我家の郵便受けにこの程(2003年11月)セトゥーバル市役所から以下の様な通告が来た。
 13年間セトゥーバルに暮らしているがこんな通告は初めての経験である。
 今年はポルトガル国中が猛暑による山火事で…それにこのところ災害が多い。
 2~3年前になるが北の方の町ポルトの上流にあたるカステロ・デ・パイヴァの橋が大雨で流され、ちょうど運悪く通りかかった満席の観光バスをはじめ多くの乗用車が橋もろとも流された。
 遺体は大西洋までも流されかなり離れたところに流れ着いた遺体もあるが、その大半は行方不明のままだそうで、その犠牲者は 70 人以上とのことである。
 ポルトガルは毎年のようにこの雨期には洪水に見舞われている。
 今年は山火事で山は保水力を失い、大雨が降れば一気に流れ下り洪水の危険性は例年より高い筈だ。
 それで市役所としてもかなりの危機感を持っているのかもしれない。
 原文を参照しながら検討してみようと思う。MUZVIT

O Serviço Municipal de Protecção Civil (市役所、市民保全サービス課よりの)
recomenda: (忠告!)

●Limpe telhados,algerozes e chaminès;

屋根瓦、雨どい及び煙突の清掃。

●Arranje um anteparo de madeira ou metal para a porta da rua para evitar cheias em casa;

家を水害から守るため、材木か鉄板の遮蔽板を用意して入口からの水の進入を防ぐ。

●Limpe os ralos e sumidouros do seu quintal;

庭の排水口の清掃。

●Calafete portas e janeilas;

入口や窓からの水漏れ防止のためのコーキングの点検。

●Limpe ou substitua o filtro do exaustor de fumos;

換気扇のフィルターの清掃または取替え。

●Verifique o prazo de validade da mangueira do gás;

ガスホースの有効期限の点検。

●Previna-se co tra a gripe.Idosos e crianças devem ser considerados grupos de risco.

老人や子供たちのインフルエンザの予防等、周囲の地域住民が考慮する義務がある。

Tenha sempre em casa; (家庭の備え)

●Reserva para dois ou três dias de água potável e alimentos que não se estraguem;

賞味期限を確認して、2~3日分の飲料水と食料の備蓄。

●Rádio transistor e reserva de pilhas;

トランジスターラジオの電池の確認。

●Lanterna e reserva de pilhas;

懐中電灯の電池の確認。

●Valas e fósforos ou isqueiro;

蝋燭、マッチ、ライターの確認。

●Medicamentos essenciais para toda a família;

家族各人の薬、救急箱の点検。

●Agasalhos,reservas de roupa e objectos;

避難の際の衣類や所持品の用意。

●Artigos especiais e alimentos para bebés;

赤ん坊用の食品と衣類。

●Fotocópias de um documento de identificação para cada membro da família;

家族全員の身分証明書のコピー。

●Fotocópias de outros documentos importantes.

その他大切な証明書等のコピー。

SETUBAL Município participado (セトゥーバル市役所広報)

といった内容だがポルトガルではなくても日本でもどこの国にあっても共通の備えであろう。


さて、こうはしておれん。我家も点検に取り掛からねば… MUZVIT

(この文は2003年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 石膏デッサンと言うものをもうかれこれ30年くらいはしていない。
 最初は高校一年生の時「大顔面の面取り」から始まって普通の「大顔面」、そして「アグリッパ」「ヴィーナス」「ブルータス」と描いていったように記憶している。
 それを繰り返し繰り返しやっていく。
 時々「闘士像」や「モリエール」「アリアンス」「カラカラ像」といったものもやる。
 高校美術部にも結構いろんな石膏像があったわけだ。
 いろんな石膏像があったにもかかわらず、3年間「大顔面」しか描かなかった先輩がいた。
 他の石膏像を描いている現場を見たことがないし、油彩を描いている姿も記憶にない。
 「顔が大顔面に似てきている」と皆からひやかされていた。

 高校を出て天王寺美術館の半地下にある研究所でも随分と石膏デッサンはやった。
 高校にあった以外の石膏像もたくさんあったがどれも薄汚れていて描けるものは限られていた。
 そして東京高円寺のフォルム洋画研究所。
 ここはいつも人であふれていて僕は隅っこの場所しか確保できずに、いつもいつも遠くからの「ブルータス」しか描けなかった。

 それから大学に入ってからも課題として少しは描かされた。
 その時も「大顔面の面取り」から始まった。
 基礎の基礎からと言う訳だ。

 それ以来全く石膏デッサンはしていない。
 普通、学校とか研究所でないとなかなか石膏は描けない。
 それは石膏像がないからだ。

 石膏デッサンは絵画の基礎。
 ということが言われているから絵を描こうとする人ならたいていはやっているはずだ。
 美術大学の入学試験にも必ず出るから受験をする人はかなりの練習をする。
 東京に居た時は特に周りの人たちは東京芸大を目指している人ばかりで熱心さも相当のもので随分刺激にもなった。
 僕は高校を出て当初大学に進学する気持ちはなかったのだが、基礎だと思っていたこともあるし、描くのは嫌いではなかったので受験とは関係のない気持で描いていた。

 ところが高校を出て一年目に東京芸大を受験した。
 受験したといっても全くのひやかしで、どんな雰囲気なのかを味わってみるだけの受験であった。
 こういうふとどきな人間が居るから東京芸大の受験倍率が上るのだ。
 石膏デッサンで僕に割り当てられた場所は50人程入る部屋のど真ん中で、僕のイーゼルのすぐ前に大きなぼやっとした石膏像が近すぎる位置に見上げるようにして視界いっぱいにあった。
 それまでに描いた事も見た事もない像である。
 しかも手垢で汚れ、てかてかに光って、どこから光線が当っているのかも解らず、それまでやってきたデッサンとは全く異質なものでとても絵にはならないまま時間切れとなった。
 その時の石膏像は何であったのかも未だに判らない。

 その次の年に大阪芸大を受験した。
 その時はまっさらの「アグリッパ」であった。
 これは僕は何度も描いていたし、すらすらと描けたのだと思う。
 もう随分昔のことなのでどんな角度から、どの程度うまくいったのか全く憶えていない、が合格したのだから巧くいったのだろう。

 その「アグリッパ」の大理石原型はパリのルーブル美術館にある。
 「ミロのヴィーナス」とはそれ程遠くない部屋にあるが、ガラ-ンとしたところにあってうっかりすると見過ごしてしまう。
 全く人だかりはないし、監視もあまり居ない場所だから触ったりして感触を確かめることも可能だ。
 そっくりの「アグリッパ」はフィレンツェのウフィツィ美術館にもあるが、これは胸像の衣服の部分までもあり、やはり石膏像の原型はルーブルのものに間違いはない。
 でも顔の肉付きや表情などは全く瓜二つである。

 たくさんありすぎて何処のが原型か見当がつかないのは「シーザー像」と「カラカラ像」である。
 ヨーロッパならどこの博物館にでもあるといっても過言ではないくらいたくさんある。
 どれをみても「あっシーザーだ」「あっカラカラだっ」とすぐに判る。
 広大なローマ帝国の隅々にまでその皇帝の姿、形を知らしめる目的で彫られ、各地に配置されたのであろうか?

