この夏はユーロ2004とオリンピックの話題で「NACK掲示板」は盛り上がりを見せました。9月に入ってからはアールヌーボーで盛り上っています。掲示板は100通を越えると消えてなくなります。なくしてしまうには惜しい興味深く格調高い記述が続きましたので、ここに無断転載して残してみたいと思います。無関係の記述は削除しています。投稿者の皆さん有難う御座います。尚、掲示板とは逆の配列になっています。読みやすい様に古い順から入れています。

今度は台風お見舞い 投稿者:武  投稿日: 9月 9日(木)00時41分1秒

 台風18号は猛威を奮いましたね。お見舞い申し上げます。
 貨物船が座礁したり、トラックが横倒しになっている映像を見ましたが、木南さんは大丈夫でしたか?
 19号も続いて控えていますのでご用心下さい。
 8月もいつの間にか終り、9月が早くも1週間が過ぎました。
 ポルトガルでは9月中旬の新学期に備え大型スーパーでは学用品のバーゲンセールをやっていて、親子連れや学生などがどっさりのノートなどを買い揃えています。
 それに混じって僕もスケッチブックを15冊買い込みました。
 今月末日よりフランスに行きます。
 今年は藤井先生のリクエストにお応えしてロレーヌ地方のナンシーという町に行く予定を立てているところです。そこで「日本美術(高島北海)がフランスに与えたアールヌーボーへの影響について」を観てくる様に…との藤井先生からの課題です。楽しみです。
 今年は例年より1ヶ月早い展覧会ですので気温もまあまあではと期待しています。
 でもその前に今手懸けている30号、20号の目途を立てたいと少し焦っているところです。

秋 投稿者:Kinami  投稿日: 9月 9日(木)19時51分6秒

 台風18号は広範囲に爪あとを残したようですね。ニュースによると、中国電力の3割が停電状態になったそうだし、神戸の国道2号線が冠水してました。
 私は夜中に台風の風雨が過ぎてから仕事に出発して大丈夫でした。でも台風の強風の中で建築中の現場の備えをしてたり、我を忘れて家屋や仕事の事が心配でやむなく事故に会われた人は大変でしたでしょう。
 また今度の地震で愛知県では4センチ地盤がズレた所があったそうで参ってしまいます。

 さて武本さんの今度のロレーヌ地方の訪問は面白そうですね。フランス・ロレーヌ地方は学校で習った「最後の授業」のドイツ国境に近い地方なんですね。「高島北海」?なんか聞いたことが有るようなないような。日本画の技法などをフランスで伝えた人ですか?。また色々伝えて教えてください。楽しみにしてます。


 思うに極端に言って、かたや人物・写実の西洋美術と、風景・抽象的認識の日本美術の価値観の出合いみたいな事があったやろなあ。
 なんか急に美術館に行きたくなりました。とりあえず堺のアールヌーボーのミュシャ美術館と、中之島の東洋陶器美術館には行っておこうかなぁ。秋ですし…。

高島北海 投稿者:武  投稿日: 9月10日(金)05時16分12秒

 「高島北海」については藤井先生の手紙の一部を無断転載します。

 (中略)ポンタヴァンリポートの続きを考えていますか?

 ナンシー派、エミール・ガレ、アールヌーボー。
 地図を見るとパリより川上にその地はある。ロレーヌ地方、鉄鋼の町ナンシー。

 兵庫県生野銀山に明治の頃、お雇い外国人で鉱山、森林の指導にやって来た外国人の一人(コワニエ)に付いてフランスのナンシー森林学校に留学3年、この間にエミール・ガレと交流があってアールヌーボーに影響を与えた高島北海という画家(水墨をたしなむ役人と云うべきか)が居た。
 きっと北海の花鳥風月の墨絵が沢山ナンシーにあるのでは?
 片言のフランス語でどこまで日本画を談じれたか?どれほどのグループだったのか?

 ポンタヴァンの意味の理解は武やんのリポートを機に「物の表面に当る光を描写していた印象派に絵画は表面の写しではないよ。絵画ですよ。表現ですよ。」たったそれだけのことですが、大切な運動だったことが理解出来て大変有難かった。(中略)(恐縮です-武)

 黒田清輝や久米桂一郎のように仏国から持って帰って来た美術に対して置いて来た美術がどう西洋美術を変えたか?
 浮世絵が変えたその後?へ、そういう感心があるのだが。(後略)

アールヌーボー作家ミュシャ美術館で、"美術を伝えた人"についても感銘した 投稿者:Kinami  投稿日: 9月12日(日)02時14分57秒

 もの思う秋ですね…。
 私は堺出身の与謝野晶子の活躍した歌誌「明星」で表紙・挿し絵に盛んに取り入れられた当時ヨーロッパでも流行・最新のアールヌーボー作家ミュシャの、世界で最初の専門美術館を堺市が開いたと数年前聞いて気になってました。
 さてこの度そのJR堺市駅前・堺市立文化館内ミュシャ館に行ってきました。ミュシャに付ては大変良かっので又、後日談として、ここではこのミュシャのコレクションを寄贈した故土井君雄と、アールヌーボーについて貰った資料から抜粋します。

 《アールヌーボー》…「新しい芸術」を意味するフランス語です。19世紀末から20世紀初めのヨーロッパを中心に世界中で流行した装飾的な美術・工芸スタイルの呼び名です。しなやかに流れる曲線、花の装飾などが特徴で、工芸、彫刻、建築と、生活のあらゆる分野の造形に取り入れられました。アールヌーボーには様々な要素があるなかで日本美術の影響がとくに顕著です。大胆な構図、太い輪郭線などは浮世絵からの影響といわれています。
 19世紀末、衰退のきざしが見えはじめたヨーロッパ文明が、異質な文化を取り入れることによって再び活力を得る試みがアールヌーボーであったと考えることができます。…
 《ドイ・コレクション》…500点におよぶミュシャ・コレクションを築いたカメラのドイ創業社長の土井君雄氏は、世界で初めてミュシャ美術館を日本に設立することを念頭において、ミュシャの子息イジー・ムハ氏と常に協力連携しながら、初期から晩年にいたるあらゆるジャンルのミュシャ作品を系統的にしゅう集されました。70年間行方が知れなかった中期の代表作や‥世界の宝と注目されている作品がオークションにかけられた時にも‥作品がコレクションに加わるようイジー・ムハ、土井君雄氏の努力によって実現されました。…

 僕もカメラのドイで買ったり、経営状態が悪いことなど伝え聞いてたのですが、良い事をされたなぁと思いました。

ミュシャ 投稿者:武  投稿日: 9月12日(日)20時45分30秒

 日本には何でもあるのですね。ミュシャの美術館まであるとは驚きました。
 しかもJR堺市駅前。加藤正雄の庭先ではないですか~。
 僕は今までアールヌーボーは体質的にあまり好きではなかった(一応クリムトとエゴン・シーレの画集(ポルトガル語版)はバーゲンセールで買って持っているのですが殆ど開いたことがない)のであまり知りません。
 今回の藤井先生からの課題でこの際少し勉強をしたいと思っているのですが~。
 ガラスのガレ。ドーム。ティファニーなどは日本のたくさんの美術館にあっていやというほど観ました。
 米子の足立美術館や鹿児島の長島美術館。児玉美術館など個人美術館にはとりわけたくさんあった様な気がします。

 高島北海は下関市立美術館にたくさんコレクションがあるそうです。
 僕はどちらかと言うとアールヌーボーの運動がボナールやヴィヤールとどう関わったか?に興味があるのですが。
 今東京では大規模なマチス展が開催されているとのことですが、そのマチスにどう関わったか?にもです。
 木南さん。ミュシャに付いてデータ、感想など「掲示板」で詳しくお知らせ下さい。

 そうですか~、カメラのドイがミュシャですか。
 ちなみに児玉美術館と三宅美術館は医者です。
 ゴッホで有名になったウッドワン美術館は材木です。
 足立美術館は(不動産?)何だったか忘れましたが、長島美術館はパチンコです。
 以上どこも素晴らしいコレクションです。

アールヌーボーとバウハウス 投稿者:サカミチ  投稿日: 9月12日(日)21時36分52秒

 この夏は26日間かけてヘルシンキからパリーまで旅をした。ワイマールのバウハウス博物館、思ってたより面白なかったけど、初期バウハウスがアールヌーボーの影響を受けていた事に気づいたことは収穫やった。ナンシーのナンシー派美術館、主にガレの作品やけど、やっぱり凄い感激やった。ミュシャ美術館プラハにあるけど、ミュシャはやっぱりプラハで見るべきやで。

アール・ヌーボー 投稿者:公下道子  投稿日: 9月13日(月)03時46分3秒

 情けない事に、美術の知識が全く無い私は、昨日まで「アールヌーボー」って一体何?と思っていましたが今日、本棚にある留理の高校時代の教科書(デザイン史)を読んで少し解かりました。
 ナンシー派、高島北海、ガレ、ティファニーのガラス器、・・・等最近NACK掲示板で目にした言葉もアールヌーボーの項を読んでいると次々と出てきましたので、一層解かりやすく楽しいでした。
 武本さん。
 先日(9/10)、「VITの独言」サイトのエッセイ「ヌエネン時代のゴッホ」と「佐伯祐三の足跡を訪ねて」と「ボンタヴァン旅日記」の3篇をじっくり読ませていただきました。読解力が遅いので2時間程かかりましたが、とても興味深く、楽しく読ませてもらいました。ぜひロレ-ヌ地方、ナンシー旅行記も書いて下さいね。

