道を歩く。 | 徒然に。

徒然に。

思ったことを気ままに。

 自分なりにサッカーコーチに一生懸命取り組んでいる以上、いつか真理を知りたいと思います。

 ですが、オシム監督が「目指すのはトータルフットボールだが、それは永遠に達成されない」と言ったことが心に残っています。

 自分のやり方は間違いなく真理ではないけど(誰でもそうだと思います)とにかく何かを情熱をもってやろうとしたら、何かを選択しなくてはなりません。

 そしてサッカーに関しては、このブログで書いているようなことを、私は選択したのでした。

 たとえば、最近では「利き足派」「両足派」の議論がありました。

 どちらも大事だというのは、私は観客の立場だと思っています。もちろん観客が駄目だと言っているのではなくて、客観的にそう思います。

 というのは、実際に現場のコーチに立ったら、無意識的であれ、なにかを選択することになります。

「カウンターサッカーかポゼッションサッカーか」「ショートパスをつなぐのかロングパスを蹴るのか」「ドリブル主体かパス主体か」「安全重視かリスクを冒すこと重視か」

 そう書くと、「結局は選手の成長だから、そういうスタイルは意味がない」といった意見があります。

 ですがその意見には、スタイルに意味がないことで選手が成長するという根拠がありません。というより、チームでプレーする以上、不可避的にスタイルの影響を受けることになります。

 さらに、選手の判断力が大事だといいますが、町田ゼルビアの選手と、FCバルセロナの選手の判断の基準は、正反対と言ってもいいくらい違うでしょう。

 それは、お互いのチームのスタイルが違うからです。

 ある程度危ない地域でボールを持ったとき、町田の選手なら安全第一のプレーになるでしょうし、バルサだったらリスクを承知でつなぐでしょう。

 チームのスタイルが違えば、判断の基準もまったく変わってくるのです。

 判断力に、普遍的な基準は存在しません。

 

 何を書きたいかというと、何かを一生懸命やろうと決めたならば、八方美人的な立場には立てないということです。

 なので、批判されることに関しては、もちろん腹は立ちますが、全然OKだと思っています。

 むしろ、何も批判を受けないというのは、その戦いの場に立っていないとも言えます。もちろんそれが悪いと言っているわけではありません。

 どうも最近、私のブログに対すると思われる批判記事が、けっこうあるように思います。

 私は基本的には、いつもブログ上で仲良くさせていただいている記事しか読まないのですが、それでも最近そのつながりで読むと、けっこうすぐに私のブログ批判じゃないかなと思われる記事を見つけることができます(笑)。

 私は「俺のブログもなかなか認知されるようになってきたんだな」と、別にうれしくはないですが(元々自己満足で書いているブログで、読まれようとも思っていないので、ブログランキングにも参加していないです)そう思います。

 私は、批判的な記事を読むときに、ユダヤ教聖典『タルムード』の言葉を念頭に置いています。

賢い人はアイディアを語り、普通の人はモノについて語り、愚かな人は他の人について語る。

 もちろん私はタルムードが合っているかはわかりませんが、自分が生きてきた中で、この言葉は実感的にしっくりきます。

 

 たとえば、私は利き足論争のときに、早稲田大学大学院の論文を挙げたことがあります。

 ちなみにこの方の論文での結論は「ドリブルとパスは利き足、トラップとシュートは両足」でした。

 

 

 この論文を書いた方の視点に、私は唸ったのでした。

 というのは、利き足か両足かということで、論文著者は実際に統計学を使って調べて、論文にまでしたのでした。

 アイデアとは、単なる思い付きで終わるものではありません。

 アイデアを思い付いたら、それについての過去の事象を調べ、自分なりに論理を組み合わせ、実際の現象と比較しなければならないと思います。

 論文の書き方と同じだと思います。

 まずアイデアを思い付いたら、そのアイデアを裏付ける証拠を探すのです。そしてそれを一般化できるかを考えます。

 なぜ人が文章を書くかと言えば、自分の主張を伝えたいからです。

 ということは、自分の主張を裏付ける事実を探してくるのです。

 それは古今東西普遍のことです。

 

 改めて書きますが、タルムードが合っているかはわかりませんが、タルムード基準で書かせていただきます。

 アイデアを語ることは、断定することではないと思います。

 小学校の作文みたいなのですが、私はブログ記事を書くときは、最近では特に「○○と思います」という感じで書くようにしています。

 アイデアであって、それが合っているかはわからないからです。

 