 「ミロのヴィーナス」がルーブルにあるのは誰でも知っていることだが、やはりこの場所にはいつも人だかりが絶えない。
 高校にあった石膏の「ミロのヴィーナス胸像」は僕にとって描きづらい苦手な胸像であった。
 「ミロのヴィーナスの面取り」はもっと苦手であった。

 「ミロのヴィーナス」は僕たちが高校生の時にルーブルから離れて本物が日本にやってきた。
 京都の美術館は連日、美術館を何周にも取り巻く行列で、やっと「ミロのヴィーナス」までたどり着いたとしても立ち止まって観ることは許されなかった。
 ルーブルでもこの場所はいつも人が絶えないが一日中観ていても誰も文句は言わない。

 石膏の「闘士像」も頭の部分だけのものが一般的だが、ルーブルにあるのは全身像である。
 「ニケのヴィーナス」はルーブルのものも頭部だけで石膏像とそっくりそのままあばた顔の大きな頭である。

 フィレンツェのウフィツィ美術館の回廊の突き当たりにはレースのカーテンを透してドゥオーモのクーポラが間直に見える。
 そのレースのカーテンの前に「ラオコーン像」がある。
 でもこれは大理石には違いないがオリジナルではない様な気がする。
 「ラオコーン像」もいくつかの美術館で見た。
 確かに石膏像の原型だと思われるものをどこかの美術館で見ているが、もしかしたらローマのバティカン美術館だったかもしれない。

 石膏像の原型というとギリシャ彫刻、古代ローマ彫刻ともう一つの時代、やはりルネサンス時代のミケランジェロであろう。

 高校生の時「昼」「夜」と題されたメディチ家の墓の素晴らしいデッサンを眺めてはため息をついていた。
 眺めていたのは「アトリエ別冊」のデッサン教則本である。
 東京芸大に入るにはこういうデッサンが出来なければ駄目なのかと思っていた。
 たぶんその石膏像の全体像が東京芸大にはあったのだろう。
 大きなものだから何処にでもあるというしろ物ではない。

 そのオリジナルはフィレンツェのメディチ家礼拝堂の新聖器室にある。
 「昼」「夜」の男女の像。その上に「ジュリアンの像」が一体となっている。
 「ジュリアン」も全身坐像であるが、日本で見る石膏像は胸像が普通である。
 そしてそれに対する位置に「ロレンツェⅡ世の像」。
 それには「曙」と題された女性像と「黄昏」の男性像が一体となっている。
 それほど広いとは言えないが、この新聖器室自体もミケランジェロの設計である。
 そしてその壁にはミケランジェロの落書きが残されている。

 大きすぎて誰も手がけることが出来なくて、放置されていた大理石からミケランジェロは「ダヴィデ像」を彫り出した。
 これはフィレンツェのアカデミア美術館にある。
 まことに巨大な大理石像である。

 この像が完成した当時ミケランジェロはこの「ダヴィデ像」を美術館などの屋内ではなく広場に設置されることを望んだ。
 1504年1月25日にフィリッポ・リッピ、ボッティチェリ、ペルジーノそしてレオナルド・ダ・ヴィンチが加わっている美術家委員会が「ダヴィデ像」の置き場所について討議した。
 そしてミケランジェロの希望に従って市政庁舎の前に建立と決定した。

 その市政庁舎の前には今、その「ダヴィデ像」のコピーが設置されている。
 そしてもう一体、フィレンツェの街を一望できるアルノ川対岸の丘の上、その名もミケランジェロ広場にもそのコピーがある。
 いずれも実物と同じ巨大な大理石像である。
 そして本物は今、ミケランジェロが設置を拒んだ美術館の中にある。

 そのアカデミア美術館の「ダヴィデ像」の周りには大学生くらいの20人ばかりの若者がベンチに座ったり床にうずくまったりしてスケッチブックに鉛筆やサインペンを走らせていた。
 まあまあというのも何人か居たが大半は下手糞であった。
 「どういうグループか?」と尋ねてみるとどうやら美学生ではなくて医学生ということであった。
 それにしても本物のミケランジェロを課外授業でデッサン出来るとは羨ましい限りである。
 やはりイタリアならではかもしれない。

 そう言えば父が昔アルバイトで「服飾専門学校」に石膏デッサンを教えに行っていたこともあった。
 いろんな分野の基礎となるのだろう。

 このアカデミア美術館には「ダヴィデ像」の他にノミの跡が生々しい未完成のミケランジェロがたくさんある。
 これらもすごい迫力である。
 未完成の像がならんだ隅っこに「奴隷像」があった。

 ミケランジェロで見逃せないのがやはりフィレンツェのバルジェッロ国立博物館である。
 若い男性像の「バッカス」と円形のレリーフ風の彫刻「聖家族」。
 共に美しい真っ白の大理石像である。

 その同じ部屋に「ブルータス」がある。
 これはまさしく我らが学生時代に親しく描いた石膏像の原型である。
 大きさもノミの跡までもそっくりそのままで、形はそっくりであるが色が違う。色がなんとも美しい。
 透明感のある飴色の大理石はルネサンスというよりも、もっと遠く初期ローマ時代の、あるいはギリシャ時代の深さを伝えている。

 そのバルジェッロ国立博物館の2階には、ミケランジェロの先輩格にあたるドナテッロの「聖ジョルジョ像」がある。
 これも石膏像の多くは胸像であるが、オリジナルは全身立像である。
 しかも背後にゴシック風の”壁がん飾り”と一体になった像である。

 これはこの博物館で見る前にフィレンツェの通りで見かけた。
 ヴェッキオ橋とドゥオーモを結ぶ繁華な通りの中間あたり、かつての穀物倉庫跡オルサンミケーレ教会の外側に他の彫刻たちと並んでやはり”壁がん飾り”と一体となった「聖ジョルジョ像」が通りの喧騒をよそに遠くを見晴るかしていた。
 当時はこの場所にオリジナルがあったのだろう。今はコピーである。

 石膏像の原型ともなると、それなりに偉大な彫刻家が彫ったか、歴史的にも芸術的にも優れた作品ばかりであるだろうけれど案外と旅のガイドブックなどには出ていなくて、見つけた時は「あっ、こんなところにあったのか」と感激してしまう。
 そしてその都度デッサンに熱中していた若き日のことが甦る。

 それにしても未だ「大顔面」のオリジナルには出逢っていないような気がする。
 果たして何処にあの大きな顔は隠れているのだろうか? VIT

 その後、検索で簡単に見つかったのだが「大顔面」のオリジナルは『ルーブル美術館』にあるそうだ。2世紀頃の大理石像で、マルクス・アウレリウス・アントニヌスと共同でローマ皇帝を務めたウキウス・ウェルズ帝(130~169年)という人物の半面だそうです。

 『ルーブル美術館』なら観ている筈だが大理石像の1部分で気が付かなかったのかもしれない。VIT

 

 

(この文は2003年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 「すべての道はローマへ通ず」
 ここはヨーロッパの一番西の端、大西洋が目の前に広がるポルトガルのセトゥーバルに居てもその実感はある。
 実際はローマからは随分と離れていておおよそ3000キロ。

 セトゥーバルの町外れにはローマの道と言うのが残されているし、ローマ橋もある。
 ローマの水道橋もサッカー場の側にひっそりと佇んでいる。
 いかに古代ローマ帝国が強大であったかが想像できる。

 フェリーで対岸のトロイアに渡れば、ローマ時代の「イワシの塩漬け工場跡」が遺跡として保存されている。
 オイルサージンの原型であろうか。

 かつてこのセトゥーバルはオイルサージンで栄えた町である。
 今も操業している工場も少しは残っているが、それ以上に工場跡がたくさんある。
 1914年~1952年の写真を見ると今の漁港はイワシ漁りの帆漁船でひしめきあっているし、工場では女工さんたちが手作業で缶詰め作業を行っている。
 工場から製品を運び出すのは荷馬車である。
 僅か50年~80年前の姿であるが、500年昔も千年前もそれほど変わっていない様な気もする。
 むしろこの50年で大きく様変わりしたのではないだろうか?
 その写真の工場は今では博物館として再利用されている。

[Museu do Trabalho de Michel Giacometti/Setubal]

 ローマ遺跡には釜の様な跡と浴場跡などもある。
 どれくらいの人が働いていたのか知らないがイワシ加工の仕事をした後、皆で一日の疲れを癒し楽しく風呂に入って汚れや汗を流していたのだろう。
 ローマの浴場らしく僅かばかりだがモザイクの跡が見てとれる。

 ローマ時代からこのセトゥーバルの人は脈々とイワシを加工し続けてきたのであろうか?

