『夢十夜・第六夜』 2 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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早速ながら、昨日の続きである。

ではそもそも、何故運慶なんて人物が
この一編でいきなり持ち出されているのか。


夢十夜という作品群は、むしろここまで周到に、
固有名詞を用いることを徹底して避けている。


先へ進んでみても、この運慶のほかには、
第五夜の天探女が固有名詞であるかどうかは
ひとまずおいておくとすると、

八夜と十夜において登場する庄太郎なる人物と、
十夜のある種の語り手でもある健さんとが
二人きり名前を与えられているのみである。


この庄太郎になんらかのモデルのような存在が
あるのかどうかは、寡聞にして知らない。
不勉強で申し訳ない。


さて、もちろんこの運慶なる名前は、
わが国でおそらく一番有名な仏師のものである。

この名前がだから、
技術の象徴として機能する。


つまり、やっぱり仁王を彫り出すためには、
それなりの技がいるのである。


その後主人公は最前の野次馬の一人の一言に、
自分でもやってみたくなって、
家に帰って丸太に鑿を振るい始める。

あるいはこの行為を、漱石自身の
文章に対する自負と取ることも可能だろう。


しかし主人公には
仁王を掘り出すことはついにできない。


それはけれど、最初からそこに
仁王が隠されていなかったが故である。
明治の木には仁王は埋まっていない。
漱石はそう嘯いてさえいる。

だからこの一編を、漱石の小説論、
あるいは芸術論として
読み替えることが可能になってくるのである。


仁王は始めからその輪郭を完璧に有して、
丸太の中に隠されている。


だから当然、仁王のいない木からは
仁王を掘り出すことがそもそもできない。

しかし同時に、正確に彫り起こすためには、
相応の技術が必要になってくることもまた、
揺るがしがたい事実なのである。


仁王のいる木を見つけること。
それを掘り出す技術があること。


それはたぶん、何を書くかを見定めること、
そしてそれをどう書くのかという問題提起に
パラフレーズすることがおそらく可能なのである。

――だからたぶん、明治の木には、
仁王ではなく猫が埋もれていたのである。


いや、半分冗談だけど、
半分は真剣にいっている。


さて、かくしてついに、あるいは満を持して
この掌編のキモであるラストの一行が
無造作といっていいくらい
唐突に置かれることになる。

それで運慶が今日まで生きている理由も
ほぼ解った。


ここに至ってとうとう運慶は、
我々の諒解しているところの、
あの仏師の運慶ですらなくなってしまう。


しかも漱石は、自分がどう、その理由を
理解したのかは絶対に書かないのである。

間違いなくわざとである。
しかもこの手法がこの一編を、
夢十夜という作品群の中に
きっちりと融和させている。


だから、このほんの数枚のテキストの中に
どれほど多くのものが示唆されているかと、
それを思うと改めて唸らざるを得なくなる。



そもそも漱石の文章というものは、
今さら僕がいうまでもないけれど、
たぶん群を抜いて完成されている。

考えてもみていただきたい。

どの作品とはあえてここでは書かないけれど、
もう百年以上も前に書かれたこの人の小説の
その文体のパロディーが、
二十一世紀を迎えたこの時代に読み物として成立し、
のみならず驚くほど広汎な範囲に受け容れられる。


こんなことは、たぶんそんなには起こらない。

実際鴎外やあるいは鏡花辺りの文章は
今の時代に読むのは少なからずきついと思う。


だからこれは、やはり漱石の文体というものが
日本語の表現として、極めてレベルの高い
普遍性に到達していることの証左であることは、
疑いを差し挟む余地もないのである。



さて、ではとりあえず最初のトピックの最後に。

やっぱり『ライティングデスク~』既読の
皆様というのはかなりの少数派でしたので、


今後このカテゴリーの内容としては、
同書とかぶってくるような部分も
少なからず出てくるだろうと思います。


なるべく切り口は、少しでもいいから
変えていこうと考えてはいるのですけれど、
そこはどうぞ御了承下さい。

さらに。

あの記事にいいね押して下さった三人の皆様、
リアクションどうもありがとうございました。


以前にも書きましたが、読んで下さった方が
確かにそこにいるという感覚は、
書き手として本当にとても喜ばしく、
同時に誠至極光栄なものなのであります。