ペットは既に「物」ではない | 弁護士石井一旭のよしなしごと

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京都市中京区・あさひ法律事務所弁護士石井一旭のブログです。
折を見ては書いている個人的備忘録ですが、
これもいつか誰かを暖めうるかもしれません。
一隅を照らす、これ即ち国宝なり。

久しぶりの投稿、セルフブレインストーミングです。

 

ペットは法律上「物」だということは人口に膾炙して久しくなってきて

法律相談の際に説明に苦労することも少なくなってきました。

 

よく引き合いに出されるのがドイツ民法90条の「動物は物ではない」との規定で、

それにひきかえ日本は遅れているという論調が、まぁ大多数なわけです。

 

しかしよくよく考えてみれば、既に日本でも「動物は物ではない」という話は実現されているようにも思うのです。

 

ひとつは、交通事故等で動物が死傷した場合に飼主に慰謝料が通常一般に認められている点。

通常物損には慰謝料は認められていないこととは対象的です。

いかに思い入れのある車やヌイグルミが傷つけられても、

物損それ自体を理由としてまず裁判で慰謝料が認められることはありません。

これに対してペット死傷事件では、慰謝料が認められることは現状当然の前提のように扱われています。

ペットを傷つけられた飼主は単なる物が傷つけられたこととは次元の違う精神的苦痛を負う、

という認識が裁判実務を支配しているということであり、その点で「動物は単なる物ではない」と言いうる事実です。

 

「そうは言っても金額は低額すぎるじゃないか」という批判は尤もで、

「家族の一員」としてのペットが殺傷されてあんな低額の慰謝料で満足できるわけがないのですが、

それでも全く慰謝料が認められない他の物損とは一線を画す扱いがされているのです。

それに、行き過ぎた空想かもしれませんが、愛護動物の殺傷に対する慰謝料をあまりに高額化してしまうと

飼っている動物を当たり屋的な行為に使う不逞の輩が出てこないとも限りません。

このへん、もう少し掘り下げて考えてみる必要がありそうです。

 

もうひとつは、刑事系の話。

自己物であってもペット(愛護動物)を死傷等させれば刑事罰が科されること。

動物愛護管理法が自己物であっても44条所定の行為に及べば犯罪としていることは

私有財産制を定めた憲法29条の大きな例外です。

 

動物愛護管理法の目的は、法1条で

「動物の虐待及び遺棄の防止、動物の適正な取扱いその他動物の健康及び安全の保持等の動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害並びに生活環境の保全上の支障を防止し、もつて人と動物の共生する社会の実現を図ることを目的とする。」

とされています。

 

刑罰規定を根拠付けるのはこの1条の前段

「国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」

の部分でしょう。

つまり社会的法益に対する犯罪と分類することができそうです。

しかしある種の気風の招来、情操の涵養に資する、という目的をもって

懲役5年の重罪を基礎付けることが本当に正当化できるのかは、論点になりそうなところに思います。

 

ひねくれたことを言うならば、国旗不掲揚や国歌不斉唱に対して刑罰規定が設けられたとしても、

「よりよい気風の招来、情操の涵養に資するから」という理屈で刑事罰が正当化できてしまうのではないでしょうか。

 

私有財産制の例外とも言うべき重罪化の根拠はどこにあるのか。

動物愛護の精神は近代の所有権絶対の原則に勝るのか、優越するとしたらそれはなぜか。

この辺、国会での法改正の際でも全く議論に上っていなかったのは残念です。

 

ともあれ、この2点からは、動物はもはや「単なる物」としては扱われていないと言えます。

だったら「動物は物ではない」という規定を設定してもいいように思いますが、

日本の伝統芸、現場の解釈論が真っ当(ということで誰も文句を言わない)のであれば、

わざわざ法改正をして形式面を整えようとはあまり思い至らないようです。