 今ここからローマまで歩いて行く人は恐らくいないだろう。車ではどうかな?たぶんいると思う。

 かつて日本が信長の時代「天正遣欧少年使節団」として、九州片田舎の13歳程の少年四人(あるいは六人)伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、コンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノ(いずれも日本名は不明)が長崎からポルトガル船で(西暦1582年2月20日)出帆し、
二年半の歳月をかけリスボンに(1584年8月10日)投錨。
 このセトゥーバルもおそらく(9月6日頃)通って、各地で歓待を受けながら長い年月を費やして(1585年3月22日)ローマまで行っている。と言ってもスペインの途中からは船を使っているが…

 往復ほぼ同じ様な行程をたどり、長崎に戻ってきたのは1570年7月。
 実に八年五ヶ月の歳月が流れていた。
 日本では信長から秀吉の時代に変わっていた。
 それは古代ローマ時代ではなくて、16世紀文化の華ひらいたルネサンスの時代である。

 ローマ時代はリスボン(Lisboa)のことをOLISIPOと書いたらしい。
 セトゥーバル(Setubal)はCETOBRIGAと呼んでいた。
 ローマ街道はOLISIPO(リスボン)からTAGUS(テージヨ河)を渡り、EQVABONA(今のCoina/コイナあたりだろうか?)の船着場から、CETOBRIGA(セトゥーバル)を通ってSALACIA(Alcacer do Sal/アルカサール・ド・サル)EBORA(Evora/エヴォラ)そしてEMERITA(Merida/メリダ)へと繋がっている。

 メリダ(スペイン)には大規模なローマの遺跡が残されている。
 劇場跡、闘技場跡、浴場跡、橋、それに保存状態の良いたくさんの大理石彫刻や円柱が博物館で見ることが出来る。
 彫像の中にはカエサル(シーザー)やカラカラ帝などもある。
 それにモザイク。これも主だった物は博物館に展示されているが、それ以外にもおびただしい数のモザイクが雨ざらしで山積みされている。

 ローマ時代のモザイクはポルトガル中部の町コニンブリガでも保存状態の良いのを見ることが出来る。
 その他にもポルトガルの国中たくさんの場所でローマの遺跡は保存されている。
 いや今なお使われている橋や水道橋などもある。
 リスボンにしてもエヴォラにしてもローマの遺跡の上に今の町がある。
 もし掘り返してみたならぞくぞくと遺跡が出てくるに違いない。

 セトゥーバルも例外ではない。
 セトゥーバルの旧市街にある「ルッジェロ」の写真屋。
 その控え室の机の天板を開けるとローマ時代の井戸になっているのだから…。

 セトゥーバル郊外に保存されているローマの道をこの程訪れてみた。
 訪れてみた。と大げさに言ってみてもはじまらない。
 我家から車でほんの五分のところにあるのだから。
 いつも通る国道から少し脇道に入ったところにそれはある。

 幅はようやく馬車がすれ違うことが出来る程度。残されているのは僅か300メーターほど(実際は1キロほどでこれを書いた当時は知らなかった)だが、現代の物とはあきらかに違うアラビダ大理石などの磨り減った石畳に、そのいにしえの空気を感じ取る。
 原生化した小さなオリーヴの実がその石畳にたくさん散らばっている。
 おそらく今は羊と羊飼いくらいしかその道は使わないのだろう。
 野鳥が我々の行くのを警戒してか鳴声高く、まるでうぐいすのようにさえずっている。VIT

 

 

(この文は2003年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 ポルトガルの山火事は世界中に報じられた。
 七月の末頃に各地で同時多発的に始まった山火事はどんどん新たな地域を求めて山林を焼き尽くすだけではなく農家や小さな村々をも飲み込み拡大していった。

 連日ポルトガルのテレビでも特別ニュース番組を組みその迫力のある映像を流したので僕も釘付けになって見ていた。

 ポルトガルの山火事は今年だけに限らず毎夏のことなのだがそれにしてもこの八月は悲惨であった。
 消防士を含めて多くの犠牲者も出た。

 ポルトガルには元々油分が多くて燃えやすいユーカリの木と松の木がたくさん植えられている。
 ユーカリはパルプの原料として植えられているようだ。
 ポルトガルの気候に適しているのか成長が早く採算性が良いのだろう。
 ドライブをしていてもユーカリ林の側を通ると、時たまよい香りが締め切った車内にまで忍び込んでくる。
 巨木の森も多くて森林浴にはもってこいでコアラでなくても気持が良い。

 ポルトガルでは大航海時代から新たな土地を発見すると、その土地にしかない植物を本国に持ち帰る慣わしがあって、ユーカリの木もオーストラリア大陸が発見されてかなり早い段階からポルトガルで植栽されていたらしい。

 ブラジルが発見されてジャカランタが持ち帰られ、日本が発見され椿と紫陽花がポルトガルに植えられた。

 松の木も利用価値は高い。
 そしてポルトガルには何種類もの松が植えられている。
 松の実はポルトガル人は好んで食べる。
 アルカサール・ド・サルの名物は松の実の砂糖菓子だ。
 松ボックリは炭火焼の火付けに便利だ。
 松脂(まつやに)を採取している光景も良く見かける。
 葉っぱからはテレピン油が採れるそうだ。
 テレピン油は掃除用の洗剤としても使われている。
 もちろん材木としても用途は広い。

 ヨーロッパの今年の夏はそれにしても暑かった。
 5~6年前に60年ぶりの猛暑と言う夏があってその時もかなりのものであった。
 セトゥーバルの町の温度計は51度を指していて驚いたことがあるが、今年はそれを上回り150年ぶりとの事である。
 フランスでは猛暑による死者が一万人だとか、びっくりする数字である。
 ポルトガルでも1800人に達したと発表された。
 なんでもポルトガルでは人が死亡してもその原因をよく調べないから、フランス程は数字が出てこない。のだとか冗談とも本気とも取れる噂が流れている。

 今年最も暑かった八月初旬にポルトガルでも最も暑いと言われている内陸部の町に一泊旅行をした。
 その時のことを書いて僕がある人にお送りしたメールがある。
 その一部をここに引用したいと思う。

拝啓、○○様

 ポルトガルは激暑です。今までにないアトリエの気温に(もちろんエアコン等はありません)100年前の猛暑のアルルでのゴッホの心境になって描いています。

 猛暑のポルトガルの山火事は治まるどころか、新たな地域へ広がっています。
 大気はますます乾燥して、からからの風が吹いています。
 一雨欲しい所ですが、雨は全く期待できません。
 日本では二ヶ月間も雨が降らないとなったら大騒ぎでしょうが、ポルトガルでは初夏から秋までは一滴の雨も降らないと言うのが例年通りで普通なのです。
 ですからこの時期、雨が降らないからと言って、雨乞いの踊りをする人もいませんし、雨乞いの祭りもありません。
 それでも幸いな事に日本の様に渇水の心配もあまりしません。
 やはり端っこにあるとは言えポルトガルも大陸の一部です、何百キロもの大河が国境を越えて流れていますし、地下水だって豊富にあるのです。
 むしろ八月のこの時期に雨が降ったら「異常気象だ!」と言って騒ぎ出すかも知れません。

 昨日一泊旅行で内陸の町のお祭に行ってきました。
 途中、山火事のニュースで伝えられているあたりとは違う場所ですが、大規模な山火事あとの側を通りました。
 そのあたりは松やユーカリではなく、オリーブとコルク樫の林でしたのでそれほど大規模にはならずに、ニュースにものぼらなかったのかも知れませんが僕の見る限りでは見渡す限りでかなり大規模なものでした。
 内陸に入ると暑さは尋常ではなく、クルマのクーラーをいっぱいにしていても外からの熱が伝わってきました。
 途中の村で「ちょっと休憩」とクルマから出ると本当に燃えあがるようでした。
 温度計を持って行かなかったのが残念ですが、恐らく50度くらいになっていたのかも知れません。
 目指す町には民宿が一軒だけありました。
 「エアコンのある部屋はないのですか?」と聞くと宿の主人は「なななんだってぇ!ええエアコン~ん?」と笑い飛ばすだけだし。
 もしかしたら内陸の町は砂漠と同じで昼間は暑くても夜になったら急激に温度は下がるのかな?と言う僕の浅はかな知識が一瞬頭をよぎり、たぶん大丈夫だろうと思ってしまったのです。
 それに新品らしき扇風機はあるし。「まっ、大丈夫やろ!」とその宿に泊まる事にしました。
 ところが温度は下がるどころか。新品?の扇風機は「グオーグオー」とうるさく熱風をかき混ぜるだけで、夜中に何回も水のシャワーを浴びて、裸になって濡れタオルを掛けて…。
 したがって寝返りも打てないし、お陰で今日は寝不足で身体はがちがち。

 それでお祭はどうだったかと言うと、お祭の屋台で一番乗りに夕食を取ったのですが脱水状態だったのでしょう。よく冷えた白ワインも一本空けて…またフランゴ(チキン)の炭火焼はたっぷりと粗塩がまぶされていて、その塩辛さが熱された身体にはことのほか旨くて…、ますます喉は渇き、その後広場で生ビールの黒を飲んだのですが、旨すぎて一気にいってしまったのです。
 いよいよ祭が始まるという時になって酔っぱらってしまって一旦宿に帰ってちょっと休憩…。
 そのまま暑さと酔いで再び出かける気力もなく、始まったお祭では下手糞な生バンドと舞踏会で人々の騒ぐ音が宿の部屋まで生で入り込んでくるし。
 その騒音と扇風機の騒音と猛烈な暑さの中、気も狂わんばかりの想いで、暑くて狭い宿の中で過しました。
 と書いてテレビのニュースを横目で見ていたら、その山火事の地区にぁぁぁ雨です。
 「奇跡」です。ニュースキャスターも笑ってしまっています。
 ほんの少しの雨ですがレポーター記者は嬉しそうに傘をさしています。
 あの時の騒音は「雨乞いの踊り」だったのかも知れません。
 敬具


 以上のメールでその時の猛暑の様子が伝わっただろうか?