 タルムードでは、人について書くことは愚かなことだと言っています。

 私はブログ上で論争した(と勝手に思っている)方がいましたが、その彼は、私のブログ内容に対して批判記事を書いていた(と私が思っている)のであって、私のブログの書き方に文句は言っていませんでした。

 だから、度々書いていますが、腹が立つことは多かったですが、勝手に素晴らしい好敵手だと思っています。

 ですが、最近の何人かは、タルムードに照らすとちょっとなーと思ってしまいます。

 私に対して「子どものような態度」とか、書いています。

 私相手じゃなくて、私の勘違いならいいのですが。

 ですが、もし私の勘違いならばいいですが「永遠」て「延々」じゃありませんか。

 もしかしたら、「子どものような」間違いをしていませんか。

 私の勘違いならすいませんが、もしこの程度の国語力で分かった気になって人を批判しているのならば、まずは言葉の勉強からやり直すことをお勧めします。

 言葉の豊富さは馬鹿にできませんよ。

 私は「永遠」にはコーンドリブルをやっていませんよ。高学年になったら、違うことをやっています。

ただ低学年のうちは「延々」とコーンドリブルはやっていますが。

 

 それと、本当に仏教で自我を悪魔と言いましたか。

 それは大乗仏教でしょうか、小乗仏教でしょうか。

 もし大乗仏教経典でそう言っているのであれば、それは仏陀の言葉ではない可能性が高いと思います。

 大乗仏教と小乗仏教の違いはもちろんご存じだと思います。

 そして宜しければ原典を示してほしいと思います。

 書き方として「仏教では自我を悪魔と言いました」と断定して書かれていますので。その原典を示していただければと思います。

 私は仏教大好きですので、この辺は本当に興味があります。

 

 あと、仏教のことについて博識なようなので、おそらく非常に知識豊富な方だと思います。

 ユングはご存じだと思います。

 彼はこう言っています。

他人に対して感じる苛立ちや不快感は、自分がどんな人間なのか教えてくれる。

 まずは、ユングを受け入れるかどうかの議論があります。

 そして仮にもし、ユングを受け入れるのであれば、なぜあなたは私に苛つくのでしょうか。

 それこそ「ゾーン」に入れるのでしたら、私に苛つかないはずでしょう?

 自我がないのですから。

 では、ブログの前書きは自我があったわけですが、なぜ私(だと思われる)を嘲笑するような前書きをしたのですか?

 ゾーンを語るブログの回で、それこそ他人を嘲笑する前書きをする必然性はありますか?

 

 ですが、私としてはうれしいのは、私のブログに直接書き込みをしなかったことです。

 私は絶対に他者のブログに批判的な書き込みはしませんし、それは絶対的な礼儀だと思っています。

 そして、大前提として、今日1例を挙げて私に対する批判的なブログの方に反論を試みましたが、私のブログ批判は全然OKだし、これからもどんどん書いてほしいと思います。

 今日たまたまいいね!した人つながりで私のブログ批判を読んでしまったというだけです。

 なので、私は今回反論を期待するような記事を書きましたが、もしその方が反論記事を書いても、たぶん読まないと思います。

 それは私の自由だからです。

 そして相手の方も、私を自分のブログで嘲笑していただければ、それはそれでいいと思います。

 それが「言論の自由」というものです。

 ただ、言論の自由を破ることがあります。

 それは「相手のブログの場に踏み込んで批判的なことを書く」ということです。

 そういうときは、全力で対処させていただきます。

 私には日本最強法律弁護士事務所『西村あさひ法律事務所』パートナーの知り合いがいます。なんかこういうことを書くのはあれですが、本当にもの凄い威力です。なんでも解決してしまいますし、誹謗中傷の相手はすぐに突き止めてしまいます。

 ご本人のブログで何を書いても私は何もするつもりはありません。

 それなりに誹謗中傷を書かれていても、全然いいです。

 その代わり、私のブログに誹謗中傷的なことを書かれたら、すぐに西村あさひ法律事務所パートナーの弁護士に相談します。

 

 これは牽制であり、私に批判的な方にわかっていてほしいことでもあります。

 自分のブログの場で私の批判記事を書くのは、全然OKだし、同じように私も書きます。

 ですが、もし私のブログの場で批判を書くならば、本気で法的な措置を検討します。

 そういうことで宜しくお願いします。