ナンシーのホテル 投稿者:武  投稿日: 9月13日(月)18時37分1秒

 サカミチさんはけっこうヨーロッパに来るのですか?ヘルシンキ(ストックホルム)からパリ間というとかつての僕が何度となく往来した懐かしいコースです。プラハを含めてです。今夏サカミチさんがナンシーにまで行ったとは驚きました。僕は以前には行ってないと思います。ストラスブールとランスには行ってますがその中間のナンシーは今回が初めてのはずです。あまりアールヌーボーに興味を持てなかったからかも知れませんが、その当時は本当に情報がなかった。現地に行って初めて「あーこんなところにこんな物がある」と言った感じでした。
 ところでナンシーではホテルはどこを取りましたか?僕たちの今回の旅はパリが3泊、ナンシーが2泊、ストラスブールに2泊を予定しています。パリは10年来ルクサンブールに馴染みのホテルがあってそこに泊まります。ストラスブールは駅前のキリヤードホテルを考えています。ナンシーが問題ですがもし良いところを知ってたら教えて下さい。二つ星程度で予算はWで80ユーロ程までであれば良いのですが。ナンシーにはホテルはたくさんありましたか?
 公下さん。3っつもの旅行記を一度に読んでくれたのですか。読みづらい文章で肩が凝ったでしょう?今度のナンシーも一応レポートはするつもりですが、さてどんな旅行になるでしょうか?
 サカミチさんも旅行記をNACK誌の原稿として纏めたらいかがですか?
 木南さんも、最近観た美術館の感想文を纏めてNACK誌用に書いて下さい。

東京の「マチス展」はいつまで?何処の美術館でやってるのですか? 投稿者:Kinami  投稿日: 9月13日(月)22時09分37秒

 武本さん。東京で「マチス展」をやっているのは本当ですか?ぜひ行きたいのですが、日程・場所はわかりますか?
 9/18~12/12 ピカソ展(躰とエロス)東京都美術館は知ってたんですが‥。正しくは=東京都現代美術館
 また東京のどこかの美術館で『長谷川等伯・松林図屏風』が見られる所だれか知りませんか?近代美術館かなぁ?
 マチス・松林図屏風・ピカソが見れたら見に行きたいので、誰か知ってたら是非おしえてください。
 え~っと又あらためて、チェコ出身とフランス・ナンシー出身の、ミュシャとガレの話題を書き込みしてみます…。

画像が 投稿者:武  投稿日: 9月14日(火)05時48分59秒


 マチス展はつい先日のNHKのニュースの中で皇室の人とフランス大使が一緒にテープカットをしている場面を見ましたが、どこの美術館で何時までは見ていませんでした。スミマセン

木南さんへ 投稿者:公下道子  投稿日: 9月14日(火)10時02分54秒

 マチス展の場所・日程などをYahoo検索しましたので、転記致します。

 マチス展(Henri Matisse Process/Variation)
 国立近代美術館(東京・上野公園)正しくは=国立西洋美術館
 9月10日(金)~12月12日(日)
 9:30~17:00 金曜日:~20:00
 *入館は閉館30分前まで
 休館、毎週月曜日
 (ただし、月曜日が祝日、又は祝日の振替休日となる場合は開館し、翌日の火曜日が休館)マチス没後50年を記念し、ボンビドゥーセンター・国立近代美術館とマチスの遺族の全面的な協力を得て世界各国の美術館から作品が出品されます。
マチス芸術の傑作と言われる挿絵本ジャズの原点シリーズ全20点が日本初公開されるほか、140点以上に及ぶ「油彩、切り紙絵、素描、版画、彫刻」が一堂に展示されます。

ナンシーの宿 投稿者:サカミチ  投稿日: 9月14日(火)21時40分45秒

 ヨーロッパと言っても、ほとんどが中、東欧です。80ユーロもあれば宿探しには苦労しないでしょう。ナンシーは駅前にFLORE 二っ星で40ユーロ、PIROUX二っ星で42ユーロと結構安いホテルが何軒かあります。
 以前、ナンシーに行った時はメインストリートの Reu St.GeorgeのHotel Americain に泊まりました。星二っで当時250FFr(4400円)設備の良さに比して割安感でした。今年は街の中心にある、スタニスラス広場の近くの Hotel Les Porte D'Or 二っ星で50,60ユーロに泊まりました。まあまあと言ったところです。快適でした。
 今年はスタニスラス広場の大々的な工事中であまり期待はできません。
ナンシー派美術館へは行くべきでしょう。入館料は4,60ユーロ、チケットは全日有効です。
 火、木休み、第一月曜日は10時から13時30分まで無料です。
観光案内所は駅にはありません。スタニスラス広場の一角にありますので歩いて行ってください。
 地図、ホテルリスト、博物館リスト全て無料です。パリーでは常宿はルクサンブールですか。僕は何時も東駅近くの Hotel Liege Strasbourg 泊まります。快適ですが、以前は40ユーロだったのが65ユーロに値上がりしました。経済的な旅を考えれば65ユーロはちょっと考えモノです。
 ストラスブールは駅前より街の中心で宿を探した方が良いと思いますが。
 マチス展は国立西洋美術館です、近代美術館ではありません12月12日まで開催しています。ピカソ展が東京都現代美術館でフィレンッエ芸術都市の・・・展が同時期に東京都美術館で開催です。
 バウハウスとアールヌーボーを比べたら、日本人の感性に合っているのはアールヌーボーだと思うのですが、いかがですか。

ナンシー、ガレのこと 投稿者:Kinami  投稿日: 9月15日(水)22時28分54秒

 サカミチさん、公下さん、マチス展の情報ホントにありがとうございます。
 武本さん。僕が立ち読みしたりして仕入れた情報では、ナンシーは街自体が19世紀末のアールヌーボーの雰囲気でその時代のそうした建築が沢山あるようですね。
 エミール・ガレはナンシーに生まれ、ガラスや陶器の職業の父により各地で勉強する機会を得てパリで成功した。その後ナンシーにずっと戻ってガレによってナンシー派を名乗り多くの作家とそれを享受する市民と共にこの地でのアールヌーボーが興隆したらしい。
 当時のナンシーは普仏戦争によってフランスのアルザス・ロレーヌ地方がプロシアに領有された時、ナンシーはそこから25キロのところでフランスに残ったらしい。領有地域から逃れてきた人や移民で人口が増加、とくに若い独身者の比率が高く活況を呈したらしい。…
 サカミチさん、確かにアールヌーボーは具体的に「ガレのキノコのようなガラス・スタンド」とか、誰それの宝飾品とかイメージしやすくコピー品を含め手に入れられたりで日本人に愛好されるところですね。でもバウハウスの活動は、建築やデザインの世界での隅々に影響を与えているでしょう。ん~だからこそもっと知りたいですねぇ。
 アールヌーボーとバウハウスの関係?ワイマールはバウハウスの活動の中心地とかあったんですか?…何か教えてくださいナ。

ミュシャについて 投稿者:Kinami  投稿日: 9月19日(日)11時34分9秒

⇒ミュシャ館‐鑑賞のしおりより…

《アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)》
 アールヌーボーを代表する画家としてしられているミュシャはチェコのモラビア地方のイバンチッツェに生まれました。ミュシャはウィーン、ミュンヘンで絵の勉強をしたあと、パリに出て大女優サラ・ベルナール主演の「ジスモダン」のポスターを制作、一躍その名がパリの街に知られるようになりました。
 ミュシャの作品はしなやかな流れるような曲線と美しい色彩の装飾スタイルが特徴で、ビザンチィンやケルトの装飾文様、祖国チェコの装飾様式が取り入れられているほか日本の浮世絵からの影響が見られ、日本人に親しみやすくなっています。‥中略‥
 すぐれたデザイナーであるミュシャは、グラフィック・デザイナーだけでなく、あらゆるデザインの分野に作品を残しており、『装飾資料集』『装飾人物集』はデザインの教本として今も高く評価されています。
 晩年、プラハに帰ったミュシャは、祖国チェコとスラブ民族への思いをあらわにした油彩やデッサンを多くてがけました。これら晩年の作品には、スラブ独特の象徴的な表現が見られてたいへん興味深いものです。

 ⇒私の感想は…、ヨーロッパにあってギリシャ・ローマとはだいふ違う、理想的人間・魅力としての女性美だなあと感じました。またミュシャには憂いはあっても世紀末的退廃美は感じられないように思われ、パブリックに語りかける作品だなぁ。
 素晴らしい作品に感銘しつつ、とにかく創作のエネルギーに参ってしまいました。工房でリトグラフの下絵を描いてた時は毎日15時間も仕事してたそうだ。彫刻家ロダンと友人だった。6×8メートルもある大作20点からなる「スラブ叙事詩」を18年かけて制作しプラハ市に寄贈した。1918年チェコ独立の時に、新しい国のために国の紋章、紙幣や切手、警察の制服などを無償でデザインしたそうだ。