 ポルトガルもようやく例年なみの過しやすい夏になり、山火事も鎮火したようだ。

 全国的にほぼ鎮火しようとしていたその日に、我家からほんの300メートルしか離れていない丘の上で山火事が発生して一瞬ひゃっとした。

 消防自動車が5台来て30分程で消し止めてホットしたが、燃え広がるのが早くてベランダから見ていてもかなりの迫力であった。



我家のベランダから2003/08/17撮影

 我家は丘の上にあるからいつも火事の時はいち早く発見できる。
 この場所から山火事を四回、レストランの火事を一回、一週間も燃え続けたパルプ工場の火事も我家からずーっと見えていた。
 この場所に消防署の火の見櫓があれば良いのにといつも思う。
 その他にも焚き火から燃え広がった小火(ぼや)は数え切れない。
 それにしても火事の多い国だ。
 僕の今までの人生の内でこれほど火事を見たことはない。

 先日の上の写真の火事の時も我家からなら何処で燃えているのかは一目瞭然で、どの道を通って行けば一番近道かはすぐに判るのに、消防自動車はあっち行ったりこっち行ったりしてなかなか現場が突き止められないらしくて、道を間違えて慌てふためいている様子が手にとる様にして見えて歯痒い思いをしたほどである。
 
 猛暑による自然発火による山火事。あるいはそれは自然の摂理。
 それによって土壌(地球)は生まれ変わり再生を計ろうとしているのかも知れない。
 あるいは地球は怒っていて人類はそれを教訓にいろいろと反省をする必要があるのかもしれない。

 でも今回のポルトガルの山火事は自然発火も少しはあるのかも知れないが、残念ながら人間の身勝手によっているところが大いに露呈された。

 一つにはタバコの投げ捨てによる山火事があると思われる。
 今日もクルマで少し出かけたのだが、前を行くクルマの運転手がタバコを吸いながら片手運転をしていた。
 タバコをくわえる時以外はずっと腕を外に出している。
 もちろん指にはタバコを挟んでいる。
 自分のクルマの中に匂いが移るのを嫌がっての事なのだろう。
 そして最後には火の付いたままぽいと捨てたのだ。
 タバコはころころと転がる。
 風に煽られて沿道の枯れ草に燃え移らないとも限らない。
 やがて枯れ草からユーカリの木に燃え広がり山火事へと発展するかも知れないのだ。
 僕は自然発火よりもタバコの投げ捨てによる山火事もかなりあるのではと思っている。
 なにしろ国道沿いから燃え広がった山火事がやたらと多いのだ。
 そして捨てた本人は「まさか、自分のタバコが…」とも考えていないのだろう。

 もう一つ。
 ポルトガルでは「山火事にあった山の木材は安くで業者が買うことが出来る」という制度があるそうだ。
 業者は木材を安く買うために、この空気が乾燥する夏に放火をするのだそうである。
 山火事に遭った木材が果たして材木として使えるのか素人考えでは疑問であるが、案外と一皮剥けば製材が可能なのだろうか?
 今年も放火犯が何人か捕まったようだが、こんな制度があるから放火が後を絶たないのだ。
 と言う話になってその制度を見直すということにはなってはいるそうだが。

 材木業者のそんな身勝手なやり口によって山奥の貧しい、火災保険などとは縁遠いところに住んでいるお年よりたちが焼け出されて泣いている姿を見ると堪らなく憤りを感じる。

 山を持っている人は或いは都会などに住んでいたりするお金持ちで、山にも充分な保険などを掛けているのだろうが、そういった山間部の僻地で倹(つま)しく昔から暮らしている貧しい人々や、お年寄りの家屋までをもこの夏の山火事は呑みこんでしまったのだ。

 人間はどこまで残酷で欲深く出来ているのだろうか?
 戦争にしたって、自然災害にしたって、先ず弱い立場の人たちから犠牲になるのだ。VIT

 

 

(この文は2003年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 僕たちはポルトガルに来る前はしばらく宮崎県の山の中に住んでいました。
 それこそ庭をイノシシが横切ったり、山猿の群れが出現したりするところでした。
 清流が庭を取り囲むように流れていてカジカガエルもいい声で鳴いて楽しませてくれました。
 家のガラス戸を強く叩く「ボン」という鈍い異常な音がしたので行ってみると、そこにアカショウビンが気絶して転がっていた。という事も三度ほどあります。

 国道10号線に沿っていましたが一旦クルマが途切れると、そこは全く人里はなれた一軒家になってしまいます。
 用心にと思って、新聞屋さんに「犬が飼いたいから、どこか小犬でも生まれたところでもあれば世話をして下さい」と頼んでいたのです。

 やがて家に連れて来られた犬はとても番犬にはなりそうもないポメラニアンの「メリーさん」でした。
 小さいけれど小犬ではなくて立派な成犬でした。
 もう既に分別をわきまえた賢い犬で、お客さんや郵便配達の人には決して吠えたりはしませんでした。
 散歩の時でも一歩先を先導して歩くのですが、「そこを右」といえば右に行きますし「左」といえばくるっと左に方向転換をするくらい人間の言葉を理解している犬でした。
 本当に可愛い愛くるしい小さな「メリーさん」でしたが、僕の親しい友人からは「似合わない!」とからかわれたりもしていました。

 ご近所の老夫婦が「僕たちにだったら可愛がってもらえるだろう」と手放したのです。
 手放した理由はあえて聞きませんでした。
 「メリーさん」自身も新しい場所の居心地は良さそうに見えましたし、帰りたそうにもしませんでした。
 その老夫婦は「メリーさん」に時々会いに来られました。
 そして安心した様子で帰って行かれました。

 ある晩のこと「ワンワンワンワン」といつまでも吠えやまないものだから懐中電灯を持って見に行ってみると「メリーさん」は用水路に落ちてはい上がれないでいました。
 必死で助けを求めていたのです。
 「ドジな犬やな~」と思いながら抱き上げてやりました。
 普段は白っぽいベージュ色の犬なのに眼だけ残してまっ黒でした。
 夜中でしたがお風呂にも入れてやらなければなりません。
 僕のパジャマも泥だらけになってそれは大変な夜になりました。

 普段でも「メリーさん」はあまりお風呂は好きではありませんでした。
 それでもちゃんとわきまえていて、たらいの縁にきちんと前足を揃えて乗せて、いかにも「早く済ませちゃって下さいねっ!」とでも言わんばかりの表情で我慢をしていました。
 絶対に嫌いなのはお風呂の後のドライヤーでした。
 「ぐうおーん」というドライヤーに向って「ウ~」と牙を剥きだします。
 恐ろしかったのでそれ以来ドライヤーを使うのは止めにしましたが…。

 それからしばらく経ったある晩、再び同じ様に「ワンワンワンワン」といつまでも吠え続けていました。
 あの事件以来「メリーさん」は夜中には鎖に繋ぐことにしていたのですが「また鎖でもはずれて用水路にはまったんかいな~」と懐中電灯を片手に行って見ると「メリーさん」は庭の先にある川のほうに向って吠え続けていました。
 その川のほうに眼をやると、なんと蛍です。それもおびただしい数の蛍なのです。

 「メリーさん」にしてみれば訳の判らない光の乱舞に恐れおののいていたのかも知れませんが、僕たちには忘れられない夏の夜のプレゼントになりました。

 ポルトガルにも蛍は居るそうですが未だ見たことはありません。
 フランスの古い小説にも蛍が出てきたのを読んだことがあります。
 それはブルターニュ地方の避暑地の物語でした。

 今年は10月末頃にブルターニュに行くつもりをしています。
 展覧会の関係でフランスに行くのはいつも寒い冬です。
 たまには夏のフランスに出かけてブルターニュの蛍を一度見てみたいものですがフランスにしてもポルトガルにしても夏の夜はいつまでも明るいので蛍を見るにはいったい何時まで起きていなければならないのでしょうか? VIT

 

 

