【私と千葉プロレス・その④】
2005年
1月24日。
タッグリーグ戦に出場する為に、この日から「大石真翔」に改名した旧姓・サンボ大石さんと正式にタッグを組み始める。
この時はまさか、19年後の2024年にもタッグを組み続けているなんてもちろん夢にも思わず…。
ちなみにこの日から、私のコスチュームも〈赤ショートタイツ〉から〈白ロングパンツ〉に変更。
画像は当時、アップルみゆき画伯が描いてくれた新コスチュームの私。
この時期、「選手会の発案で」千葉市内にあるお店や企業にポスターやチラシを貼らしていただけるよう、各選手が地域を分担して一軒一軒お願いして回る活動を行なっていてね。
私もアップル先輩と2人、市内を歩き回りながらポスター協力いただける場所を開拓してたなぁ。
上の画伯の絵を見てたら、何故かフトそんな事を思い出した。
5月。
ドラゴンゲートの後楽園ホール大会に参戦。
大石&旭vs土井&吉野
完敗。
もしこの頃の我々に「サボテンの花」という武器があれば、また違う結果になったかもしれんなぁ…とタラレバの想像。
※サボテンの花が完成するのはまだ数年先の話。
そして5月22日に「GET」が、23日に「RAVE」がそれぞれスタート。
K-DOJO・2リーグ制の始まり。
ちなみにGETの初戦での私のカードは、みちのくプロレスの井上治とのシングルだった。
治ちゃん…
7月。
初期K-DOJOの象徴的存在だったお船ちゃんが電撃引退。
引退後、何度もそういう話はあっただろうけど、復帰する素振りなんて一切見せないその姿はカッコ良いなぁと思ったね。
プロレスはやり切ったんだろうなぁ。
9月。
大石さんと共にドラゴンゲートの巡業に帯同。
毎試合、マグナムTOKYOさんと組んだり闘ったりを繰り返しては沢山のアドバイスをいただいた。
この時期の経験は本当に財産!
千葉に戻り、そんな他団体での経験を活かしてこれまで以上に頑張ろう!と張り切っていた矢先、試合中の十嶋くにおの張り手でまさかのアゴ骨折。
入院〜手術となり、再び欠場へ。
10月。
地元福岡の病院で手術をしたので、退院後もそのまま福岡に滞在し、月末の博多大会の営業活動に勤しむ。
月末のK-DOJO長崎大会で復帰。
翌日、博多スターレーンで2度目の地元凱旋試合。
この年以降の10年間、博多大会では毎回100枚以上のチケットを売っていた。
途中から博多大会限定の営業部長みたいな扱いになった。
12月。
インディサミットで、初めて後楽園ホールのメインイベントを経験。
飯伏幸太の「フェニックススプラッシュをさらに半回転させるとんでもねー技」で圧殺される。
この年は自団体だけでなく、色んな団体で試合が出来た一年だった。
でも試合以上に反応があったのは、NHKの「ピタゴラスイッチ」の中のワンコーナー・アルゴリズム行進にK-DOJOメンバーで出演したことだったけども…
では、ごきげんよう。