ついでにマチス展もと 思ったけど・・・ 投稿者:グラッチェ  投稿日: 9月20日(月)01時27分25秒

 こんばんはグラッチェです。NACKの後輩の屋嘉部君から新制作展の招待状を、いただき今日 上野公園の東京都美術館へ、彼の絵を見に行って来ました。彼の絵を見るのは20年ぶりかも?個展やグループ展の案内をよく送ってくれたのですが、なかなか行けませんでした。うまく時間がつくれたので出かけてきました、ついでにこの掲示板で話題のマチス展もと思い・・・。新制作展は、若い作家が多いようで元気なエネルギィーであふれていて楽しい時間を、過せました。屋嘉部君の絵は、学生当時と変わらずキャンバスに物を貼り付けるレリーフ調の手法ですが、当時より格段に洗練され色調も明るく楽しい気分にさせてくれました。次回のNACK展のアイデアや制作意欲の元気は、もらったのですが気温30℃のなか歩きつかれて体はクタクタ、そんな訳でマチス展は次回 木南と見ようかな。新制作展は、10月3日までやってるそうです。ゲイジュツの秋です皆さんお出かけを・・・

リスボンの美術館 投稿者:武  投稿日: 9月20日(月)05時42分1秒

 木南さんのミュシャ報告に感化されて今日はリスボンまで出て美術館に行ってきました。グルベンキャン美術館というポルトガルでは最大コレクションの美術館です。 日曜日なのでクルマは空いていますし、駐車場もただです。それに何よりも良いのは美術館が無料だと言うことです。何度も行っている美術館ですが行くたびに展示物が少しづつ入れ替わっていて楽しめます。メインの館と現代美術専門館に分かれていますが今日はメインだけにしました。エジプトからギリシャ、ローマそれにペルシャの織物や陶器に素晴らしい物が多くありました。絵画では以前行った時はドラクロアが何点か良いのがありましたが、今日はレンブラント、ルーベンスなどの大作、近代ではコロー、ドービニーの秀作、珍しいところでミレーの冬景色のパステル画、それにモネとマネ、ドガ、ルノアールと言ったところまでです。以前は浮世絵のコレクションのコーナーがあったのですが、今日はその代りに漆塗り蒔絵の重箱や硯箱、印籠のコレクションがありました。以前は気が付かなかったのですが、この美術館の特色として、アールヌーボーのRene Laliqueと言う人の部屋がありました。皆さんご存知でしたか?デザイン的には素晴らしいものでしたし、宝石をふんだんに使っていて豪華なものでしたが、モティーフに蛇とか蝿とかが多用されていてちょっとグロテスクな部分もありました。どんな人が使っていたのでしょうか?ゾラの小説に出てくる様なアクの強い貴婦人などが使っていたのでしょうか?

美術鑑賞のこと 投稿者:Kinami  投稿日: 9月20日(月)22時13分42秒

 NACKのホームページのミュージアムの所をみて国立博物館のページの検索で長谷川等伯の松林屏風を見ることができました。現代美術・ミニマルアートとして見ても凄い絵だなあ。やっぱり実物を見たいなあ…。良いらしい。
武本さん。ミュージアムのコーナー良いですねぇ。ありがとうございます。ルイ・ラデック分かります。それにしてもタダで美術館に入れるかあ。いたずらや盗られたり大丈夫なんですかね。
 グラッチェさん。10月10日頃マチス展どうかなあ。しかし東京だけでも美術館を全部、堪能しようとしたら一週間ぐらい必要やなぁ。やはり年齢を経ると広い目で色々関心がもてますね。
 でも一番自分に引きつけて関心があるのは、マチス・ピカソ・後期印象派やなぁ。藤井先生に連絡とるべえねぇ…。掲示板リアルタイムで見てられないから…
 屋嘉部さんの作品はNACK展で印象に残ってます。頑張っているなあ。あぁ見たいけどなぁ。

知識を得る楽しみ 投稿者:公下道子  投稿日: 9月21日(火)16時24分9秒

 NACKの皆さんのお陰で、今まで全く関心の無かった事にも目を向けれるようになり、新たな事を知るきっかけ、知識を修得する楽しみを与えていただき本当に有り難く思っております。
 昨日は検索サイトでルネ・ラリックのページを数件開いて読んでみました。
 各ページの中から抜粋した文章を適当に纏めて転記させてもらいます。
 間違ってる部分は修正願います。

 ルネ・ラリック(Rune Lalique) 1860~1945
19世紀末から20世紀にかけてヨーロッパで興隆したアールヌーボー、アールデコの両装飾様式にわたって活躍し、1900年パリ万博でも高い評価をうけるなど、宝飾品クリエイターとして一世を風靡しました。
 彼の主に得意とするものは、日本でも名を馳せることになった優美なガラス瓶や花瓶などに装飾していくものが代表的で、それ以外にもプラチナやダイヤモンド、金、七宝細工、獣角、半貴石などを巧みに絡ませ、主に女性や動植物をテーマにした独創的なジュエリーの数々を生みだしました。
 ラリックの代表的技法としては、既に技法として登場していたフロント加工という酸を使ってガラスの表面を腐蝕させて艶消しを行う技法を、ラリック自身が改良を施し、使う薬品の調合や腐蝕時間を工夫することで、微妙なトーンを生みだす技法を開発し、それを好んで使用していました。
 この技法により、グラスに天使の羽根が描かれた「アンジュ」「ナプスベリ-」など複雑な陰影を表現しなければならない作品など、数多く生み出していきました。
後期はオブジェや宝飾品、建築など幅広くに渡ってガラス工芸の可能性を広げ、型吹き成形やシール・ベルデュといった技法を研究開発して、ガラス工芸の裾野を広げながら大量生産の道にも貢献していきました。
 ラリックの偉大な才能と功績は、息子マルク、孫娘のマリークロードへと受け継がれ、現在もMOF(フランス高級職人=日本でいう人間国宝級の腕前の職人)を何人も抱えながら、ジュエリー、ガラスなどを全般に扱うラリック社という会社を創設し、機械を全く使わない手法が今でも活かされています。
 ラリックの作品はパリのオルセーやリスボンのグルベンキアンなど主要な装飾美術館でお目にかかれます。

ルネ・ラリック 投稿者:Kinami  投稿日: 9月21日(火)19時45分0秒

 ルネ・ラリックの情報、公下さん有難うございます。ルイ・ラデックじゃなくルネ・ラリックでしたねぇ。僕はテレビ番組「開運、なんでも鑑定団」をなんとなく見ていて、ラリックやガレの作品を見て、その中の解説で知ることになったりもしますが…。
 たしかラリック作品で自動車の先端部に付ける羽根の形のアイテムなんかが思い浮かぶ。…現在はラリック社なんですか。勉強になりました。

日曜の美術館 投稿者:武  投稿日: 9月22日(水)05時24分9秒

 木南さん。欧米には結構日曜日に無料になる美術館はありますよ。
 リスボンでもグルベンキャンに限らずほとんどの公立美術館は毎日曜日は無料です。
 無料と言っても普段と同じ様にガードマンが居ます。それに入口で入場券のもぎりも居ます。切符売場で入場券を貰います。貰いますけど料金は払わない訳です。それに簡単な冊子というか、写真入りのパンフの様なものも貰います。
 例えばパリでもルーブルにしてもオルセーにしてもポンピドーにしても第一日曜日は無料です。
 モナリザもミロのビーナスもゴッホの「オーヴェールの教会」でもアングルの「泉」でもその日は無料で観ることが出来るのです。
 かといって人垣で作品が見えないと言うことは絶対ありません。普段と変わりません。
 それだけをとっても何ヶ月かパリに住んでみる価値はあります。
 無料の日でなくても入場料はそれ程高くはありません。
 それに学生や児童たちが先生に引率されて、美術館の床に座って名画の前で写生をしているのに出くわしたりします。
 ごく幼い頃から名画と触れ合っているのです。市民と名画は本当に身近な所にあるなあと感じます。
 名画は美術館の物でも一部の特権階級の人の物でもないのです。誰でもが平等に鑑賞する事が出来る物なのです。
 日本の美術館もそれ位のことは考えても良いのではと考えさせられます。
 公下さん。ルネ・ラリックの検索を有難う御座います。勉強になります。グルベンキャン美術館がそれほどルネ・ラリックの有数な美術館だとは驚きました。

多くの美術館で・・・ 投稿者:公下道子  投稿日: 9月23日(木)12時30分56秒

ルネ・ラリックの作品を所蔵・展示している美術館を列記紹介しているページがありました。

パリ装飾美術館> ラリック作品の世界的権威。宝飾品からガラス作品まで幅広くコレクションを所蔵。
オルセー美術館> パリ装飾美術館と並びラリック宝飾作品の権威。
カル-スト・グルベキアン美術館> 豪商カルースト・グルベキアンの膨大なコレクションをもとに設立された美術館。グルベキアンはルネ・ラリックの最大のパトロンでもあり、ラリックの宝飾品をはじめ多数の作品を所蔵。
The Coming Museum of Glass> アメリカ最大のガラスミュージアム。
The Utah Museum of Fine Arts> ユタ州立大学美術館。
北海道立近代美術館> ガラスコレクションでは定評があります。ガレ、ドーム、ラリック、をはじめ国内外のガラス作品を所蔵。