(この文は2003年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 毎年日本で個展をするために日本へ帰る。そして2~3ヶ月を過してポルトガルへ戻る。
 往きも荷物はいっぱいだが帰りはそれ以上にどっさりである。
 食料としては日本茶と乾燥ワカメとヒジキ。日本人にはやはり海藻が必要だ。
 昆布はリスボンの中華食品店でもこの頃は手に入るので別に持ってこなくてもよくなった。
 それと少しの高野豆腐。少々かさばるがどれも軽いものばかり。
 往きに持っていった衣類はそのまま持って帰る。
 重いのは文庫本。毎年平均50冊ばかりを仕入れてくる。
 でも今年は案外と少なくて数えてみると16冊しか持ってこなかった。
 今年はパソコン関連は皆無。「大丈夫か?」
 携帯電話を買ってきたが未だ使い方が良く解らない。
 日本で買ったのに解説書は英語だし、メールもJ-フォン同士だけ。しかもローマ字のみ。
 果たして必要だったのかな?と思ってしまう。
 荷物はそれほど持ってきたつもりは無いのに空港で計ってみると何と二人分で43キロ。
 一人20キロまでだから3キロオーバー。
 なぜこれほどまでに重くなったのか?
 と荷物をひっくり返して見ると「百均」で買ってきた料理のレシピ本が11冊も出てきたではないか。
 一冊100円といえどもこれが重い。薄い本なのに紙が重いのだ。
 何時のまに買って何時のまに荷物の中に忍ばせておいたのか?
 それと「カスピ海ヨーグルト」の種。

 今年持ち帰った特別のものがある。それは「けん玉」。
 日本に帰っている時に見たテレビで「南極の越冬隊員がブリザードの吹く冬、運動不足を補うために室内で出来る運動として何十年も前から「けん玉」を取り入れている」という話。
 日本けん玉協会南極支部までもがあるという。
 これは面白そう。と思って。ちょうど岡山高島屋での個展中、画廊の人とその話をしていて「「けん玉」などと言う物はどんな所に売っているのかな?」と聞いてみると「そこの玩具売り場にあるんじゃない」。
 画廊から同じ階の徒歩ほんの30メートルの玩具売り場に、なんとその「日本けん玉協会オフィシャルけん玉」を見つけたのだ。
 さっそく二個を買い求めた。
 こんなに身近なところにあったとは驚きであるが、考えてみるとそこは百貨店。何でもあるから百貨店。
 米子でもちょうど民芸玩具展示即売をやっていて、これは「日本けん玉協会のオフィシャルけん玉」はないけれど色が綺麗なのでこれも買い求めた。
 大阪の近所のスーパーで「百均市」をやっていてうろうろ見ていたらそこにも「けん玉」があった。
 安いだけのことはある貧相な「けん玉」ではあったが一つ買い求めた。
 結局4個の「けん玉」をポルトガルまで持ち帰ってきた。
 「けん玉」などはいままで触ったこともなかったがやってみると難しいけれど案外と面白い。
 「日本けん玉協会」の説明書を読んでみると正しい持ち方から始まっていろんな技があるし、上級の技などは自分にはとうてい出来そうにないけれど、級位認定制度や段まであってかなり面白そうである。
 始めて3日。級位認定の自己評価は「大皿連続20回、小皿10回」早くも九級である。
 「けん玉」にはまりそうで自分がこわい。
 今年は何をしに帰ったのだろうと思ってしまう。 VIT

 

(この文は2003年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 今年もサロン・ドートンヌとル・サロンに出品した。
 最初に出し始めた 1991 年の会場はエッフェル塔が建てられたのと同じ時に万博会場として造られた 100 年前と同じグラン・パレであった。
 1994年からグラン・パレの老朽化によって改修工事に入るとの事でエッフェル塔近くのテントの会場に移ったのだが、テントの会場と言うのもパリでは伝統があるものなのだ。
 展覧会の他にファッションショーなども行われている。
 1887 年の博覧会の時にマネとクールベらがやったサロン・ド・リュフューゼ(落選展覧会)もテント会場であった。

 サロン・ドートンヌは 1904 年ルオーやヴラマンクらがフォービズムの発表の場として始まったといわれている。
 そのサロン・ドートンヌに佐伯祐三は 1925 年「コルドヌリ」と「煉瓦屋」を出品して初入選している。
 一時帰国のあと 1927 年「新聞屋」と「広告のある家」が再び入選。

 翌、1928 年 2 月の寒い一ヶ月間、サン・ジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランに写生旅行をしている。
 その 6 月パリの東、ヌーイイ・シュル・マルヌのセーヌ県立エブラール精神病院に入院。8 月死去。

 僕が佐伯祐三の足跡を訪ねてみようと思ったのはちょうどサロン・ドートンヌがテントに移った年だった。
 かつて天王寺美術館の半地下にあるデッサン研究所に通っていた頃、研究生は美術館の入場はフリーパスで、僕はデッサンに飽きると美術館をうろうろとうろつき回っていたものだ。
 その時々架け替えられる常設展で佐伯祐三を観ることができるのは楽しみであったし、そんな中で観た「モランの寺」は僕に強烈な印象を与えたのを昨日のことの様に憶えている。

 モランがパリの郊外にあるということは知っていた。
 それがどのあたりにあるのかフランスの地図を丹念にたどってみるけれど一向に判らなかったのだが、ミッシュランのイル・ド・フランス地方の地図を買い求めてすぐに見つけることが出来た。
 小さい村だからフランスの全国地図には載っていなかったのだ。
 パリの東方 30 キロ程のところにサンジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランがある。
 それは最近できたユーロ・ディズニーのすぐ東側にあたる。
 地図上の鉄道の線路をたどっていくとユーロ・ディズニーはリオン駅から RER(郊外電車)で行く事ができるが、モランに行くには東駅からの昔からの鉄道になっていてユーロ・ディズニーとは線がちがう。

 東駅の案内所に行き地図を示しながら「モランに行きたいのだけれど」と尋ねると「それならリオン駅からです」と即座に答えたので「おかしいな」とは思ったのだが半信半疑でリオン駅に行った。
 リオン駅ではインフォメーションと切符売り場が一緒になっている。
 そこでも同じ様に地図を示しながら聞くとインド人風の係員は、古文書館にでもあるような褐色に変色したぶ厚い文献を持ち出して調べ始めた。
 即答した東駅の案内所のフランス人の女性とは大違いである。
 その間にインフォメーションは切符売り場でもある訳だからたちまち長い行列になる。
 文献も二冊目。それと僕が示したミッシュランの地図。
 いろいろ見比べ検討した結果「Couilly-St-Germain Quincy」という駅「Villiers-Montbarbin」という駅が浮かび上がったのだ。
 モランという文字は一つも無い。そしてそれはこのリオン駅からではなく東駅からだ。
 やはり僕に間違いはなかったのだが、駅名と町名が違っているのでなかなか判らなかったのだ。

 東駅の案内所の女性は何故即答できたのだろうか?
 日本人は皆が皆ディズニーランドに行くとでも思っているのだろうか?

 「でもわざわざ東駅まで行くよりもこのリオン駅から RER に乗ってユーロ・ディズニーで降りて、近くだからバスも出ているだろうし…その方がいいかもね」とインド人風の係員が言ったのでそうすることにした。
 長い行列は既に一人も居なくなっていた。皆別の窓口に移動したのだろう。

 ユーロ・ディズニー駅に着き、停まっているバスの運転手にモラン行きを尋ねると
「たった今出たところで次は二時間あとです」ということだったので奮発してタクシーを使うことにした。
 タクシーはユーロ・ディズニーの周りを半周ぐるっと大回りして国道に出た。
 運転手は「モランのどこに行けばいい?」と聞いた。
 まあどうせ小さい町だからどこでもいいけれど中心にと思って「セントラルへ」と答えたはずが、運転手は「レストラン?」と聞き返した。「ノン、セントラル」。
 ほんのしばらく走っただけでタクシーは停まった。
 「ここがモランだけど、此処で良いかね」
 それはレストランの前だった。

 「ちょうど昼だしここで昼食とするか」とタクシーを降りてレストランの反対側に目をやると、なんとなんとそこにあの天王寺美術館で観た佐伯祐三の「モランの寺」が 1928 年当時のそっくりそのままの姿で僕の目の前にあったのだ。

