『夢十夜・第六夜』 1 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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では少し真面目に文章/小説の話など。

まあ最初なので、ちょっと硬めというか
オーソドックスなところから。


もちろん、夏目漱石である。

夢十夜 他二篇 (岩波文庫)/夏目 漱石

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最初に読んだ頃は、やっぱり第一夜が
一番好きだった。

百年はもう来ていたんだな、とか、
すごい一行だなあ、と思います。


いつかこういうのは、自分でも一度は
決めてみたいものだなあと心底思います。


そいで次の好みが、オーソドックスな怪談を
漱石流に仕上げて見せた第三夜。

さらに次いでずっと印象に残っていたのが、
実はこの六夜だったのである。


ただ当時は、またずいぶんと
変わったお話だなあくらいの感想だった。


中学か高校か、いずれ十代の頃のことである。
遺憾ながら、もうずいぶんと遠い昔である。


今さらこの作品にネタバレ云々もないと思うので
一応さわりだけ紹介しておくと、


運慶が近所で仁王を彫っているというので、
主人公がそれをわざわざ見物に行くというお話。


ポイントは、野次馬の一人が
運慶の技に見惚れる主人公に向けて
口にするセリフ。

あれは眉や鼻を鑿で作っているのではなくて、
元々あのような形で木の中に埋まっているのを
掘り出しているのだ。


原文通りではないけど、まあ大体こんな感じ。

ずっとこのイメージというか考え方というのか、
そういうのが長いこと片隅に残っていた。

ところがである。長じて、というか、
今のように自分でフィクションを
手がけるようになってから、


ああ、これってひょっとして
そういうことだったのかな、と
思うような場面が
少なからずあるようになったのである。


たぶん誰でもそうではないかと思うのだが、
最初から一字一句がラストまで頭の中にあって、
小説を書き始めている訳では決してない。

書いてみたい人物であったり、
あるいはクライマックスとなるべき場面の
断片的なイメージであったり、
とっかかりはたいていそんなものである。


もちろん、このタイトルで何かやってみたいとか
あるいはこの一文を書き出しにして、とか
そういうケースだってたまにはある。
ていうか、最近はそっちのアプローチを増やしている。


むしろこの仕事に限っては、
自分の中でいわば手順みたいなものなんて
絶対に確立してしまうべきではないだろう
くらいに、どこかで割りと真剣に思っているし。

いや、また話が逸れてきたな。軌道修正。

とにかくどんなテキストでも、
まずはまだ一切何もない
真っ白なワードの画面に向かって、
一個ずつ、文字を載せていくことから
間違いなく始まる訳である。


それ以外の始まり方をするケースは
僕の知る限り、たぶんない。
まあ昔は原稿用紙だったんだろうけれど。

とりわけ作業の極最初の段階では、
そこまで書いたものを何度も何度も読みなおす。
そうしながら少しずつ、先へ先へと進んでいく。


すると、ある段階で不意に訪れるのである。

あ、そっか、みたいな感覚。
アハとか、エウレカとか、
たぶんそういう感じである。

本当になんとなくだけれど、
自分が書こうとしているものの全体像が
すっかりわかったような気になるのである。


それはこの先のプロットの繋げ方だったり、
あるいは全体の構成だったり、
クライマックスの細部だったり、


場合によって実に様々なのだけれど、
それがくると、ああ大丈夫だな、と思う。
最後まで書けるはずだと信じられる。

だから、鑿の一振りがようやく
仁王の鼻先にたどりついて、
その先にもっといろいろなものが
あることがはっきりとわかる。


まだ見えていない目や、
あるいは全体のサイズなどが
なんとなくつかめたような気持ちになる。


それこそ、始めからそこにあったものを、
丁寧に掘り起こしているような感覚なのである。

そうやって改めて見てみると、
この第六夜という一編は
極めて示唆に富んでいる気がする。


まあここまでですでに
だいぶ長くなってしまったので、
この続きはまた明日。