東京都庭園美術館> 旧朝香宮邸を美術館として開放しており、正面玄関の内扉がルネ・ラリック作として有名。
北澤美術館・新館> 長野県諏訪市にある。ガレ、ドーム、ラリック、の三大ブランドを擁する世界最大のアールヌーヴォ・アールデコ・ガラスコレクション1000余点の中からそのつど、作品を選んでテーマ性を持たせて企画展を開催。
ガラスの丘美術館> 長崎県佐世保市にある。ルネ・ラリックのガラス作品を常設展示している。
伊豆ガラスと工芸美術館> ラリックの他、ガレ、ドーム、ティファニーの作品もある。
神戸北野美術館> アールヌーボー、アールデコ期のガラス作品を常設展示。
トヨタ博物館> 自動車メーカーのトヨタの博物館。ルネ・ラリック・マスコットギャラリーとして公開。ラリックが製作したガラスのカー・マスコットも展示。
湘南江ノ島香水瓶美術館> ラリックをはじめとしたアールデコ、アールヌーボー期の香水瓶を展示している。ラリックの香水瓶コレクションは国内でも屈指の質である。

続。高島北海 投稿者:武  投稿日: 9月25日(土)05時18分44秒

サカミチさん。
ところでもう一つ質問ですが、ナンシーで高島北海の作品は観ましたか?ガレと交流があったと言う話はいろんな情報で出ていますが、果たして高島北海自身の作品がナンシーで観る事が出来るのかに付いては見つかりません。もしあるとしたらどの様な作品が何点くらいありましたか?まあいずれにしても全部観る予定ではあります。下関市美術館を検索して3点ほどの作品写真は観ましたが。

エミール・ガレと高島北海 投稿者:公下道子  投稿日: 9月28日(火)02時54分40秒

エミール・ガレと高島北海の事を知りたくて、大阪市立付属図書館へ行きました。
世界ガラス美術全集(アールヌーボー・アールデコ)にエミール・ガレの事が詳しく載っていました。
ガレの偉大さ、高島北海との出会いなど、私なりに理解できた内容の部分を、抜粋してメモ帳に書き移してきましたので転記させてもらいます。

フランス革命100周年記念を期して開かれた1889年のパリ万国博は、崩壊寸前のフランス政府、破綻に瀕した国家経済、アナーキストのテロの横行、退廃の限りをつくした首都パリを背景に、あらゆる憂いを吹き飛ばさん勢いで実行に移された。(中略)
そのパリ万国博にエミール・ガレが出品した作品の総点数は、その熱気に十分に応えられるだけの膨大な量であり、素晴らしい作品群だった。
陶器は合計200点、ガラス器300点、家具17点、装飾用衝立や玄関口、高さ8mもある多角形のパビリオン等々、又大型のビュッフェや食器棚なども陳列された。
1点が2tもある巨大なキャビネット、陶器やガラス器の30mに及ぶ陳列ケースもガレ工房で作られたものが使用された。(中略)

この時の出品内容は、腐敗した官僚政府に対する憤りと非人道的な社会行為に対する悲しみと怒りを表現した一連の「悲しみの花瓶」シリーズをはじめ、自然主義、象徴主義を見事に表現した日本美術への憧れと、それから触発を受けた「ジャポニスム」作品、日本様式の作品シリーズなどが、主体であったと思われる。(中略)
世の中の混沌と退廃に対して、ガレは真っ黒な花瓶を作り、そこに腐敗と病毒の象徴ゴキブリを描き込み、真っ暗闇の中を夜の禿鷹であるコウモリが眼をぎらつかせて飛交う様を描き、それでも足りなければ、善の象徴であるペリカンが悪の象徴である竜と闘い退治する様などを描いた。(中略)
1884年~1889年に至る間に、ガレの身辺に起った大きな日本的な出来事と言えば、ただ1件のみで、高島得三(北海)のナンシー留学と、高島とガレの交流であろう。
高島得三は明治政府の農商務省の役人で森林学を専門とする植物学者であり、また若くしてナンシー出身のお雇い外人コワニエから鉱山学とフランス語を習った能弁なフランス語の達人であり、なおかつ日本画、洋画の才能と該博な日本美術の知識をもった人物だった。
大いなるプライドを持って渡欧した36才の円熟期の高島が、39才の精力的な活動期のガレと接触する事によって何が起ったか。(中略)
ガレは古典に親しみ、詩作にふけり、植物学を学び、ワイマールに留学して鉱山学と美術史を学んでおり、1878年のパリ万国博出品作の「鯉魚文花瓶」などにみるように、早くから日本美術への関心を高めていたジャポニストであった。
高島は、ナンシー留学してまもなく、その画才を披露して、ナンシー美術家や文化人のサークルに仲間入りをするが、やがて彼はガレに「植物名彙」を贈り、それに対してガレは自分の名刺に謝辞を書いて返礼したものが今日高島家に残されている。(中略)
ガレの凄まじいばかりの芸術意図と、常に人間との関わり、社会との関わりを全身に受けとめて行く豊かな人間性が、その表現形式としての日本的な自然主義と結合した時に生み出されたのが、1889年万国博の出品作品だった。
そして、あらゆるグランプリやゴールド・メダルを獲得してヨーロッパの熱い注目を浴びガラス芸術を一挙に時代の花形に押し上げ、崇高な芸術ジャンルの仲間入りをさせる事が出来たのだった。
まさに1889年はガレの生涯の中で最高に生きた瞬間であっただろう。
言うまでもなく、ガレの作品に対する賞賛はパリを中心にして津波の様に世界中に広がっていき、やがて続々とその追従者が誕生してくる事になるのであった。(後略)
「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展 投稿者:公下道子  投稿日: 9月28日(火)11時33分55秒

大阪・中ノ島に完成した国立國際美術館新館オープンを記念して「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展が2004年11月3日(水・祝)~12月19日(日)に開催されます。
武本さんが先日増設して下さった「MUSEUM」Linkのページから「国立國際美術館」を検索しましたら、載っていました。
「開催趣旨」や「開催概要」など詳しく記載されてありますので、ご覧下さい。

勤続30年 投稿者:武  投稿日: 9月28日(火)16時34分11秒

昨日、妹からメールが届いたのですが、勤続30年のご褒美に休暇が貰えたのでニュージーランドに行くそうです。思えばその妹もNACKの合宿で尾道に行った時は参加したのですよ。僕は大阪芸大生で妹は生野高校で美術部に入っていました。その後大学を経て教師になって、勤続30年とは驚きです。僕も歳を取る筈です。
公下さん。わざわざ大阪市立図書館まで出向いて調べて頂いて有難う御座います。ますますナンシー行きが楽しみになってきました。
木南さんはマルセル・デュシャンなどをどう思いますか?僕はあのあたりから体質的に受け付けない様になっています。最近はどうも新しい物よりも古い物に眼が向いてしまいます。だから美術館でもデュシャンなどの前は素通りするのが常でしたが、藤井先生が楽しみにされていると言うのであれば、僕ももう少し真剣に観てみなければなりませんね。

益々興味わく 投稿者:Kinami  投稿日: 9月28日(火)22時07分55秒

 公下さん、《ガレと北海、国立国際美術館の情報》ありがとうございます。ガレが北海に会う前からジャパニズムに憧れを持ってたこと、彼の作品の重厚な色彩に秘められた精神のありかたが興味深かったです。
 高島北海もあの時代の山口県(長州)出身の内務省役人として、兵庫県生野鉱山の開発にあたりその後フランスまでついてった。木戸孝行、山県有朋、伊藤博文の周辺を生きた明治維新の渦中の役人ですね。苛烈な意欲と精神に生きたんだろうな。そんな人の花鳥風月画ってどんなんですか?日本に帰って画家になったらしいし…。興味深いです。
 まだ検索ページは見てないのですが、国立国際美術館(新館)は現代アートの企画に積極的な予感がして楽しみです。でもこの無味乾燥な美術館の命名なんとかなんないですかぁ?
 武本さん。デュシャンはあの便器をそのまま美術館に出品した人ですねぇ。ダダイズム(破壊主義)というかシュールリアリズムの先駆けとなったとか‥。
 僕は美術品の価値としてはないだろうし、欲しいと思いません。その作者の精神のあり方に感動したりするから好きですし興味深いです。オノ・ヨーコや高松次郎や赤瀬川源平とかあの辺も興味深いです。詳しくないですが。
 でも見ていてウットリして作品が欲しいと思うのはマチスですね。特に1923年頃のニースの頃ですね。買えないから、自分で描くみたいな面もあるんですよ。

維新 投稿者:武  投稿日: 9月29日(水)06時58分27秒

木南さんの意見に同感ですね。僕は基本的には現代美術はおおむね好きなのですが、好きな作品と嫌いな作品がはっきりしている様に思います。印象派以降いろんな美術運動が起こりました。そしてそれは必然性があったのだと思います。ダダ、シュールレアリズム運動もその最も大切な運動だったのかも知れませんね。運動の趣旨は理解できます。僕が浪高生の頃に読んだ岡本太郎の「今日の芸術」の内容にも共感を持ちました。でも岡本太郎の作品はどちらかと言うと好きにはなれません。ダリの作品もおおむね嫌いです。(中には好きなものも少しはありますが。)キリコやマグリットなら由としましょう。現代美術でもイヴ・クラインとかニキ・ド・サンファール、ティンゲリー、ローシェンバーグ、ロスコ、サム・フランシスなどは好きですが、便器を並べたり、電気掃除機を陳列したり、既成の人形を動かせたりと言ったのは好きではありません。草間弥生も嫌いです。日本で今流行のぺコちゃん漫画の様な作品も嫌いです。僕の頭が硬いのか、ついていかないのかも知れませんね。よほど広い屋敷を持っていても欲しいとは思いません。具体は吉原治良、白髪一雄などおおむね好きです。思想や手段は同じでもやはり出てくる作品に好き嫌いが出てくるのです。でも好き嫌いは別にしてこれからはしっかりと観たいと思います。
高島北海は木南さんがご指摘の様に動乱の長州藩ですね。うかつにも結びつきませんでした。昨年、司馬遼太郎の「竜馬が行く」を全巻を通して読んだところです。皆さん読まれましたか?面白い小説です。高島北海がナンシーに行ったのが明治18年、36歳ですから18歳の多感な年に維新だったのです。そのあたりと併せて観なければなりませんね。
話はがらっと替わりますがイチローが新記録を達成するのは僕がナンシーにいる頃でしょうか?