 教会の周りを歩きながら、また佐伯がイーゼルを立てたと思われるあたりに立ってみると、僕はたちまち 70 年前の佐伯祐三の時代にタイムスリップしていた。

 レストランもまるで古くからの店の様で、佐伯祐三たちもこのレストランできっとお昼を取ったに違いないとさえ思えてくる。
 パリではあまり旨いフランス料理には当らないけれど田舎ではたいてい満足できる。
 ワインも一本空けてデザートにもピリッと辛口の珍しいチーズを食べて、大満足のモランでのひと時であった。

 ほろ酔い気分でローカル列車に乗りあっという間に次の駅「Villiers-Montbarbin」に到着。
 もう一つのモランである。

 画集では何枚も「モランの寺」があり、どれも「モランの寺」となっているため、同じ教会を何枚も角度を違えて描いたのかな?と当初は思っていたのだが、実は隣町の別の二つの教会を描いたのだったのだ。

 画家が描いたその現場に立って周りの環境や空気や温度やにおいを感じて、さらには歴史的背景を考慮して、そのモティーフをどういう風な捉え方をしているのかを考えるのは楽しい事だしとても勉強になるとおもっている。

 モランの他には佐伯祐三が最初の滞仏で住んだパリ郊外のクラマールにも行った。
 教会と町役場のある町の中心へは駅からまっすぐ伸びる道をかなり歩いた。
 さらに教会の後ろ側へ回って坂道を登ったはずれに佐伯祐三が住んだリュ・ド・スュッド2番地を見つけることが出来た。
 かつてはお屋敷でもあったのだろうか?古い塀がめぐらされた中に今は新しくマンションが建っている。
 入居者はまだ決まっていないのか、売出し中の看板がある。
 佐伯祐三は随分不便な奥まったところに住まいを見つけたものだ。

 帰りは駅まで戻るのも遠いし教会のところからバスが出ている様なのでパリ市内までバスにした。
 途中は町つづきで町工場やガレージ(自動車修理屋)コルドヌリ(靴屋)といったかつて佐伯祐三が描いたモティーフそっくりのパリ市内ではもう見られなくなってしまった街並みがあった。

 22 年ぶりにシャルトルにも行った。
 ここには世界一のステンドグラスのカテドラルがあるので観光客も多い。
 最初このステンドグラスを見た時はすぐにルオーの作品をオーバーラップさせて「なるほど」と感心した。
 ジャポニズムの影響でベルナールやゴーガンが始めたクロワゾニズムを更に進めたルオーだが、推し進めることによって古いステンドグラスに到達したことになったのではないのだろうか?

 そのカテドラルの裏手に美術館がある。
 美術館のはなれの館といったところにヴラマンクがまとめて 30 点ばかりがあった。
 普段なら見逃してしまうところだ。
 「トイレ」の矢印があって「ちょっとトイレ」と思って階段を下りたところ、そのトイレの隣にヴラマンクの館があったのだ。

 このシャルトルとヴラマンクがどういうつながりがあるのかは知らないけれど、佐伯祐三の足跡を訪ねる旅をした後だけに何だかヴラマンクのあの一喝が聞こえてきそうだった。
 「このアカデミック!」

 佐伯祐三はパリに着いて 3 日目に里見勝蔵に連れられて、オーヴェール・シュル・オワーズのヴラマンクのアトリエを訪ねている。
 その時に観てもらった 50 号の「裸婦」に対してのヴラマンクの一喝だ。

 その後、佐伯祐三の絵は急速に変わっていった。
 ヴラマンクの影響をまともに受けている作品も少なくはない。
 このシャルトルの美術館でもそんな佐伯祐三に影響を与えた様な作品がたくさんあった。
 いっぽう、その時代のフランスの画家の多くがそうであったように、ヴラマンクもまたジャポ二ズムの影響を受けていて、この美術館にヴラマンクの「屏風絵」があったのも面白い。
 ヴラマンクは時代によってかなり大きく作風を変えている。

 パリの北西ポントワースの近くオーヴェール・シュル・オワーズはゴッホの終焉の地。
 あのカラスの舞う麦畑でピストル自殺をした村である。
 ゴッホと弟テオの墓のあることでも知られているが、その他にもドービニィが先ずアトリエを構えたところでもある。
 ピサロもたくさんの作品を残しているし、セザンヌが「首吊りの家」やヴラマンクの「オーヴェール駅」など、多くの画家のゆかりの場所が数多くある。
 それらの画家たちと交流の深かったガシェ医師の家も残っている。

 ゴッホはこの村のいたるところを描いているが、ゴッホと同じ「村役場」と「オーヴェールの教会」を佐伯祐三も描いている。
 その頃から佐伯祐三はヴラマンク一点張りからユトリロの影響も見られ、そして独自の世界「広告の壁」へと進んで行った。

 佐伯祐三がクラマールの後移り住んだモンパルナス付近などは高層の駅ビルが建ち、僕達が初めて訪れた 1968 年~72 年頃と比べても少しは違っては見えるけれども、パリは本質的にはちっとも変わっていない気がする。
 ちょっと郊外へ足をのばすと 70 年前の佐伯祐三のモティーフや 100 年前のゴッホのモティーフさえもそっくりそのままの姿で残っている。

 モラン河はユーロ・ディズニーの北でマルヌ河と合流し、さらにマルヌ河はヌーイイの下流ヴァンサンヌの森でセーヌと出会い、セーヌはパリを横断しつつクラマール付近へ向って蛇行、さらに大きく蛇行を繰り返しながらポントワースの南でオワーズ河を抱き込み、ノルマンディー地方を悠々と流れやがて英仏海峡へと注ぎ込んでいる。

 英仏海峡に海底トンネルが開通して TGV や高速道が発達しても、河の流れは佐伯祐三やヴラマンクさらにゴッホがいた 70 年前も 100 年前も、そしてこれからの 100 年先、いやそれ以上何世紀をも変わることなく流れ続けるのだろう。VIT


この文は 1994 年に書いたものにこの度少し書き加えました。

 

(この文は2003年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 日本人が「R」と「L」の発音が苦手な様に、ポルトガル人には「H」の発音があまり出来ない。
 ポルトガル人に限らずラテン系の人たちは皆その様だが…。

 「HONDA」は「オンダ」「YAMAHA」は「ヤマア」「HITACHI」なら「イタチ」になってしまう。
 テレビのニュースキャスターでさえそう発音する。
 『「オンダ」と「ヤマア」がトップ争いをしています。あっ、「ヤマア」がカーブで抜け出した。』
 『あっ、「ヤマア」転倒。「オンダ」引っ掛けた。両者共転倒。「ススキ」抜け出した~っ。』と言った具合。観ている方もずっこけてしまう。

 僕の名前「HITOSHI」は「イトシ」。なんだか漫才師のイメージが強い。

 もちろん「H」の発音が出来る人もいて、それが自慢なのか、「ヒトーッチッ」などと呼ばれたりもする。
 画廊のペドロはいつもそうだ。

 まあどう呼ばれようと良い様なものだがこの際だから、「ヒ」に濁点を付けて「ビ」つまり「ビトシ」としてみたらどうか?と考えたのである。
 さらに「シ」も「チッ」などとなる恐れもあるので、外してしまって、簡潔に「ビット」「VIT」とした。

 ポルトガルには「VITOR](ビットール)という名前の人がいる。
 セトゥーバルのクラブサッカーチームの名前が「VITORIA」(ビットリア)という。
 「勝利」と言う意味あいがある。
 ポルトガルの一部リーグで今、12~3位のところをうろうろしている。

 イタリアには「ビットリオ・デ・シーカ」が居た。
 あの「靴みがき」(1946)や「自転車泥棒」(1948)の監督である。
 「自転車泥棒」は名画中の名画であるし、テレビでも何度もやっているので
殆どの人は観ていると思う。
 僕も何度観ただろうか?
 『主人公は自転車を盗られてしまう。
 看板貼りにとって自転車がなければ仕事にはありつけない。
 思い余って他人の自転車を盗ろうとする。
 あの、子供を先に帰して自転車を泥棒するシーン。
 子供は帰らないで建物の陰から隠れて見ているその前で、皆から寄ってたかって捕まってしまう。あのシーン。』
 あまりにも悲しくて、あまりにも残酷で…涙無くしてはとても観ていられない。
 「あんな時代に生まれてこなくて良かった。」と以前は思ったものだが、今世界中どんどん失業者が増え。
 あんな時代に戻りつつある…。様に思う。

