『雪の夜話』のこと3 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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では最後は、同書と哲学との関わりについて。
さすがにもう冒頭に載せる
書影がないのでこのまま行く。

なお、昨日の予告通り、今回は全編、
相っ当飛ばしておりますので念のため



さて、先日頂戴した
lionheartvegaさんの御指摘の通り、


同作に限らず、僕は比較的、
作品の背景に時々その種の要素を
そっと入れ込むようにしてきている。

もちろん強弱はあるし、
あまり意識しないで書いて、
なんとなく出ちゃったかなあと
後になってから思うような場合もある。



実はデビューの前のある時期から、
なるべく頑張ってそういう本に
目を通すことを心がけ、自分に課している。


――でもねえ、

これが正直、幾ら読んでも、
やっぱりよくわからないんですよ。


僕なんかは今になってもまだ、
いわゆる著作ではなく、


新書版の入門書くらいしか
きちんと読めはしないのだけれど、

それでも結局よくわからないままで
読み終わることの方が圧倒的に多い。


まあでも、最近は多少は慣れてきたかなと、
自分で思うこともなくはないけれど。


それに、わかろうがわかるまいが、
こういう類の書籍というのは、

とにかく一度目を通すそれだけのことで
十分に意味があるんだろうなあというのは、


なんとなくですけど、ある段階で、
なんだかそんなふうに納得しました。


以来、それでいいやと思って続けてます。

ものすごい時間かかるけどね。
面白い訳でも全然ないし。



では何故、僕はそんな
ちっとも楽しくもないようなことをやるのか。


――答えは簡単である。

絶対春樹さんがやっているからである。

もちろん村上春樹さんのことである。


たとえば。

初期の村上作品に、主人公が寝る前に
必ずカントの『純粋理性批判』を
読んでいるというような描写が見つかる。


自分でちゃんと目を通していない書物に関し、
こういう使い方は九分九厘しないはずだと思う。


もちろんそうではない書き手も
中にはいるかもしれないけれど

まず村上春樹さんは
絶対にやらないと思う。



ほかにも、
二つの藁山を目の前にしたロバ、
なんて比喩が出し抜けに出てくる。


これ、ビュリダンのロバという
哲学上の命題なのである。

見つけた時は、あの表現、
元ネタこんなとこから
持ってきてたんだ、と
少なからず唖然としたものである。


そこで実は僕も、数年前雑誌に載せた
『箴言――これは小説ではない』なる短編で、
このロバをモチーフにしてみたりした。


これはまだ書籍にもなってはいないが、
はっきりいってふざけた掌編である。

『雪の夜話』や『四日間~』などの作品群の
手触りとは相当違う。
どちらかといえば『ルーシー~』に近い。


まあ、そういうのもそれなりの
意図があってやってはいるのだが、
なかなか難しいようではある。


そもそも一緒に本にできそうな作品が
自分の中から出てこない。

でも時々書きたくなるからね、
そういうのは仕方がないんだよねえ。



まあだけど、そうやって黙々と哲学書や
その関連書籍を眺めているうちに
なんとなくわかってくることが
あるような気になることは本当である。


残念ながら、自分の中で
ちゃんとしたロジックが
成立してくれる訳でもないのだが。

それでも、本当になんとなくなのだが、
もしニーチェという人が出てきていなければ、


あるいはヒロシマもアウシュビッツも
起きなかったのかもしれないんだ、と
不意に思うような場面があるのである。


因果関係が明確になる訳では決してない。
だけど間違っていない気はする。

もちろん原爆がニーチェの責任だと
いいたい訳では決してないよ。
アインシュタインならともかく、
彼には直接の関係は、たぶんない。



まあだから、そういう直感的な
種類の理解でいいのだろうと思うし、


それしかできないようなことでは
たぶんあるのだろうなあと、

まあ自分に向けて一応納得している
といった感じの状態だろうか。