さて、来月は「ナンシー、アールヌーボー紀行」の予定です。VIT

 

(この文は2004年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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 先日、セトゥーバルのツーリスモ(観光案内所)で最新版のポルトガル全国地図を買った。
 高速道路がここ数年で張り巡らされ随分道も変化していて、以前の地図では要を足さなくなってきているのではと思ったからである。
 以前の地図では工事中とか計画中といった表示が多かった。
 それが新しい地図では殆ど完成した道路になっている。

 丹念に地図をなぞっていくと大きく変化している箇所を見つけて目を見張った。
 細い河だったところがなんと広大な湖と化している。

 もう10年も前になるだろうか?アレンテージョ地方の鉱泉水の町モウラに泊まったことがある。
 ホテルが一軒とペンションが2~3軒しかない小さな町である。
 たまたま女子ハンドボールの国際試合があってどこのペンションも満室であった。
 ホテルには運良く一部屋だけ空室があったのでそこに泊まった。

 お城の真ん前に「パンダ」という名前の中華料理店がありその日の夕食は中華料理にした。
 世界中よほど小さな町でないかぎり、どの町にも中華料理店があり、旅行中、西洋料理に飽きた時などは助かる。
 南米旅行でもよく利用した。
 セトゥーバルには10軒ほどもある。

 中華料理店「パンダ」の中国人ボーイが「日本人ですか?」と尋ねてきた。
 「そうです」と答えると「毎晩の様にここに夕食を食べに来る日本人がいますよ」と言う。
 「今夜は来ていませんが…」とも言った。
 「この町に住んでいるのですか?」と尋ねると「そう、ホテルに何ヶ月も住んでいて…この近くのダム工事の関係者ですよ」との答えだった。

 アフリカなどでは日本のODA予算で発展途上国に日本のゼネコンがダムなどを作っているという話は聞いていた。
 ポルトガルでもそうなのであろうか?

 次の朝、ホテルの朝食は体格の良いモロッコからのハンドボールの選手たちで満員で僕たちはかなり時間をずらして遅くに摂った。
 二階にある食堂の窓からふと外を見ると日本人らしき人がポルトガル人らしき人たちと泥まみれになったクルマに乗り込み出かけるところだった。
 恐らくダムの工事現場に向かうのだろうと思って眺めていた。

 それからそのダムのことはポルトガルテレビのニュースでもたびたび取り上げられ僕たちも感心をもって観ていた。

 ダムに沈んでしまう、行ったこともあるルースの城。

 その近くの村人たちは村ごと移転を余儀なくされるらしい。
 村人は殆どが老人たちであった。
 あの歳になってからの集団移転では大変だなと思った。
 その村にはかわいらしい教会があった。
 僕たちがその村を訪れた時はダムに沈んでしまう村だとは知らなかった。
 それに夕方でもあってまた来る機会もあるだろうと思って残念ながらスケッチはしていない。
 その教会もダムに沈んでしまった。
 その後、ニュースで知って惜しい事をしたと思っている。

 そしてこの度地図を買って、想像以上の広大なアメーバ状に広がったダム湖に目を見張ったのである。

 そのダム湖を見に行くことにした。
 モウラのダムよりもその上流のモウラオンやモンサラーシュの城付近が地図では大きく塗り替わっている。
 モンサラーシュの城からの眺めが一変しているのではと思ったのでそのあたりを観る事にした。

 エルバスからグアディアナ河沿いに下ってきてモンサラーシュに入る予定だった。

 ところがエルバスを出たところで標識を一つ見逃してしまい道を間違えてスペインに入ってしまった。

 仕方がないのでコースを変更してスペインのオリベンザ-アルコンシェル-ヴィラヌエヴァというコースを取って再び国境を越えて逆にモウラオンからモンサラーシュに入ることにした。
 国境には標識が一つあるだけでかつての検問所は廃墟となっていてひとっこひとりいない。

 モウラオンから少し出たところから湖は始まった。

 広大な湖と入り込んだ岬、無数の島、取り残されたコルク樫、そして右側の山の頂にモンサラーシュの城。
 左側後方にモウラオンの城。
 谷底だったところに水が満々とたたえられ絶景がそこに出現したのである。

 島には農道の断片が途切れ途切れに現われてそこは以前は島ではなく陸続きであったことを物語っている。
 いずれ雨で流され草に負かれて消えてしまうのであろう。

 長野県の田中知事は「脱ダム宣言」を発表して物議を醸したがその後めでたく県民から承認を得た。

 ポルトガルでも問題がないわけではない。
 何日も雨が降り続きダムの危険水位に達することがしばしばある。
 そうするとダムは放流を始めるのである。
 それで下流にある村が洪水に見舞われる。
 洪水対策で建造したダムによって洪水になる。
 どこかが間違っていると言わざるを得ない。
 出来たらコンクリートのダムではなく、保水力のある自然林による天然ダムが望ましい様に思う。

 ポルトガルに限らず殆どのヨーロッパでは大航海時代、木炭による蒸気汽船時代を経て全ての森を切ってしまって自然林はない。
 今、自然保護団体が僅かばかりずつナショナルトラストで森を取り戻しつつある。
 でもそれは焼け石に水ほどの成果しかない。

 日本にしろアメリカにしろ中国にしろまたブラジルにしろ、このヨーロッパの教訓を生かすことは出来ないものだろうか?

 今年特に日本では四国や北陸で水害の被害が深刻だ。
 「梅雨末期の記録的な大雨」「大型台風」と言うことで、事は天災として済まされている様に思うがそうではないと思う。
 もっと山に保水力があれば、もっと大地に保水力があれば…。
 杉、松、檜など保水力のない針葉樹はもういいかげんにして、日本原始の木、西日本では楠、樫、椿などの照葉樹と北日本ではブナ、もみじ、かえでなどの落葉広葉樹の美しい山を取り戻してはと思う。
 そうすればコンクリートのダムは造らなくても保水力は増すしまた花粉症に悩むこともなくなるのでは…。VIT

 

(この文は2004年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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 何度も再放送されている、棟方志功のテレビドキュメントの中で棟方自身が「私の身体の中には津軽三味線のリズムが流れているのですよ」と言っていた。
 棟方志功の版画を観ればそのリズムが良く判る。
 その事が僕にはもの凄く羨ましくて、僕にもそんなリズムが身に付かないかな~。と常に思っている。
 津軽三味線と言っても、近頃流行の吉田兄弟ではない。
 吉田兄弟の音と言ったら、ただギャンギャンとけばけばしくて耳を被いたくなる。
 かつての寺内タケシのエレキを思い浮かべるが寺内タケシの方がまだましだ。
 僕が昔聞いていた津軽三味線の高橋竹山などはもっと音色に深みと渋みがあって心に沁み渡ってくる。
 棟方自身の身体にはどの様な津軽三味線の音が流れていたのだろうか?

 父もアトリエでは必ずFMラジオを聴きながら絵を描いている。
 ゆったりしたクラシック音楽などが多い。
 でもラジオ番組任せでこだわりはない様だ。

 高校の美術部の同級生で絵筆を持つと必ず「きっさまっとおっれっと~わ~ぁどーきっのさーぁくーぅっらぁ~」と歌いだす奴がいた。
 お父さんが看板屋さんで、父親の背中を見て育ったのだろう。
 彼も又、ある意味で身体にリズムがしみこんでいた。

 ポルトガルの絵を描き始めてしばらくはファドばかりを聴きながら絵を描いていた。
 アマリアは好いのだが歌声が高くてBGMとしてはキツイ。
 ファドも幅広くある。明るいものよりどちらかというと暗くて、歌っていると言うより消え入る様に唸ってるだけ…と言ったものが好きだ。
 そうなると絵など描いていられない。
 ついつい聴き入ってしまうのだ。
 アルフレッド・マルセネイロなどがそれだ。

 ポルトガルの絵を描いているがポルトガルの音楽にはこだわらなくなってきている。
 最近はナット・キング・コールとかフランク・シナトラのスタンダードが心地良い。

 二年ほど前にポルトガルのテレビでノラ・ジョーンズをやった。
 それまでその歌手のことは全く知らなくてその時初めて観たのだが、ピアノの弾き語りでアコースティックのスタンダードが新鮮で、「すぐにCDを買おう」かとも思ったがポルトガルで買ったらたいていの場合歌詞カードは付いていない。
 出来たら歌詞カードが付いている方が良い。

 だから帰国の際に「日本で買おう」と思っていた。
 そのうちに「それ程でもないかな~」と思い始めて「中古店で出てからで、まっいいかっ。」と言う事になった。
 その後何枚かのCDが出ているようだが…。別にそれ程の興味もないし情報はいらない。

 今年帰国した折、宮崎であちこち中古店を見て回った。
 最近は大型古書店の一角でCDのコーナーがある。
 どこも「ノラ・ジョーンズ」のスペースはあるがCDはなかった。
 目指すは最初のCD「Come Away With Me」である。
 「大阪でならあるだろう。」と期待していたのだが、結局、時間もなく新品を買うことになってしまった。
 それなら、1年前に買っておいても同じだったのだが…

 そしてそれを今、毎日絵を描きながら聴いている。
 「それ程でもないか」は見事外れた。
 選曲。歌声。楽器の音。編曲全て聴けば聴くほどに気に入っている。
 絵を描く時のBGMとしても邪魔にはならない心地よさがある。
 と言っても「I've got to see you again」の曲などになると、ついつい絵筆を止めて聴き入ってしまう。
 そして心に沁み込んでくる。
 「ノラ・ジョーンズ」の音色とリズム。
 さて僕にはどんな絵になって現われ出て来るのだろうか?