 藤田嗣治は洗礼名をレオナルドとした。
 レオナルド・フジタである。

 クルマでもポルトガルに来れば名前が替わる、
 「日産マーチ」は「ミクラ」という。「トヨタビッツ」は「ヤリス」である。
 「スズキジムニー」は「サムライ」となる。

 そんな訳で
 「VIT」ならすぐに憶えてもらえるだろうし、呼びやすいだろう。
 と思ったのだが、実際には誰もそうは呼んでくれない。
 
 「MUTSUKO」にも同じような問題がある。
 「HITOSHI」よりも更に憶えにくい名前らしく、ようやく憶えても「ムチュコ」などと発音している。
 「MITSUBISHI」は「ミチュビチ」になる。
 ポルトガルで「ミチュビチ」の RV 車は人気が高い。
 ぬかるみではまってしまいそうな名前である。
 いっぽう「MATSUDA」は始めから「MAZDA」としてほぼ正しく呼ばれている。
 「ムツコ」も濁点を付ければ「ムヅコ」「MUZKO」略して「MUZ」とした。
 が実際にはまだまだ浸透はしていなくて、相変わらず「ムチュコ」であるが…。

 「MUTSUKO」や「HITOSHI」よりも、むしろ「TAKEMOTO」の方がポルトガル人にとっては憶え易い様だ。
 もっともポルトガルには「K」の文字はないから、「TAQUEMOTO」などと書いたりはするが…。
 ちなみに「TOKYO」は「TOQUIO」と書く。

 ポルトガル人に「TAKEMOTO」と書いた名刺を差し出したとしたら「HONDA」「YAMAHA」「SUZUKI」「KAWASAKI」の代理店の人と思うかも知れない。

 セトゥーバルのバイク屋さんに「TODIMOTO」と言う店がある。
 ルイサ・トディ大通りに面しているからTODI、
 「MOTO」には「モーター」とか「動く」といった意味がある。
 「地震」のことを「TERRAMOTO」と言う。
 大地が動く。のである。
 もし「寺本」さんがポルトガルに来たならば、すぐに憶えてもらえる?名前である。 VIT

 

 

(この文は2003年4月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 この程ゴッホの作品「白いボンネットの婦人」が競売に懸けられ 6,600 万円で広島のウッドワン美術館が競り落とした。というニュースの断片をポルトガルで興味深く聞いていた。オランダの田舎ブラバント地方の風景に思いを馳せながら…

  作品は中川一政が所有していた遺品の中に混ざっていたとのこと、ご遺族も中川一政もゴッホの本物とは知らなかったのだろうか?
  始めは参考価格をたったの1万円位と考えていた。という話であった。
  ゴッホ財団に問い合わせて本物だということが解った。とのこと。

  この絵は 1885 年にオランダ、ブラバント地方の田舎の村ヌエネンで描かれた「馬鈴薯を食べる人々」の為の一連の習作であろう。
  「パイプをくゆらせる農夫」「白いボンネットの婦人」「白いボンネットの娘」とそれぞれ沢山の習作を残している。
  「馬鈴薯を食べる人々」も一点だけではない。

  実はわたくしごとの話で恐縮だが僕が中学生の時にこの「白いボンネットの娘」を模写している。
  だから僕は最初その話題の「白いボンネットの婦人」も中川一政が若い頃に模写したものだろう。と直感的に思ったがその直感は見事に外れたという訳だ。
  中川一政の模写だとしても1万や2万では安すぎるが…

  ゴッホはヌエネンで 1884 年から 2 年間を過した。
  それまでハーグで子持ちで妊娠していた可哀想な娼婦シーンを助けようと献身的な気持から同棲するに及んだのだが、淋病に感染して入院、周りからはしだいに見放される様になり、シーンとの生活も破綻するに到りハーグを後にする。
  その後しばらくはドレンテ地方の田舎で泥炭地帯の風景やそこで働く人々を描いていたが、孤独に耐え切れずに、父の牧師館の転任先のヌエネンにやってきたのだ。

  ヌエネンは機織(はたおり)と農業で生計をたてる、何百年もの間生活習慣も方言もいっこうに変えようとしないような小さな村であった。
  村人の殆どはカトリック教徒であったから、父のプロテスタントは少数派である。
  そこに得体の知れない見るからに異様なしかも訳の判らないイーゼルやキャンバスを抱えて村の中を歩き回るゴッホが現われたものだから、村人の怪訝な気持は相当なものだったのだろう。
  血走った眼をしてキャンバスにきたない色をただ塗りたくって売れもしない絵を描いて働きもしないでぶらぶらしている、訳の解らないプロテスタント牧師の胡散臭い30歳にもなる息子である。
  それに加えてハーグでの娼婦シーンとの噂がヌエネンにも伝わってきていた。

  それでもゴッホはヌエネンの風景や農夫、機織をする人などを沢山描いた。

  牧師館の隣にはこの村では少数派のプロテスタントの母親と 5 人の未婚の姉妹が住んでいた。
  この村から一歩も出た事が無い姉妹の内の一人マルゴは恋に憧れていた。
  そしてゴッホに恋をした。当時 30 歳のゴッホより 9 歳年上の 39 歳であった。
 ゴッホは今まで幾つも恋をして全て破れてきたけれど、相手から恋焦がれるのは初めての経験であった。
 やがてゴッホからもマルゴを愛するようになっていった。
 二人は結婚を考えるようになったが、周りは全てが反対であった。
 とりわけマルゴの母親と姉妹たちの反対は激烈であった。
 マルゴには祖父が残してくれた少しの遺産があったのでそれでなんとか暮らせると思っていたが、その金目当てのゴッホと結婚をするのなら、母親は遺産は渡さない。と拒絶した。
 ゴッホは弟テオからの仕送りがあるのでそんなものはいらない。
 一緒にどこか別の土地で暮らそうと言ったが、マルゴにしてみればそれは出来ない。
 想い余ってマルゴはゴッホが野外で絵を描いている傍で服毒自殺を図る。

 そんな事件があってから父の教会に礼拝に訪れる村人はますます少なくなっていた。
 ゴッホは父の牧師館を出て行かざるをえない。
 運良く村の中に二部屋を貸してくれるところが見つかった。

 事件の後、ゴッホの父親も突然亡くなってしまう。

 そんななかで知り合ったのがデ・フロート一家であった。
 貧しい土間の一部屋しかない小屋に一家五人は住んでいた。
 畑で自分たちで収穫した馬鈴薯だけを常食とし、週に一度だけ一切れのベーコンが付いた。
 ゴッホは一枚につき僅かな金額 1 スーのモデル料を支払ってこの家族を描いた。
 「白いボンネットの婦人」はその時に描かれたうちの一枚であろう。

 事件の後完全に村八分にされていたゴッホをカトリックとかプロテスタントとかといった垣根を越えて友人として暖かく迎え入れてくれたこの極貧の家族、デ・フロート一家をゴッホは真の「聖家族」と感じていたにちがいない。

 部屋も永くは借りる事が出来なかった。
 そしてこのヌエネンの部屋を出て行かざるを得ない日の 12 日前から制作に取り掛かったのが、このデ・フロート一家を描いた「馬鈴薯を食べる人々」である。
 習作を重ね、試行錯誤の挙句最後の日にようやく「馬鈴薯を食べる人々」は完成した。
 その湯がいたじゃがいもの湯気が立ち昇る画面には、ほっこりとしたじゃがいもの「温かさ」「香り」までをも描くことに成功した。
 ゴッホはデューラーにもひけを取らない的確なデッサン力を身に付けたのだ。
 そしてこの極貧の「聖家族」によってミレーの「晩鐘」に匹敵する崇高な精神性をものにすることが出来たのだ。

 その「馬鈴薯を食べる人々」は弟テオの家の居間の暖炉の上に生涯飾られていた。
 今もアムステルダムのゴッホ美術館の特別いい場所に展示されている。

 印象派やジャポニズムの影響によって思いっきり明るく、太陽の光に満ち溢れたアルル時代やサン・レミ時代そしてオーヴェール時代のゴッホの作品は素晴らしいが、デューラーの的確なデッサン力やミレーの崇高な精神性を自分のものにしようとしていた、このヌエネン時代の集大成的作品「馬鈴薯を食べる人々」とその一連のゴッホ作品も僕は大好きである。

 もう一つ私事で恐縮だが、絵を気に入ってくれて、ポルトガルで貧しい生活を送っている僕を「応援してやろう」というお気持から沢山コレクションしてくれていたT氏は名画のコレクターでもあった。
 ルノアール、ピカソ、ブラック、ルオー、シャガール、ローランサン、ヴラマンク、ビュッフェ等のたくさんの名画とゴッホのヌエネン時代の「白いボンネットの婦人」もコレクションされていた。
 だから最初中川一政のコレクションという話を知る前は、その競売に懸けられようとしていたゴッホは、てっきりT氏のコレクションをご遺族が手放されたものだろうと思った。が絵の写真が出てきて、見てすぐに別の絵だと判った。
 T氏のそれは確かもっと正面を向いた「白いボンネットの婦人」であった。

