ラジオエクストラ ♭34 TVC15 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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デヴィッド・ボウイは、76年発表の
STATION TO STATIONの収録曲。

Station to Station/David Bowie

¥1,790
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アルバムSTATION TO STATIONは
この前ここで取り上げた
YOUNG AMERICANS(♭15)の
次作に当たる一枚で、


やはり黒人音楽への傾倒を
一部色濃く反映した作品である。


それもむしろ、独自のアプローチで
前作でのソウル・ミュージックから
さらにファンクの方向へと寄っている。

この方法論の、ある意味での
一つの到達点となったのが、
二曲目収録のGolden Yearsで、


同曲はボウイにとって初めての、
単独でのビルボード・トップ10入りを
果たしたトラックともなっている。


なおここで、単独での、という
やや歯切れの悪いいい方に
なってしまっているのは、

Golden Yearsの前に、すでに
YOUNG AMERICAN所収の
Fameがトップ・ワンにまで
昇り詰めてこそいるのだが、


こちらは以前にも触れた通り、
レノンとのデュエットだったからである。



さて、TVC15は本国で、同曲に続いて、
シングル・カットされたトラックである。

個人的には、上のGolden Yearsより
こちらの方が推しである。



このイントロの転がるようなライン、
いったいどう形容すればいいのだろう。


それこそ、ちょっと安手の
コメディー・ショウの
テーマ音楽みたいな手触りを持っている。

少しニュアンスは違うかもしれないが、
どことなくホンキー・トンクという
言葉が浮かんでくる。


ちなみにこのホンキー・トンクというのは、
本義的には、騒々しい安手の居酒屋、と
いったような意味合いであるらしい。


だから、そういう場所に居そうな女性が
ホンキー・トンク・ウィメンなのか、
それとも酒場みたいに
騒々しいキャラクターのことなのか、

ストーンズのHonky Tonk Womenに関しては、
昔からそこがよくわからないままでいる。


いや、例によって話が逸れたな。
そそくさとTVC15に戻ることにしよう。



さて、本当にこの曲のタッチは、
滅多なことでは似ているものが
見つけられないような気がする。

クールファンキーとでもいうのが、
あるいは一番当たるのかもしれない。
破顔しきれないおかしみ、みたいなものが、
じわじわと呼び覚まされてくるのである。



リリクスはまず、話者自身の友人として
このTVC15(one-five)を紹介する。


コンテクストの流れからして、
このCはやっぱりチャンネルとして
解釈するのがいいのではないかと思う。

つまり彼は、この15番の
チャンネルばかりを見ながら
日々を暮らしているらしいのである。


ところが、ある日一緒に連れて帰ってきた
ガール・フレンドが、
TVC15を見ているうちに、画面の中へと
這いずり込んで消えてしまうのである。


なんじゃそりゃ、と思われることだろう。
正直僕もそう思いました。

で、このキー・モチーフ、どうやら、
イギー・ポップが、まあいわば、
薬物でラリっている時に見た幻覚が、
そもそもの元ネタになっているらしい。


だから、一緒にキメていたんでしょうねえ。

まあボウイとこのイギー・ポップについては
またいずれそのうち機会を改めて。

ただ、この彼らの交流がなければ
China Girlという曲が、
この世に生まれきていなかったことは
疑いを差し挟む余地もないのである。



いや、だから今回はTVC15なのである。

ここから先、曲の内容は
主人公のパニックと、それから
延々と続く恨み節ばかりになっていく。

画面の奥へと消えてしまった彼女は
いつまで待っても戻ってこない。


この悪魔め、とか、三次元野郎とか、
ボウイはテレビに向け
悪態をつきまくるのだけれど、
もちろん画面はまばたき一つ返しはしない。


そうなるとできることはただ一つである。

いつか自分自身も画面の中へと入り込み、
彼女と再会ができる日が来ることを
ひたすらに願うばかりとなるのである。


このシュールで同時にどこかコミカルな光景が、
このトラック全体のとぼけたタッチと
実に見事にマッチしている。


しかしこの、テレビの画面に邪魔されて、
実ることの決してない恋というモチーフの、
なんと現代的であることか。

これがもう40年も前の作品なのである。
この圧倒的な予見性を前にしては、
最早平伏すしか到底術がないではないか。
そう思わざるを得なくなる。



さて、このSTATION TO STATIONという
アルバムも、前回のEBTGのEDENと同様、
惜しむらくは収録時間がやや物足りない。


そもそも曲数が極めて少なく、
AB面各三曲ずつの全六曲で、
トータルで38分あまりにしかならない。

ただしその分、それぞれの曲が
一つを除いてすべて五分を超えている。


オープニングであり、
タイトル・トラックでもある
Station to Stationなどは、
一曲で10分を超えてしまう大作である。


もっともこのトラックは、
三つの異なる楽曲が、
ある種組曲的に接続されることで、

一つの音楽を形成しているとでも、
いった感じで把握するべきような代物で、


この長さを必要とすることにも
十分に頷けてしまうし、
今聴いても斬新である。


ほか、Stayは当時のライヴでの
定番となっていたトラックだし、
シングルとしてアメリカで成功している。

カヴァー曲ながらWild Is the Windは
後年だけれど、やはりシングルになっている。


もうあと一曲だけなので
タイトルを出してしまうけれど、


A面ラストのWord on a Wingも
実に丁寧に作りこまれていて、
個人的にはかなり好きである。


そして何よりもこのアルバム、
ボウイ自身の興味がソウル/ファンクから
今度はインダストリアル・ミュージックへと
スイッチしていく途上で作られた関係で、


トラック毎のタッチの振り幅が大きく、
作品として非常に楽しめるのである。



なお、本アルバムについては、
ボウイ本人の当時のナチズムへの傾倒や

シン・ホワイト・デュークなる
ジギー以来ともいうべき
新たなキャラクターの導入、


そして、同時期に制作された
映画『地球に落ちて来た男』、


そこから遡ってのハインラインの
『異星の客』との関係性など、

とにかくほかにも様々なトピックや背景が、
実はいろいろ見つかるのだが、
今回もやはりまた、ややどころでなく
長くなり過ぎてしまったのでこの辺で。



でもやっぱり最後に一つだけ。

本作や前作を、ZIGGYやその前や、
あるいはDIAMOND DOGS辺りと
並べて聴くと、

本当に同じ人の作ったものなのかと
首を捻りつつ、同時に納得してしまう。
そんな手応えがひしひしと感じられる。


それはだから、やっぱり
クリエイターとして
もの凄いことなのだと思う。


一つの場所に安住しない、
あるいはできない。

そのために足掻くからこそ、
一筋縄では簡単には解釈ができない、


つまりは大きな影響力を持つ作品群が
出来上がってきたのではないかと思うのである。


改めて、このボウイという人は、
本当にいわゆる、
ミュージシャンズ・ミュージシャンというべき
存在だったのだろうなあ、とでも
いったような思いを一層強くしてしまう。

そのスタイルというか、
アートというものに向き合う
フレキシブルで同時に
確固たる姿勢については、


個人的に相当憧れるし、
また同時に、終生見習わなければ
ならない種類のものだろうなあと、
ひしひしと思うこの頃なのである。