準以上ではあるだろうけれど、
突出しているかといえば、
決してそうでもないのである。


それどころかむしろ、ラスト間際の
熊との対決の構図なんかは、
はっきりいってしまえばややショボい。


確かに都会とは赴きを異にした
西部アメリカ内陸部の風景には、

なるほどある種の力を感じはするが、
それはたぶん、作品の手柄ではないだろう。


だけど、それでもこの一本、
観終わった後
何故だかぐっと来るのである。


何かが確実に残されている。


ちなみに紹介文には大抵の場合
恋愛映画とか書いてあるようだけど、


これ、全然違っているので念のため。


そういう訳で基本、本作には、
仕掛け的なものは一切ないので、

今回はあらすじめいたところにまで
遠慮なく触れてしまうことにする。


舞台はモンタナ州。基本的には本編、
この地に居を定めた家族の物語である。


もっとも母親はほぼ登場してこない。

退役軍人である父親(A.ホプキンス)と、
彼の三人の息子たちとが主人公である。



長男は冷静で、次男は奔放。

そして三男は、
利発に振る舞おうとしてこそいるが、

その実どこか依存のようなものが
抜けきれてはいない。


この設定も、ほぼステレオタイプを
踏襲しているといってよいだろう。



そして東部の大学に進学していた三男が、
恋人を連れて故郷モンタナへと帰ってくる。

物語はここから動き出すのである。

時を同じくして、
欧州で第一次大戦が勃発する。


三男は強硬に、婚約者をモンタナに残してでも
自身も戦線に加わることを主張する。

彼を諌め切れなかった兄二人、
とりわけ次男は、
弟を守ることを父に強く約束し
一緒に戦地に赴くのである。


――だがその約束は果たされなかった。

ここから、婚約者までをも含めて
あるいは彼女を軸にして、
家族たちの感情が錯綜していく。

次男は弟の死への責任を
どうしたって拭いきれないままになる。


その次男に三男の婚約者が惹かれ始め、
さらには長男もまた、彼女への感情に
自覚的にならざるを得なくなる。


そうして同時に三男の死によって、
兄弟、特に長男は、
果たして父親が一番愛しているのは
誰だったのかという

いわば行き場のない疑心暗鬼に
捕らわれていってしまうのである。


だから、この辺りの人間関係が、
いわばややドロドロで、


これを恋愛映画と思って観てしまうと、
なんじゃそりゃ、と
なってしまいかねないのである。

確かにこの本編のヒロインの
行動あるいは決断は、
今の感覚からすれば、
日和見を通り越しているかもしれない。


感情的に頷いてしまうことがかなり難しい。

だが時代は、第一次大戦から
禁酒法のいわば暗黒期へと
移っていく時期なのである。

結婚を前提に、相手の家族の
家にまでやって来た彼女にとっては、
あるいは残された選択肢は
これしかなかったのかもしれない。


それでもやはり、
彼女にもハッピー・エンドは訪れない。
おそらく物語がそれを許さない。


そしてまた、後半になって
登場してくる一個の銃弾と、
それがもたらしてしまう結果とは、

まるで予想していなかっただけに、
ひどく衝撃的だった。
この被害者こそたぶん、作中で唯一、
罰を受けるべきではない人物だった。


そういう訳で、
物語は実はひどく重たい。
胃にもたれるタイプのプロットである。



さて、この物語の外枠は、
たぶん長男の回想である。

それが明らかになるのは、
確か最後の最後だったと思うのだけれど、
恐縮ながらはっきりとは覚えていない。


いずれにせよ一つの家族の興亡を描けば、
当然登場人物たちは随時死を迎えていく。


主人公であるはずのブラピも、
最後には舞台から
退場せざるを得なくなってしまうのである。


いわば時代の波みたいなものに
否応なく巻き込まれていく家族の歴史。


本編が描いているのは
たぶんいってみればそれだけである。


数々の物事が次から次へと生起する。
そしてその背後に、
入り組んだ人の感情がある。

けれどそれは決して、
理解、あるいは解釈不可能というべき
域にまで達することはない。


つまり、リアリズムの手法に
ぎりぎりのところで忠実なのである。


そして一旦立ち止まって考えてみれば
これ、いわば小説の王道みたいな風格を
備えたテーマであり、
アプローチなのではないだろうか。

自分が感じるのは、実はその
いわばクラシカルな力強さなのではないのか。


この作品については昔からなんとなく
そんなふうに位置づけている。



フォースター/リーンの『インドへの道』や、
やはり同じフォースター原作による
『ハワーズ・エンド』なんかが
僕にとって非常に面白かったのは、

そういう市井、あるいは
個人のレベルにまで
降りてきているといっていいプロットの中に、


時代背景、あるいは潮流のようなものが、
明らかにきちんと見え隠れしている。
そういう面白さだったのではないかと
感じたりするのである。



そして本当は、今だからこそ、
小説はこういうことをやらなければ
ならないのではないだろうか、などと、

半ば真剣に考えることもあったりする。

それこそ宮尾さんが、
『櫂』から始まる連作の中で、
自身の経験をモデルにこそしながら、


一つの家族の変遷を通じ、
大東亜戦争という名で呼ばれていた
歴史を抉り出そうとしたように。


今回はさらにいってしまうが、
この構造をいわば自分の
フィールドに持ってきて、


明治初期という時代を書こうとしたのが、
実は『霧の降る郷』という作品で、


あれが中断したままになっていることには、
相当忸怩たる思いを抱いていることも
遺憾ながらまた事実であったりするのである。


ただ自分がどうやら一度に一つ一つしか
作品、とりわけ長編を
仕上げていけないタイプであることも、
なんとなくわかってきたので、


とにかく止めずにまた頑張ります。

しかし今は長丁場である。

ま、投げ出してしまわなければ
たぶんいつか終わってくれるものである。


そもそも『君の名残を』がそうだったし。