 生前中川一政は本当にこの「白いボンネットの婦人」がゴッホの本物だとは知らなかったのであろうか?
 また中川一政はいつ頃、どのようにしてこの絵を入手したのであろうか?
 興味は尽きない。VIT

 

(この文は2003年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 昭和40年4月8日。18歳で運転免許を取ってから殆どを車と共に過ごした。
 スウェーデンに住んだ時もすぐにポンコツマイクロバスを買って、それでヨーロッパをくまなく見て歩いた。
 ニューヨークに住んだ1年だけは車を持たずに自転車の生活だった。
 自転車でマンハッタンをどこまでも移動した。

 ポルトガルに住んでみようと思った時はちょっとそれまでとは違った、今までの生活とは180度違う生活を考えていた。

 ポルトガルに移住する直前に住んでいた宮崎県では車なしでは絶対に生活できない山の中に住んでいたものだから、次は街なか、それも漁港のある港町に住むことを夢見ていた。
 そしてその通りにした。
 街なかだから車は必要なし、どこにでも歩いて行ける。

 そしていわゆる文化的?な生活ではなく、もう少し不便でもゾラやゴッホの時代的な、ヨーロッパの昔ながらの暮らしを体験してみたかった。
 ポルトガルにはそんなノスタルジックなものを感じていた。
 その通り、最初に借りた部屋にはおんぼろの小さい冷蔵庫だけは付いてはいたものの、台所には200年も使っている様な大きな煙突がかぶさっていたし、洗濯はバスタブでばしゃばしゃと手や足でしなければならなかった。
 テレビは片すみに置かれていたが、白黒でそれも殆ど映らなかった。
 掃除も箒と雑巾のみで全く基本的なやり方だ。
 そんな具合で100年前とまでは行かないが、少なくとも車や電化製品からは全く開放された生活だった。

 ポルトガルに住み始めて殆ど毎月の様にスケッチの旅に出た。
 列車であったり、路線バスであったり。
 幸いポルトガルの交通費は安い。そしてバスや列車の旅を楽しんでいた。
 何年かはその様にした。

 ところがバスなどで目的の町に行くその途中に良さそうな、スケッチをしてみたいような小さな村などを通過する。
 そういう時は残念ながら指をくわえてバスの窓からただ眺めているだけ。
 途中でバスを降りてしまうと、次のバスは明日までなし。宿もなし。ということになってしまう恐れもある。そういうことがたびたびあった。あわててタクシーを捜しだし、それで隣町まで行くはめになる。

 いつの間にか主要都市には殆ど行ってしまった。
 あとは交通の便の悪い小さな町や村だけが残っている。
 そんな訳で、いつの頃からかスケッチ旅行に時々レンタカーを使うようになった。
 その様な自分の車なしの生活が10年続いた。

 そして3年前いよいよ車を買うということになる。
 当初考えていた、ポルトガルでは昔ながらの生活。と言うのもすっかり忘れ去って今は大型の冷蔵庫もあるし、全自動のドラム型洗濯機。掃除機。カラーテレビが2台とサテライト。
 そしてパソコン。車。
 と以前にも増して文化的?な生活をしている。
 ゾラはどこへ行ったのか?ゴッホはどこへ行ったのか?
 当初の意気込みはどこへ行ったのかと我ながらお恥ずかしい次第であるが…

 それまで国際免許で乗っていたのを、その時ポルトガルの免許も取った。
 ポルトガルの免許に期限はない。

 車はフランスのシトロエンSAXOと言う1100㏄の小さな車にした。
 色は白で5ドアの5速マニュアルでガソリン車。
 ポルトガルでは最もポピュラーな、どこにでもある大衆車である。

 ポルトガルにはいわゆる国産はない。
 正確には国産はあるが国産企業はない。ということだ。
 だからあらゆる国の車が比較的等しく走っている。
 アメリカ車もあればドイツ、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スペインそれにポーランドや韓国車。勿論日本車も多い。
 正確には国産はある。と書いたが、それは例えばトヨタはもう40年近くも以前からポルトガルのポルトに工場を持っている。
 わが町セトゥーバルの町外れにはフォードとフォルクスワーゲンの大きな工場がある。
 ポルトガル産のトヨタ、フォード、ワーゲンという訳である。
 その他にもたくさんの企業がポルトガルに工場を進出している。

 僕がシトロエンにした訳。というほど大げさなものではないが、この国で一番よく走っているあまり目立たない車。をと考えたからに他ならない。
 それにもしかしたら展覧会の搬入のためフランスまで車で走っていくこともあるかもしれないし、その場合でもフランス車なら目立たないだろう。
 それと買おうと思った時に丁度モデルチェンジをしたばかりだった。と言うこともある。

 買ってから間もなく3年になるが未だ1万5000キロに満たない。
 リスボンに買物に出かけたりする時は路線バスを使ったりする。
 リスボンは車も多くて駐車をするにも大変だし、道も複雑で危険この上ない。
 車はほとんどセトゥーバル内での買物と田舎へのスケッチ旅行だけに使う。

 ポルトガルは世界でトップを争う重大交通事故多発国である。
 運転をしていてもひゃっとすることはたびたびどころではない。
 ポルトガル人の運転のマナーは最悪である。
 何重にも追い越しはする。ちょっとの隙間にも割り込みはする。
 そしてウィンカーは出さずに平気で直前に割り込んでくる。
 急発進、急ブレーキはあたり前。
 信号が青に変われば間髪を入れずに後ろからクラクション。
 スピードは驚くばかり。アクセルを目いっぱいに踏み込む。
 ポルトガル人は自分の前に車があるのに我慢が出来ないのか、まるでF1レースの様相である。
 とにかく危ない。
 それに道路標識も不完全だし、道路の設計もあまり感心しない。

 急に高速道が整備された。と言うこともあるだろう。
 ローンをし易くなって急にたくさんの人が車を持つことが出来た。と言うこともあるだろう。
 ポルトガルは車の性能の上昇と共に車の増加、そして高速道の発達。という歴史を持たない。
 車を与えられた時既に車は高性能で150キロ、200キロのスピードにも耐える。
 そしてその為の道もある。
 だが運転技術とマナーはそれに追いつかないというのが今の現状ではないだろうか?
 がそれに加えて民族性が大いに関係しているものと思わざるを得ない。

 懐かしい古い本で、もしかしたら違っているかも知れないが北杜夫が「どくとるマンボウ航海記」の中で実にうまいことを言っている。
 「馬の文化を持つ国の人の運転は穏やかだが、ロバ文化の国の人の運転は荒っぽい」と
 「馬は優しく接するとよく言う事を聞くが、ロバは荒っぽくひっぱたかないと言う事を聞かない。」
 「そしてそのまま馬から車へ、ロバから車へ乗り換えただけにすぎない。」と

 それに加えてポルトガルは血の気の多い「闘牛」の国である。
 シトロエンの運転席に座る時、まさにロバにまたがった血走ったポルトガル人と一緒くたに猛り狂った牡牛が放たれている「闘牛場」に一人丸腰で放り出される時程の覚悟が必要である。VIT


  以下ここに在ポルトガル日本国大使館より在ポルトガル日本人向けに定期的に送られてくる「大使館便り」平成 15 年 1 月号のなかから「ポルトガルの交通事情と交通安全対策」の項目の一部を抜粋したい。

<ポルトガルは世界で 1,2 を争う交通事故多発国と言われています。死亡事故件数も極めて高く、悲惨な事故現場に出くわすこともしばしばあります。ポルトガルの 2001 年の交通事故死亡者数は 1466 人で、人口がほぼ等しい東京都では 359 人ですから、約 4 倍の死亡者数となります(ポルトガルの人口:約 990 万人、東京都の人口:約 1200 万人)。日本とポルトガルは交通事故死亡者の認定方法が異なり、日本は事故発生時から 24 時間以内に死亡した場合を交通事故死亡者と認定しているのに対し、ポルトガルでは、即死又はそれに準ずるほど事故に近接した時間に死亡した場合のみを交通事故死亡者と認定していますので、人口と認定方法を同様にして両者を比較したならば、さらにその差は大きくなるものと考えられます。(以下略)>

 

(この文は2003年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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