『千と千尋の神隠し』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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アニメーション映画に触れておいて、
この作品を素通りしてしまうことは絶対にできない。
邦画の歴代興行収入トップの座に今なお君臨し続ける、
いわずもがな、あの宮崎駿監督の長編作品である。

やっぱりこれ、紛うことなく天才の仕事なんだよなあ。
見るたびにいつも、ため息とともにそう感じ入る。
プロットとか、あるいはカタルシスの作り方とか
たとえばそういうのを一切抜きにしたとしても、
とにかく画面に次々と展開されていく異様な光景に
抗う術なくすっかり圧倒されてしまうのである。

この異世界を受け手にすんなり納得させてしまう
本作の導入部分の卓越した仕掛けについては、
拙著『ライティングデスク~』の中で一度詳細に
触れているので今回は割愛する。それにしても、
どこにでもありそうな日本の地方都市の景色が、
いきなりこう、なんというか猥雑という言葉でしか、
形容しようのない異界の町並みへと
あっというまにすり返られてしまっている。
本当に見事な手際である。ああでも、批評の言葉って
どうしてこう、ちょっと上からっぽくなっちゃうのかな。
いや、だったら使わなければいいんだけどさ。
まあとにかく。

ちなみにあの、中国の下町風の雑然とした風景を、
映画の世界に最初に導入したのは、
たぶん『ブレードランナー』だったはず。
ハリソン・フォード主演によるP. K. ディックの
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
というタイトルの長編の映画化作品である。
いやしかし、あれだってもう32年前になっちゃうんだ。
ハン・ソロも年を取る訳です。ちなみに奥さんはアリーです。

いや、例によって話がやや逸れ始めたので、
そそくさと『千と千尋~』に戻ろうと思う。
それにしても、あの橋の上を行き来する神々の姿の
まったくもって、もう途轍もなく異様なこと。
さらには、湯婆婆、カオナシ、坊と、
次々と繰り出される、さながら百鬼夜行絵図のような
異形のキャラクターたちの数々。
敵わない。文字では絶対に表現できない。
そう思うと畏敬の念を覚えると同時に、
仕事柄半ば悔しくさえなってきてしまう。
ほぞを噛むというのはきっと、
たぶんこういう気持ちなんだろうなあ、とすら思う。
ちなみに個人的なお気に入りは、
おい、おい、といいながら積み上がったり崩れたりを
飽きもせず繰り返している、あの三つの頭たちである。
正式な名前は知らない。おい、で通じると思っている。

だから、これ最初に監督からイメージボードを
見せられたスタッフは、いったいどんな反応したんだろうな
というのが、汲んでも尽きない僕の疑問なのである。
相当びっくりしたろうなあとも思うし、同時に
いったい何が出来上がるんだろうという、戸惑いと興奮の
入り混じったような気持ちを抱いたのに違いない。
普通の人からは絶対出てこないよね。
それともジブリではもうそんなの、
何が起きても当たり前、みたいな感じだったのかな。
一回誰かに訊いてみたいな、と常々思っておりますです。

さて、少しだけ堅苦しいことをいうと、本作とその一つ前の
『もののけ姫』とで宮崎監督が試みているのは、
おそらくは、日本古来の神の姿/概念を
スクリーンの上に固定してしまおうという、
ある種極めて無謀な企みだったのではないかと、
個人的に僕自身はそんなふうに受け止めている。

八百万の神々という言葉があるように、
古来より我々日本人にとって、おそらくは
見えないものは全部神だった。
むしろ見えないから神だった。
そして同時に、あるいは見えない何もかもが神だと
知っていたからこそ、それらが極めて雑多であり、
時に気紛れでさえあることを本能的に見抜いていた。
ひとえに神と呼ばれても、そこには美しいものもあれば
またひどく奇怪な姿をしているものもある。
しかもその姿が人との関わりによって影響されてしまう
という点がさりげなく提示されているという部分に、
ああ、この人本当に凄いや、
とさらに唖然とさせられてしまいさえもするのだけれど、
だからしかも、その神のうち、あるものは
力なくただそこにいるだけで、一方でまたあるものは、
理由もなく理不尽に、ただ傍若無人に
何もかもを無茶苦茶にするような振る舞いを
ところかまわず撒き散らすようなことも平気でできてしまう。
正も邪も善も悪も美醜も男女も実はそこでは渾然一体で、
それでいてそれぞれがばらばらに一つの形をとっている。
『千と千尋~』で全編を貫くあの油屋の景色と、
それから『もののけ~』のコダマや、あるいはラストで
断ち切られたシシ神の首からあふれ出した
訳のわからないどろりとした奔流の光景を見るたびに
僕は否応なくそんなことを考えさせられるのである。

もう少しだけ踏み込むと、この考え方は、
西洋やあるいは中東、つまりは一神教を文化のベースに持つ
社会からは、決して出てこないものであるはずである。
だからこそ、宮崎作品は世界で通用するのだと思うし、
同時に、いったいアメリカやヨーロッパの人たちは、
これをどんなふうに受け止めているのだろうと
不思議で不思議でたまらなくなるのである。

そしてまあ、僕としてはやはり、毎回毎回この
天衣無縫ともいうべき唯一無二の映像世界を
真正面から余すところなく受け止めて、
のみならず、それを十分以上に支え、高め、つまりは
映画という作品として易々と完成させてしまう
久石譲さんのスコアにすっかり感服させられながら、
ほうけたようにエンドロールを眺めるのである。

さて、では最後にその久石譲さんのお名前について少し。
ご存知の方にはいわずもがなだが、この筆名、
あのクインシー・ジョーンズに由来している。
「ひさいし」さんは「ゆずる」だけれど、
クイシジョウとも読めるようになっている。
まあだから、江戸川乱歩や益田喜頓みたいな発想を
さらにもう一捻りしたようなものである。
乱歩はともかく、益田さんの方は今の人はもちろん
知らないだろうけれど。山田キートンさんの前に
そういう方がいらっしゃったのですよ。
バスター・キートンというコメディアンが元ネタです。
ちなみに市川昆監督が一連の横溝正史作品ほかで
脚本家として使われていた久里子亭というのは、
当然ながらクリステイと読みます。
あともう一つ、やや無理やりながら挙げられるとすれば
映像監督に阿乱須未椎というのがあるのだけれど、
こちらは元ネタそのものがネタみたいなものである。


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