VIT

 

 

(この文は2004年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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 数年前までポルトガルには車検というものがなかったらしい。

 以前は「よくこれで走るな~」というクルマがたくさん走っていた。

 それがEU統合のあおりだろうか?ポルトガルにも車検制度が導入されて走るクルマはみるみる新車が目立つようになった。

 

 4年前に新しくクルマを買った。

 その時にセールスマンのヴァルドマール氏に「車検はいつだ。」と尋ねたら「4年後だ」との答えだった。

 日本では新車でも車検期限のシールはフロントガラスに貼られている筈だがポルトガルにはそれがない。

 そしてそれからこの5月で4年が経った。

 6月に入っても何処からも知らせが来ない。

 心配になったのでヴァルドマール氏に電話をしてみた。

 電話のむこうでは「何キロ走った?定期点検か~?」などとのんびりしたことを言っている。

 「いや、買ってから4年が経つけど…」

 「ああ、それじゃ車検だね。先ずは工場に持ってきてみなよ!」

 

 2万キロには少し早いけれど、ついでに2万キロ定期点検をしてから車検場に行くことにした。

 

 日本では随分色んなクルマに乗ったけれど自分で車検場に行ったという経験はない。いつも整備工場まかせであった。

 

 30年も前の話だが、スウェーデンに住んでいた時は古いポンコツのフォルクスワーゲンマイクロバスに乗っていた。

 9人乗りの座席を取っ払って車内にベッドを作り、炊事道具を収納できる棚を作ったりしてそれでヨーロッパ中を旅していた。

 

 ある日ストックホルムの郊外を走っていて、後から走ってきたパトカーに止められた。

 「誘導するからパトカーのあとをついて来い。」と言う訳である。

 広い駐車場に停めさせられた。

 「今からはこのクルマを運転してはイカン!トンネルバーナ(地下鉄)で帰りなさい!このクルマは車検が切れている。車検場の予約が取れたらここに取りに来なさい。」

 

 その時は夜だったせいもあっててっきり警察の駐車場と思っていたのだが、予約を取ってからクルマを取りに行ってみると、それは単なる大きなスーパーマーケットの駐車場であった。

 

 車検場に行って自分で運転をして検査を受ける。

 検査官が横に座ってライトだの、ウィンカーだのと指示をする。

 マフラーにホースを繋いで排気ガスの検査。

 クルマの下から金槌で遠慮なくガンガンと叩く。

 ところが僕のクルマはポンコツもいいところでガンガンとはいかない。

 金槌の頭がボソッとめり込んでしまうのだ。

 検査官も苦笑いのミゴト不合格であった。

 

 友人のガールフレンド、アグネッタのお爺さんが定年退職後趣味で自動車整備をやっているからという話を聞きつけたので、その人にお願いをすることにした。

 クルマとその車検場の不合格書類を持って行ったらその親爺さんは目を輝かせた。

 余程遣り甲斐があると思ったのだろう。

 

 クルマを預けて帰ろうとすると孫のアグネッタが「今夜は見逃せないテレビがあるからそれを観てからにすれば」という。

 「ヨーロッパ音楽祭がある。」というのだ。

 「今年はスウェーデンが有力で優勝するかもよ。」

 その時に観たのがABBA(アバ)であった。

 そしてアグネッタの言うとおりABBAは優勝をした。

 

 その後ABBAが世界的な活躍をしたのはご存知の通りである。

 ABBAはしばらくして解散をしたが今でもABBAの快活な歌声は時々ラジオから流れる。

 そのABBAが流れるたびにその時のアグネッタの眼の輝きを思い出す。

 

 車検場では苦労をした。アグネッタのお爺さんにもご苦労をかけた。

 車検は3回目でようやく合格をした。

 

 ポルトガルで今回は整備工場でしっかり整備をしたし、まだ新車を下ろして4年目である。スウェ-デンの様には心配は要らない。

 ただタイヤに一つ問題があった。少しぽこッと膨れている箇所がある。整備工場では出来ないという。

 仕方がないので近所のタイヤ屋に行った。

 「新しく替えなくてもスペアタイヤと交換すればそれで良い。」と言って交換してくれた。

 「月曜日に車検を受ける。」と言ったらタイヤ周りに関して徹底的に調べてくれた。

 

 ヴァルドマール氏に「車検場の予約を取ってくれませんか?」と頼んだらその場で電話を掛けてくれたが、あいにく5時を3分回っていて電話は繋がらなかった。

 「セトゥーバルの車検場より隣町のピニャル・ノヴォの車検場の方が多分空いているし予約なしでも大丈夫だよ!」と言って簡単な地図を描いてくれた。

 それは全く簡単な地図と言うより落書きの様なもので、地図を描くより結局言葉で説明をしているに過ぎない。

 でもいつも通る道から少し入るだけの様だし、「小さくだけど標識も出ているから…」。

 車検場のことを [Controlauto] とも書き添えてくれた。

 

 次の月曜日、朝8時半にその場所に行った。

 いつも行く露店市への途中の工場地帯にその場所はある筈だ。

 目指す曲がり角には [Controlauto] の標識はなかった。

 替わりに [Centro de Inspecção/IPO] という標識ならあった。

 人気の殆どないその工場地帯に入った。

 標識を頼りに道を進んで行った。今度は [Controlauto] とある。

 とにかく間違いはない。が標識の書き方がまちまちで戸惑ってしまう。

 戸惑いながらもなんとか車検場にたどり着いた。

 

 既に4台のクルマが順番待ちをしていた。

 そのうしろについた。

 MUZがどんどん奥に入って様子を見にいった。

 奥まったところが事務所になっていたらしい。

 「代金を払ってきたよ~」と言いながら帰ってきた。

 車検代は 24,63 ユーロ(3202円)である。

 とにかく空いていることに間違いはない。

 2台のクルマが車検を受けている最中であった。

 それを見学をした。

 スウェーデンの方式とほぼ同じやり方だ。

 

 僕の番が来た時、検査官は心配そうな表情をした。

 僕がず~っと見学通路から心配そうな顔をして見ていたから検査官もかえって心配になったのだろう。

 「スモールライトが〇×〇×」「全光が〇×〇×」「前光が〇×〇×」「ウィンカーが〇×〇×」「ブレーキランプが〇×〇×」「バックランプが〇×〇×」「ワイパーが〇×〇×」「ウオッシャーが〇×〇×」「バックワイパーが〇×〇×」「バックワイパーウオッシャーが〇×〇×」などと前もって教えてくれたがそんなにいっぺんに教えられても覚えられない。

 結局順番を覚えてその通りにやればなんとかOKであった。

 

 30年前のスウェーデンと違うのはコンピュータのモニタがあることである。

 足周りも排気ガスもシャーシーも結局問題点は何一つなくすんなりOKとなった。

 最後に事務所に呼ばれて検査結果の書類とステッカーが渡された。

 「ステッカーはフロントガラスの右下に貼りなさい。次はこのステッカーにあるように2年後の5月です。」

 いわれる通りにステッカーを貼った。

 

 これで税金のステッカー、保険のステッカー、車検のステッカーと他のクルマと同様に3っつが揃って一人前のクルマになれた様な気になった。

 

 2年後までにはせめて上記ライトやウオッシャーなどのポルトガル語を覚えておいた方が良さそうだ。VIT

 

(この文は2004年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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 僕が生まれ育った家からほんの2~3分のところに「今川漆堤公園」という名の公園がある。
 僕が子供の頃には公園はなかったから当然その名前もなかった。
 その場所が「漆堤」と呼ばれていたのかも知らないが僕たち子供にはどうでもよかった。
 どぶ川が上流でふたてに分かれて又交わっている。
 その場所は島になっていることになる。
 が橋がたくさんかかっているので島という感覚も薄い。
 昔は水門があって、そのあたりでメタンガスが発生してどぶ臭かった。
 それでもオニヤンマやシオカラトンボが飛び交っていて、僕は鳥もちや網で捕まえるのが上手かった。
 大雨が降ったあとには上流から野球のボールが流れてきて、それを橋の上から魚とりの網に竿竹を縛り付けた物を持って待ちかまえる者もいた。
 それまで堤の草などにひっかかっていたのが大雨と共に一気に流れだすのだ。

 また炭屋から炭俵を貰ってきて縄で縛りつけ川に浸け、しばらく置いて一気にひっぱり上げるとたくさんのドジョウが捕れた。
 アメリカザリガニもたくさんいた。

 いま水門はない。立派に公園として整備され、付近の住人の憩いの場になっている。
 相変わらずどぶ川の様に見えるが大きな鯉が泳いでいるのが見える。
 ホームレスらしき人たちが釣り糸を垂らしている。
 いろんな木が植栽されていて、その中でも桜が一番多い。
 春には花見で賑うのだそうだ。
 昔は桜など一本もなかった。
 川の向こう側は田んぼやネギ畑ばかりで溜池や肥溜めもたくさんあった。
 いまそんなものはどこを探してもない。
 マンションや町工場など建物ばかりになってしまっている。

 先日ポルトガルに戻る前、その生まれ育った家で3泊をした。
 その前日、宮崎を発つ日に軽いぎっくり腰をやらかしてしまった。
 初めての経験である。
 宮崎を出発するその時に部屋の前の落葉が気になってほうきで掃き始めた。
 その時にやってしまったのだ。

 大阪での一泊目は腰が辛くて朝は4時頃から悶々としていた。
 5時半に堪らなくなってベッドから這い出した。
 朝刊などを見ていたが、歩いた方が楽に思えたので「今川漆堤公園」に散歩に出掛けた。

 早朝からたくさんの人たちが散歩を楽しんでいる。
 犬との散歩の人も多いが一人二人で歩いている人もたくさんいる。

 僕の前を歩いている人は草笛を鳴らしながら歩いている。
 上手いものだ。
 よく聞いて見るとそれは阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」だ。
 歩くリズムがその「六甲おろし」に合ってしまうのだ。
 僕だけではなくそのあたりを歩いている人は皆が皆「六甲おろし」に歩調を合わせている。
 草笛の音色が高くて大きいからだろう。ついつい合ってしまうのだ。
 でもぎっくり腰にこの歩調はキツイ。

 50歳代から70代くらいの女性が多い。
 2~3人連れからもっと多いグループが同じ方向に向っている様な気がする。
 今川漆堤公園は細長く1キロほどに渡っている。
 その中ほどに少し広くなったところがある。
 どうやらその場所に皆が集合している様子である。

 そうかお袋は生前、まだ元気な頃、ここに朝の体操にやってきていたのだ。
 そんな事を楽しそうに話していたのを思い出した。
 世代は移り変わっているのかも知れないが、それが今も続いているのだ。

 今川漆堤公園の先端まで行って戻ってきた時には体操が始まっていた。
 殆ど95パーセントが女性だ。
 女性たちが100人ばかり扇状に広がったその要のところに年の頃は50代か僕と同年代か、1メートル90センチもありそうなすらっとしていてロングヘアーのそれこそプロのジャズダンサーの様なかっこ良い一人の男が体操を指導しているのが見えた。
 傍にはラジカセが置いてあったが未だ準備体操らしく音楽は流れていない。
 準備体操と言っても激しく腕をぐるぐるまわしたりしていて、ぎっくり腰の僕には見ているだけでキツイ。

 普段の僕ならこういった場面ではすぐさま隅っこででも体操の仲間に入ってしまうのだが、この時ばかりはその男を羨望の眼で見るより他にはなかった。
 それどころか、この元気な女性たちに出来ることが自分には出来なくて本当に情けない思いをした。

 ポルトガルに戻ってきて1週間。
 ポルトガルの気候風土が余程僕に合っているのか?
 御蔭様でいつの間にかぎっくり腰も治ってしまっている。
 さあ、ぼちぼちラジオ体操でも始めて元気を取り戻すとしようか…?
VIT

 

(この文は2004年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 昨、2003年12月に「ポルトガルのえんとつ-MUZの部屋」がこのサイトから独立して一人立ちした。

 MUZはせっせと一人で更新に努め少しずつ充実したサイトを作りつつある。

 

 その勢いを駆って僕は大胆にも出身高校の美術部OBのサイトを立ち上げるべく奔走した。

 「奔走した。」は大げさである。

 昨年定年退職された恩師F先生への年賀状の隅っこに「僕にやらせてみてください」と書いただけである。

 それと現職の美術部顧問のY先生にその旨メールを送った。

 そして管理人を拝命し2004年1月中旬から少しずつ作りはじめた。

 

 僕が高校を出てから早いもので40年になろうとしている。

 私学であるからその美術部顧問の先生に転任はない。

 昨年退職された恩師F先生がづーっと変わらずにお一人でやってこられた。

 だから卒業生は年代を問わずその恩師によって繋がっている。

 

 不定期刊行誌「NACK」というものを作っておられて、僕の現役時代は7号から11号までの発刊であった。

 その後も毎年一冊ずつの発行で今までに34号が発行され35号を準備中との事である。

 このNACK誌は現役のための機関誌ではある。とのことであるが広くOBを繋いでいる。

 その「NACK」誌発刊は今の現役のY先生が受け継がれておられる。

 

 卒業生の中には美術に関した職業の人も多い。

 デザイナー、イラストレーター、絵描き、漫画家、美術教師等々。

 

 僕が卒業してしばらく経った頃に卒業生が寄り集まって「展覧会をしようと」いう話になったらしい。

 1970年のことである。その第一回展には僕も参加した。

 その次の年には僕は外国にいたから参加はしていないがその後もその「NACK」展は続いている。

 「NACK」展も毎年途切れなく続いて今年34回目を先日開催された。

 

 そんな活動をサイト面で紹介したい。という思いと海外に住んでいても自分でも参加したい。

 という思いがあって「NACKサイト」を思いついた。
 実際サイトと言う物は海外であろうが、日本国内であろうが、ハンディはさほど感じない。
 それと日本国内に居る人は皆が結構忙しい。
 僕は彼らに比べれば比較的閑でもある。

 絵を描いたり、スケッチ旅行に行ったり、本を読んだり、メルカドや露店市に買物に出かけたり、ポルトガルドラマのテレビを寝そべって見たり、といった日常であるが…

 少しずつなら「NACK」サイトを作っていくことは出来るかもしれない。と思った。
 どこまで出来るか判らないがとにかく始めてみる事が肝要かとも思った。
 そうして今一ヶ月が過ぎようとしている。

 やはりNACKの仲間は良いものである。
 予想以上の皆の協力の賜物で着々と充実してきている。
 現役のY先生もお忙しいなか奔走して頂いている。

 話は変わるが先日芥川賞の発表があった。
 受賞したのは2人の若い女性である。
 本当に今女性が元気である。文化面でもスポーツでも。
 もちろん文章はパソコンで書く。
 そんなことを話題にする番組(ニュース)の中で、もっと若い女子高校生がベストセラーの作家として活躍している、という話もあった。
 授業の休み時間などでも良い文章が思いついたらすぐに携帯電話に文字を打ち込み自宅のパソコンにその都度転送するのだそうである。
 携帯もパソコンも使いこなしているな~。と驚きである。

 でも考えてみると「NACK」サイトも同じようなことをやっている。
 K君は自分の作品を携帯電話で撮って写メールでポルトガルの僕のメールに送ってくれる。
 それを僕はちょっと修正を加えてNACKサイトのK君のページに載せている。
 まあ作品写真としてはちょっと無理があるかも知れないが一応は出来ている。
 驚くべきことが出来る時代になったものだと感心している。

 NACK「掲示板」を見るのは僕の日常に加わった。
 ポルトガルの僕もであるが、東京に住んでいるNACK仲間も大阪の仲間も今、高校時代当時の様に雑談が始まっている。
 いずれメキシコからの書き込みもあるかも知れない。或いはそれ以外の国からも…。
 高校の時に言い忘れた事、喋りたりなかった事、今後の方針と雑多な内容が飛び出してきている。
 NACK以外の人からの書き込みも加わりその枠は少しずつ広がっている。
 そして毎日のアクセス数は驚くばかりでこのサイトを追い抜くのも時間の問題である。

VIT

その後、ジオシティーズが閉鎖になり「NACK」サイトも閉鎖しました。

(この文は2004年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。この文章はブログに移しますが、NACKサイトはジオシティーズ閉鎖に伴い閉鎖しなければなりません。ご了承下さい。始まった2004年当初はNACK会員各位のご協力もあり、充実したものにもなりましたが、最近は書き込みもなく、サイトよりも新たな物、フェイスブックなどが主流となりつつある様です。)

 

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高校時代からの絵を描く仲間から唐突にも次のようなメールが届いた。

[日本→ポルトガル]

武ゃん 手紙着いた?そちらへ届くのに何日ぐらい普通はかかるのですか?

追伸 ラミネス社の魚のカンズメ、ロシアに輸出するために作った少し塩のきいた分などスーパーに売っていますか。

カタプラーナ鍋を使ったことがありますか。

一番小さいので直径何センチぐらいでいくらぐらいするものか教えてほしい。

日本との時差と云うか日本の21:00はそちらの何時なのですか?

 

高校時代と大学でも、僕は武やんと呼ばれていた。

手紙が日本から何日くらいかかるのかやら、時差が何時間なのかを問題にしているのではない。

「カタプラーナ」という単語を何故この男が口にするのか?

勿論、ポルトガルに住んでいる者にとって「カタプラーナ」なる物は知っている。

でも何故彼が…?

