今日は、牧野富太郎の発見が現東京都庭園美術館~国立科学博物館附属自然教育園にも
及んでいた、という話を。
(NHK連続テレビ小説「らんまん」放映中に話題にできればタイムリーだったんだけど。)
その発見により、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)のあたりを
平賀源内が行き来していた可能性があるそうです。
まずその前提として、(2021年のブログに綴ったとおり)頭に入れておくべきは、
東京都庭園美術館および隣接する自然教育園が、かつて統合されていた、ということ。
江戸時代には両方の敷地にまたがって、高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷が置かれます。
(下は2021年ブログにも載せた教育園の案内板)。
その後案内板の通りの変遷をたどり、つまり海軍などの火薬庫を経て宮内省の御料地になり、
1921(大正10)年、朝香宮家・鳩彦王がご成婚された年に
この御料地の南西部分が朝香宮邸予定地として割譲されます。
朝香宮邸・現東京都庭園美術館が竣工するのは1933年のことですが、
その前にこの地を訪れた牧野富太郎が、1932年の論文でこんな指摘をしています:
関東では生息していないトラノヲスズカケがここにある、と。
そして一つの仮定を立てます。
この地が高松藩主下屋敷だった時代に、平賀源内が移植したのではないか。
高松藩所属時代の源内は、薬草園で薬草栽培をして研究をしていました。
高松の栗林公園にもトラノヲスズカケ生息の適地があることも
その推測の根拠のひとつです。
植物の名前をつけ、分布をまとめるだけでなく、人・物の移動を調べ、
その分布の起源を探る、、、改めて牧野さんの仕事のカバー範囲の広さを
実感します。
朝香宮邸とともに教育園もかつて「白金御料地」だったという印:
ちなみに、下屋敷になる前の室町時代には、
この一帯に豪族が住み着いていたという話で、
その痕跡を見ることができます:
自然教育園と庭園美術館の境に低い壁が設けられているこの部分。
壁が不自然に盛り上がっている部分があるのは(赤矢印部分)、土塁の跡。
室町時代に住んでいた豪族が外敵から守るために設けた土塁である可能性が大きいそうです。
(3つ下の写真参照)。
土地が隆起した土塁跡。
かつてここに白金長者なる豪族がいた関係でしょうね。
高速の向こう側の町名は、「長者丸」です。
縄文時代から人が住み着き、その後、
豪族の屋敷~高松藩の下屋敷~弾薬庫~白金御料地~朝香宮邸~GHQ接収~吉田茂の外相・首相公邸~西武鉄道所有時には迎賓館
というバラエティーに富む変遷を経て、様々な歴史を見てきた庭園美術館・自然教育園。
探せば逸話と名残がぽつりぽつり出てきます。
2021年撮影: