↓で中村憲剛さんが、自身のプロ入りまでを語っています。
小学は普通の街クラブ。
中学は普通の部活。しかも中一の半年間はサッカーを辞めていたとのことでした。
ですが、日本代表で活躍するまでになりました。
私はこういう話を聞くと、実感を持って共感するところがあります。
というのは、あまり小学時代のチームレベルは、その後の成長に関係ないような気がしているのです。
たとえば、度々書いている市内最弱のときもあった代は、5年時に市内最強のチームに0対17で負けました。
ですが、そのときのキャプテンS君は関東リーグ所属チームにセレクションで合格し、主力になりました。
その関東リーグ所属チームに、市内最強チームから合格した子もいました。
その子はレギュラーを取れなかったようなのですが「まさか○○チーム出身のSに負けるとは思わなかった」と言ったということです。
それはそれで、どれだけうちのチームを見下しているんだよとは思いますが(笑)世の中の一般的な見方はそういったものかもしれません。確かに17点取ってぼこぼこにしたチームの子に、まさかポジション争いで負けるとは思わなかったでしょう。
ですが、私はその市内最強チームと試合をしていても、S君は個人として劣っているようには思いませんでした。
むしろS君が市内最強チームにいたら、普通にエースの座を争えるなと思っていました。
というのは、市内最強チーム相手でも、S君は必ず一人はドリブルで抜けるのです。1対1もほとんど負けませんでした。
そこで思ったのが、結局「個」があれば、高いレベルでもやれるのではないかということです。
そして「個」を磨くのに、必ずしも高いレベルでやる必要は私はないと思っているのです。
結局はいかに質の高い練習をやるかだと思っています。
強度といったことも大事だとは思います。
ですが、私としては、より「アイデア」や「技術」をつけることの方が大事だと思っています。
たとえば「技術」をつけるのならば、↓のブラジル式で、徹底的に細かく多彩な技術をやります。
アイデアの面では、たとえばボール回しをやるならば、グアルディオラ的に、多彩なコンセプトを持ってやります。
日本のポゼッション練習では「2タッチ」や「広い方に」という声掛けが一般的だと思います。
ですが、グアルディオラのアイデアは違います。
広い方に行くために、わざと狭いところにいくのです。
こういうのが秀逸なアイデアだと私は思うのです。
人それぞれ意見があり、どのような考え方にも真理はあると思います。
そういった中、私の観察してきた実感としては、小学時代に「勝ち負け」を追い求めすぎると、中学に上がったときに「あれ?なんか意外に俺って個人としてはあまりうまくないな」といったことになる気がしています。
あくまでも私の実感です。
もちろん小学時代の試合での一喜一憂は、それ自体が財産だと思います。
ですが私としては、小学時代は丁寧に基礎を身につけて、多彩な技術を身につけ、パス回しのいろいろなアイデアを学ぶことでいいと思うのです。そしてボールコーディネーションによって、いろいろな動きを身につけることでいいと思います。
私の観点では、サッカーはそこまで複雑なスポーツではありません。
判断としては、毎試合同じようなことをやっているのです。
ですが、その判断の基礎は、その選手の「技術」と「アイデア」に依存します。
たとえば、20mしかボールを蹴れない選手は50m蹴れる選手に比べて、プレー判断の種目自体が少ないのです。
ドリブルで一人も抜けない選手は、そもそもドリブルで抜くという選択肢がありません。
そして日本のチームは小学年代でもけっこう多くのチームが「ドリブル禁止」的ですし、ジュニアユース以降は、一層ドリブルは「悪者」になってきます。
ですがドリブルは一つの立派な技術です。しかも点を取るときは、ドリブルで一人剥がして、からが多いのです。
そもそも史上最高選手だと思われるメッシやマラドーナを見れば、誰もドリブルを否定できないでしょう。
小学生時代しか、自由にドリブルをできる時代はないとも言えます。
なので私は特に低学年のうちは、ドリブルをどんどんしてほしいと思って指導しています。
また、ボール回しにおいても、グアルディオラが言っているようなアイデアがない選手は、ただ単に「空いているところ」にパスコースを探すだけであり、よりスペースを作るためにわざと密集地帯にボールを出すというアイデアがありません。
それでは、判断の多彩さがなくなってしまうでしょう。
サッカーは判断のスポーツだと私も思っています。
ですが、上記したように、判断の多彩さを担保するのは、結局は技術でありアイデアなのだと思います。
そして、それはチームとして質が高いかどうかよりも、むしろコーチの力量になってくる気がしています。