そろそろ半世紀に迫るほど生きようが、
作家を名乗ることができるようになろうが、


僕にわからないことなんて
まだまだ世界にいっぱいある。
死ぬまでにそれがなくなるとも到底思えない。


さて、コメントに御指摘のあった
ハイデガーからの影響というのは、


実はこの『雪の夜話』よりも、
むしろ『君の名残を』の方に
より顕著なのではないかと思っている。


ハイデガーといえば『存在と時間』である。

で、このタイトルの
意味しているところについての、
僕なりの解釈を記してみる。


正しいかどうかなどやっぱりわからない。
誰かと話し合ったこともほとんどない。


ただ僕自身がこんな感じに納得し、
必要に応じて著作の背景に
半ば無意識的に援用しているという

ただそれだけのことに過ぎないので、
この点は一応念のため。


改めてここで声を大にしていっておくけれど、
僕の仕事の本質は「嘘つき」である。


古今東西、小説などというものが
真実であった試しなどないのである。

それらはただ、真理なるものに
少しでも近づこうとする足掻きに過ぎない。


そしてまた、僕も所詮、その系譜に
どうにか連なろうとしている一人に
どうにかなれつつあるのかもしれない。


まあそれくらいは
多少なりとも自負しているが。


いや、また話が逸れかけているな。
この辺りで自重して
そそくさと『存在と時間』の話に戻る。



さて、我々は、空や花や様々な景色や、
あるいは絵画や音楽を、
美しいと感じることができる。


だが美しさの基準というものを
誰かから教わった訳では決してない。

いわば美しさを感じる心というのは
ア・プリオリなものである。



しかしどうしてそんなものが、
つまり「美」というものが
この世界に存在しているのだろう。


そんな感じに改めて
問いを立てなおしてしまうのが、
この哲学というやつなのである。


我々の現象世界の裏側には
いわば精神世界のようなものが
重なり合うようにして張り付いていて、


そこには、美というものの
理想形、基準、本質、
みたいなものが存在していると考えてみる。


こういうのをイデアと呼ぶことにしてみる。

そして我々は必要に応じて随時、
その美のイデアを参照し、


そこで初めて、美しさというものを
感じることができている。
そのように理解できるのではないか。
だから美が存在しているのではないか。


まあ、こんな感じのロジックが、
プラトンいうところの
イデア論というものの概略であり、

ハイデガーはまず、このプラトンの
研究からスタートしているのである。



そこでこの人は、
では何故、存在というものは
存在しているのだろうかという
問いを立てなおしてしまうのである。


うーん、わからん。僕だってまずはそう思った。
なんでそこまでいっちゃわなければ
ならなかったのかは、
たぶん本人にしかわからない。

でもハイデガーは考える。

美に対しての「美のイデア」
この考え方はもちろん、
美しさに限らなくてもかまわない。


悲しみに対しての「悲しみのイデア」
怒りに対しての「怒りのイデア」
そういうものが想定できる。

そのくらいならば、なんとなく僕でも
イメージできそうな気はしないでもない。


だがハイデガーはそこでさらに探すのである。

いわば「存在のイデア」と呼ぶべきものを。

我々が存在を存在していると感じる時、
無意識に参照しているかもしれないものを。


そしてたぶん、彼のたどりついた答えが
「時間」というやつだったのである。


我々は時間に照射して、
存在というものを認識している。

まあ乱暴だし、決して正しい訳でもないのだが、
これがまあ『存在と時間』というタイトルの、
僕なりの、極めて個人的な解釈なのである。



さて、このように書いてみると、
『君の名残を』の最後に近いシークエンスで、


ヒロインが時間というものの
象徴ともいうべきとある存在と

あのような形で対峙せざるを得なかった理由が、
なんとなく、納得して
いただけるのではないかと思うのだが、
いかがだろうか。


同作は基本タイムスリップSFである以上、
時間そのものを潜在的なテーマとして、
内包することを最初から宿命付けられていた。


だからあの場面が、ある意味では
