板倉鼎・須美子展 | アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】

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現在、千葉市美術館で開催されているのは、“板倉鼎・須美子展”という展覧会。

エコール・ド・パリ最盛期の1920年代後半に、

パリで活動した洋画家・板倉鼎(かなえ)と須美子の夫妻にスポットを当てた展覧会です。

 

(注:展示室内は一部撮影可。写真撮影は、特別に許可を得ております。)

 

 

幼い頃より、千葉県の松戸市で暮らし、

医者を継がせたかった父の反対を押し切って、

東京美術学校西洋画科に進学した板倉鼎。

洋画家の岡田三郎助のもとで学び、

弱冠20歳にして、帝展で初入選を果たします。

その頃に描かれた自画像が、こちら↓

 

板倉鼎《自画像》 1921年2月 油彩、カンヴァス 千葉市美術館蔵

 

 

控えめに言って、イケメンです。

イケメンな上に、絵の才能があって、

しかも、実家が代々、医者でお金持ち。

スペックが高すぎて、もはや嫉妬する気にもなりません(←?)。

 

そんな鼎が24歳の時に出逢ったのが、7歳下の須美子。

ロシア文学者として知られた昇曙夢(のぼりしょむ)の長女で、
文化学院が創立した年に入学し、あの山田耕筰に音楽を学びました。

 

 

 

相当に大人しい女性だったようで、

当時の『婦人グラフ』に掲載された際には、

「おとなしい昇須美子さん」と紹介されていたほどです。

そんなこと写真では伝わらないんだから、

雑誌の記者も、わざわざ書かなくてよかろうに。

 

ともあれ、2人は意気投合し、結婚。

与謝野寛・晶子夫妻の媒酌で結婚式を挙げました。

ちなみに、結婚式は帝国ホテルで行われたそう。

ここまでは勝ち組感がスゴかったです(←?)。

 

さて、結婚の翌年に、2人はハワイを経由してパリへと渡ります。

そこで、ジョルジュ・ブラックと親交のあったフランス人画家、

ロジェ・ビシエールと出会い、彼の教えを受けることとなりました。

ビシエールに師事する前は、いかにも外光派といった感じの作風でしたが。

 

板倉鼎《水辺の風景(坂川)》 1920年頃 油彩、カンヴァス 松戸市教育委員会蔵

 

 

 

ビシエールの指導の結果、鼎の作風は大きく変化!

キスリングっぽい絵やマティスっぽい絵など、

当時のパリの最先端の画家と見比べても遜色ない絵を描くようになりました。

 

 

 

実際、パリ留学2年目にして、

サロン・ドートンヌへの入選も果たしています。

 

さて、特に画家を目指していたわけでもなく、

夫についてフランスにやってきただけの須美子でしたが、

ある時から、鼎の手ほどきで油彩画を描くようになります。

専門的な教育を受けていなかったのが、むしろ功を制し、

アンリ・ルソーのような、グランマモーゼスのような、独自の作風を確立。

 

板倉須美子《午後 ベル・ホノルル12》 1927-28年頃 油彩、カンヴァス 松戸市教育委員会蔵

 

 

このオリジナリティ溢れる作風が、画壇にも評価され、

なんと油彩画を学んだその年に、サロン・ドートンヌに入選してしまいます。

さらに、出産・育児など多忙な中でも制作を続け、

その翌年のサロン・ドートンヌでも見事入選を果たしたそう。

一説によると、当時パリでは、鼎よりも須美子のほうが評価が高かったとか。

妻の成功は嬉しくもあったでしょうが、

その画家としての成長のワイルドスピードぶりに、

鼎も内心で少しはショックを受けていたのではないでしょうか。

 

それも理由の一つだったのかもしれませんが、

須美子がサロン・ドートンヌに初入選した翌年に、

鼎はパリを離れ、友人とともに50日間に渡ってイタリアを周遊しています。

そこで、ルネサンスの名画に触れ、大きな感銘を受けたそう。

その帰国後に、須美子をモデルにした絵画を多く描いていますが。

 

 

 

そのほとんどが赤い服を着ています。

鼎は、ルネサンスの画家の中でも、

とりわけピエロ・デッラ・フランチェスカに惹かれたとか。

そう言われてみれば、フランチェスカの絵には赤い服が多く登場しているような。

その影響が大いにあるのかもしれません。

 

さて、順風満帆に見えた2人ですが、

1929年、突如として、悲劇が夫婦を襲います。

鼎が歯痛を訴え、高熱の症状を発症し、

10日間の闘病の末に、この世を去ったのです。享年28歳。

失意に暮れた須美子は日本に戻るも、

その直後に、2歳の愛娘を病気で亡くします。

しばらくして、有島生馬の指導を受け、

再び絵筆を取るようになりましたが、結核になり、

須美子もわずか25歳で逝去しました。

 

・・・・・・・・・・・・・。

 

これがドラマや漫画だったら、あまりのバッドエンドぶりに、

「最終回で台無しじゃねーか!」と、ツッコみたくなるところですが。

これこそがリアル。

人生は筋書きのないドラマだということを、痛感させられる展覧会した。

星星

 

 

なお、現在、千葉市美術館では、

板倉夫妻と同時期にパリに留学した洋画家、

石井光楓をフィーチャーした展覧会も同時開催されています。

 

 

 

30歳でアメリカに渡り、その後、パリへ。

昭和6年に帰国してからは、春風会で活躍し、

50代からは、千葉県のある高校で美術を教えるようにもなったそう。

享年82歳。

板倉夫妻とは、ある意味対照的な人生です。

もし、板倉鼎があの時病死せず、

帰国していたら、こんな人生もあったのかも。

そんなもう一つの世界線を見たかのような展覧会でした。

 

ちなみに。

石井光楓展の出展されていた中で、

もっとも印象に残っているのは、彼の絵ではなく。

パリで撮影されたという日本人芸術家たちの集合写真です。

 

 

 

いつの時代にも、集合写真を撮る際に、

前列で横たわって目立とうとするヤツがいるのですね!

サッカー部のノリみたいな!

 

 

 

 

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