あの作品の本当のクライマックスなのである。


などとはいってこそいるけれど、
実際書いた僕自身も、
やっぱり今なお、なんとなくしか
わかってはいないのである。


お粥は理詰めで煮る訳では決してない。
ただ焦げないよう注意しながら、
淡々と火を入れ続けることによってしか
出来上がらない。


そうしないと、どろどろに溶けて
材料の米なり大麦なりと、
別のものにはならないのである。

ただそれでも、あの場面がなくしては、
作品そのものが壊れてしまうことだけは
直感的にわかっていた。


むしろ僕は、同作においては、
あのシークエンスをこそ、何よりも
書かなければならなかったのだと思う。


――もう時効だろうからいってしまうが、

最初に同作の単行本を出す際に、
この対峙の相手の人物の


バックグラウンドを詳述した章を、
まるごととってしまってくれないかと、
編集者から相談を受けた。


全体が長過ぎて、削れそうなところが
そこだから、というのが理由だった。

もちろん首を縦に振りなど絶対しなかった。

する訳がない。

冗談ではない。心底そう思った。

ま、それもこれも
とっくに昔のことである。


現実に、同作は僕の描いた
一応の完成形として世に出ている。


今はそれで十分である。


ただ、これと似たような性質の諸々に
すっかり嫌気が差してしまって、


一時期、書くことすら
全然できなくなってしまったことは
お恥ずかしながら本当である。


今はもうそんな心配はない。
むしろ原稿はどんどんたまっている。


さて、そろそろ『雪の夜話』へと
話を戻すことにしよう。



同作の中には、それこそ上のロバの比喩のように、
ちょっと変わったところから見つけてきた表現が、
僕の著作の中では比較的多くちりばめてある。


だからそれがたぶん、lionheartvegaさんが
本書を哲学的だと感じた理由なのだと思う。

たとえば。

「個は差異の中に存在しない」

これ、作中で雪子が繰り返す表現なのだけれど、
元ネタは、フランスのジル・ドゥルーズという
哲学者の思想である。


もっとも原典にこの通りに
書かれている訳では決してない。

というか、ドゥルーズ=ガタリの
「千のプラトー」は
難しすぎて30頁くらいで投げ出した。


ただ入門書の新書の中に、

世界というものは、
まず違いというものが
誕生することから始まって、

空気と水を分け、
空と陸を分け、
生命と非生命を分け、
動物と植物を分け、


そのようにして今のように存在することが
できているのだ、みたいな考え方が書かれていて、


それが結構気に入ったので、こういう形で援用した。

なんとなく「違い」という概念が、
それまで持っていたものよりも
自分の中で立体的に
なってくれたような気がしたのである。



また、他の箇所では、右手と左手を重ねると、
そのそれぞれの感覚を区別できなくなる
といったようなことを書いているのだけれど、


これもやはりフランスの
こちらはメルロ・ポンティという方の
著作の中に見つけた記述が元となっている。

これは大体そのままかな。

実際に自分の手を重ねてみて、
なるほど、本当にそうだな、と
自分でも思ったので援用させて戴いた。



ほか、ドイツのウィトゲンシュタインによる
言語ゲームという概念は

この『雪の夜話』以外にも、
結構いろんなところで援用している。


この用語はまあ、ざっくばらんにいえば、
世界の認識という行為は、
言語化なるものによって支えられていて、


それに実態がない以上は、
所詮ゲームみたいなものである、とでも
いったような理屈である。


念のために繰り返すけれど、これらは全部、
いわば嘘つきを職業としている人間が
適当にいっていることでしかない。


だから正誤には責任が持てない。

本当にただ僕が、そんなふうに理解して、
作品を書くという行為に
役に立てているという、
ただそれだけのことなのである。

だから、たぶん専門の研究者の方からすれば、
大きな誤解だといわれかねないようなことも、
ひょっとすると紛れ込んでいるかもしれない。


とりわけ今回は、その程度の文章である。

――だってゲームだし。

そしてまた、
些か転倒していることを承知でいうが、


僕が『雪の夜話』に着手するずっと以前から、
こういった内容を勉強することを
自分で始めなければならなかったのは、


たぶん僕の作り出すことになる
便宜上雪子という名前を与えられた存在が

自分のいいたいことを正確に
僕に言葉に置き換えさせるために、
自分なりに理解することを
準備をさせていたのだろう、と


半ば真剣に、そんなふうに考えてもいるのである。


今書いている『サムライ伝』に出てくるミナも、
実はそんなような存在である。

とりわけ彼女たちのような存在の言葉は
本当に正確に翻訳することが
たまに心底嫌になるほど難しいのだが、


これか、と思うような一文が
出てきた時の手応えは
正直何物にも換えがたい。



「パラダイムが私たちを駆逐していく」


この一文が出てきた時は、
雪子や、その背後にいる
いろいろなものの声を、


これ以上はないほどきちんと
拾えたような気持ちになったものである。



木の中に仁王がいて、
仁王を彫り出す技術が彫り手にあって、

その二つが揃って初めて、

仁王はこの世界に現前することが
できるようになる。


だから雪子やミナという名の仁王は、
この種の哲学的素養を、
掘り出す技術として
要求する種類の存在なのである。

さらにいうと、たぶん僕に
この手の小難い内容に
どうにかついていけるような
基本的な準備をさせてくれていたのは、


実は、ボウイやDDや、
あるいはニュー・オーダーみたいな


ある意味気難しいといっていいだろう種類の
アーティスト群の音楽と歌詞だったり
するかもしれないのである。

理屈はやっぱり自分でもよくわからない。
でもボウイやDDが
バロウズやらギンズバーグやらからの
影響を明らかに受けていて、


どこか上に挙げたような学者群の言葉と
共通する種類の難解さを


僕にぶつけてくれていたことは、
たぶん断言してかまわないと思う。


ま、そんな感じで彫り終えた仁王は、
だがしかし、今度はさらに
仕上げを要求するのである。


いわばヤスリ掛け。
あるいは最後の調味。


その辺の文章上のテクニックについては、
一応『ライティングデスク~』なる本に
まとめたつもりなので、
今回は割愛させていただく。もう相当長いし。


でもね、そう簡単にヤスリが
かかる訳でも全然ないよ。


――なんたって仁王だから。

たいてい背中にいろいろ背負ってるし、
髪形はもちろん、腕や足の位置も形も複雑だし、

変なところに凝りに凝った模様があるし、
衣裳だってものすごく襞があって、
そこかしこで波打ってるし。


こういうの全部ヤスリかけて
膠みたいなの隅々まで塗って、


凸凹ができたらまた削って、
その箇所をまた塗りなおして、
みたいな感じだから。

だから基本、根気だと思う。


いやだけど、正直『雪の夜話』をきっかけに
こんな話まで僕から引き出してくれたのは、


今回のlionheartvegaさんが
デビュー以来初めてだといっていい。


この点には、慎んで
御礼を申し上げたく思っております。
どうもありがとうございました。


改めてこうやって書き出してみることも、
実はそれなりに新鮮で、
自分でも結構楽しかったです。


ですから、皆様にも多少なりとも、
興味深く読んでいただけたなら、
それは本当に幸甚なことだと思います

そしてもし、お付き合い戴いた時間を
幾らかでも楽しんで頂けたのだとしたら、


それはこのlionheartvegaさんと、

それからこれだけの文字量を
必死になって色分けしながら
編集してくれたうちのA嬢、

そして、彼女がこの仕事に
決して少なくない時間を費やすことを


いつも快く許してくれている、
彼女の上司お二人のおかげなのであります。


いつもどうもありがとうございます。


では最後に。

ここに来訪し記事を読んで下さっている皆様、

とりわけ今回は、
小難しい長文へのおつきあい、
本当にありがとうございました。

しばらくまた通常営業に戻ります。
レギュラーは木曜日、
ほか、エクストラでは
そろそろまたDDを行く予定。


映画はまだ決めてないや。

もしまたリクエストなどあったとしたら、
ひょっとして乗ってしまうかもしれません。

もちろんそれが未見のものだった場合には、
それなりに時間がかかるだろうけれど。