それと不可解なのは「ラミレス社」の魚の缶詰め?

これは一体何なのだ?

塩の利いた分?ペットフードではないのか?

これは聞いたこともない。ポルトガルの会社なのか?

すぐさま返事を出した。

 

[ポルトガル→日本]

郵便は通常で5日~1週間くらいだと思います。メールに慣れたら郵便の遅い事。

でもこれでも日本=ポルトガル間は早いのですよ。ポルトガルとフランスはもっと掛ります。

セトゥーバルから車で1時間の町まで2週間掛ったこともあります。

 

ラミネス社の魚の缶詰め。とは急に何ごとですか?

何の事か訳が解りませんが今度大型スーパーに行った時に調べておきます。

ただここセトゥーバルは古くからオイルサージンで栄えた街です。

その歴史は古代ローマ時代まで遡ります。

カタプラーナ鍋とはどこからそんな情報を仕入れたのですか?我家にはカタプラーナはありません。(2018年現在はあります。)

時々レストランで食べる時出てきますが。

これも銅版の厚いもの薄い物によっていろいろでしょうが。

それも今度調べておきます。

 

時差は 9 時間です。日本時間 21 時でポルトガルの正午です。

 

このメールを出してすぐにスーパーに買物に行く機会は訪れた。

メールが来て、返事を出してすぐだから、幸い忘れることはなかった。

すぐさま荒物売り場に行って、カタプラーナの価格をメモした。

缶詰め売り場ではラミレス社のものをすぐに見つけることが出来た。

そして一個を買ってみた。

家に帰ってすぐに返事を書いた。

 

[ポルトガル→日本]

きょうスーパーに買物に行ったので忘れずに調べてきました。

カタプラーナはそのスーパーには一種類しか置いていませんでした。

直径 27 センチの普通に良く使う大きさだと思います。

価格は 28.60ユーロだから 3700円くらいです。

勿論打ち出しの銅製ですが、スーパーのものだから上等品ではないのでしょう。

荒物専門店に行けばもっと豊富にあるのでしょうが…。

夏祭の露店市には銅製品の専門店が2~3軒毎年出ていますが、そういった店のほうが良い物を売っているようです。

ラミレスの缶詰めも見てきました。

小さいのから大きいのまでいろいろありましたが、全て味付けの違うツナ缶でした。

ポルトガルの会社なのですか?ラベルにポルトガルの国旗がデザインされています。

以前から知らずに見ていたのでしょうけれど、他のメーカーのよりかなり割高でしたが、試しに一個買ってきました。

385 グラム一個が 3,62 ユーロ(470円)もしました。

工場はペニシェとマトシーニョとなっています。

ペニシェはポルトガル中部の港町で大きな漁港があり、何度か行きました。

半島に突き出す様に城跡があります。

今は美術館とカルチャーセンターになっていますが、独裁政権の頃は政治犯の刑務所に使われていたとのことです。

マトシーニョはポルトガル第二の都市ポルトの隣町です。

やはり漁港で美味しくて高級なレストランが何軒かあり、だいぶ以前ですが一度そんなレストランに入ったことがあります。

 

以上本日調べてきたことの報告です。

でもこれは一体何なのですか?日本でも売っているのですか?

ラミレス社のツナ缶

さらに返事が届いた。

[日本→ポルトガル]

唐突な質問に答えてくれて有難う・・・・

ツナ缶はいろんな種類があり沢山輸入もされていますが、ラミレス社のカンズメは輸入されていません。

ただフランス土産とロシア土産で同じメーカーなのに塩味がかなり違う、ロシアの方が塩辛く今なら白菜と煮るだけでなにも加えなくてもあっさりとおいしいものでした。

冬にいろんな鍋料理に飽きたとき思い出します。

ただし、メーカーの製品管理が悪くて、たまたまそうだったのか、国別に味を変えているのか定かではありません。

私の中でポルトガルのラミレス社のロシア経由のものが最高、もう一度食したいと思った訳です

 

カタプラーナ鍋はアサリの酒蒸しに,鯛の姿酒蒸しに、熱伝導が良さそうで旨味を逃がさない構造、それでいて圧力釜でないので食素材の素材感をなくさない優れものの感じがする。

以前居酒屋も経営していたこともあり、食べることも、料理することも好きなんです。

 

以上のやりとりが一両日で出来てしまう。

まったくEメールとは便利なものだ。

これが郵便だと片道5日づつとしても一ヶ月はかかってしまう。

 

その後、「ラミレスのツナ缶の味はどうだった?」

というメールが来たがまだ食べていない。

 

あいにく今我家に白菜はない。

ポルトガルにも白菜は売ってはいるがいたって貴重なのだ。

今度白菜が手に入ったら早速やってみることにしようと思う。

それまでラミレスのツナ缶はおあずけ…。

戸棚に飾っておこう。

 

たぶんこれはロシア経由と同じ、塩辛い分だと思う。

だいたいに於いてポルトガルの缶詰めはどれも比較的塩辛い。

 

もう一つ問題の「カタプラーナ」であるが、

 

 

直径 30 cm、高さ 14 cm。

これらのメールの後、今はある我が家のカタプラーナ鍋。友人からの頂き物だが上等である。

 

今度の夏祭りの時にでもひとつ買っておくべきかな?(だから買ってはいない)

VIT

(この文は2004年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 雨もあがり天気が良くなったので急に思いたってスケッチ旅行に出かけることにした。

 思いたったのがもう昼近くになってからだ。

 とりあえず一泊くらいは出来る様にとパジャマと下着の替え、洗面道具を大急ぎでリュックに詰めた。

 クルマのエンジンをかけていざ出発。

 でも別にどこに行かなければならないというあてはない。

 

 セトゥーバルの町を抜けて国道10号線沿いのガンビアの入り口にある、以前にも入ったことのある食堂で先ずは腹ごしらえ。

 この食堂はいつも地元の人やトラックの運転手たちで満員。

 今日は少し早めなのでまだ席はある。

 

 本日の定食。

 コジード・ア・ポルトゲェーサ(野菜と豚足、サラミなどの煮込み)とフランゴ・アサード(鶏の炭火焼)を注文。

 食事をしながらどこに行くかを考えた結果、昨年にも行ったことのあるポルテル Portel を目指すことにした。

 食事が終る頃には5人ほどが立って席の空くのを待っていた。

 

 アルカサール・ド・サルからアルカソヴァスを抜けポルテルまでずーっと田舎道を走る。

 ところがアルカサール・ド・サルからアルカソヴァスへ抜ける道は先日降り続いた大雨のせいか穴ぼこと水溜りの最悪の悪路。

 ほとんどクルマは通らないがたまにすれ違っても全てトラックかRV車。

 乗用車では無理なのかもしれない。

 ラリーの気分で穴ぼこをよけながら走ったが時々は「ガツン」とやってしまう。

 時速はせいぜい20キロしか出せない。

 ところどころに土が盛られている。

 穴ぼこに埋めるための土が用意されているのだろうが、その盛り土もよけてハンドルを切らなければならない。

 

 小さな野鳥がたくさん道に出てくる。

 コウノトリもところどころに巣をかけている。鷹の様な猛禽類が空を舞っていた。

 道路脇に猟犬の檻を牽引したクルマが駐車してあったから、このあたりで狩猟をしているのだろう。

 ウサギだろうか?イノシシだろうか?鹿かもしれない。

 道路標識に鹿の絵が描かれたものがある。

 けっこう森は深いようだ。

 松とユーカリそれにコルク樫。

 このあたりは夏の山火事にはさいわい遭わなかったようだ。

 

 やはり南国アレンテージョだ。

 真冬だというのに黄色と白の小さな花が沿道を埋めつくしていちめんに咲いている。

 でも春にはこんなどころではない。

 これに赤、青、紫が混色してまるで錦の絨毯を敷きつめた様になる。

 

 かなりの距離を走ってようやく悪路から抜け出した。

 悪路から抜け出すと田舎道とはいえ真っすぐなので90キロくらいは出てしまう。

 スピードは意識して70キロに押えて走行。

 

 アルカソヴァスに到着。でもこの町は今回はノンストップで素通り。

 アルカソヴァスは何度も来てかなりのスケッチをしているし、油彩にもたくさんなっている。

 

 アルカソヴァスからは道も立派でポルテルにあっというまに着いてしまった。

 町の入口からの風景がみごとなのだ。

 ポルテルのお城と街並みそれに手前にオリーヴ畑がある。

 この風景を以前もスケッチして20号の油彩に描いたのだが、一旦は仕上げてもどうも気に入らないまま消してしまった。

 絶好のモティーフなのだが巧くはいかなかったのだ。

 今日は以前とはほんの少しだが角度を変えてスケッチをしてみた。

 何度も挑戦してみる価値はある。

 スケッチが巧くいっても油彩にならない時もあるし、逆にスケッチがもひとつでも油彩にしたら巧くいく場合もある。

 いずれにしろ僕のやりかたは先ずはスケッチをする事が肝腎なのだ。

 

 スケッチブックはいつもクルマのトランクに入れてある。

 鉛筆もベストのポケットに入れてあるのだが今日はカッターナイフを持ってくるのを忘れた。

 最近はテロの関係で飛行機に乗る時はカッターナイフとかハサミとかは厳重で持ち込めなくなった。

 そのせいでベストのポケットやリュックにはカッターナイフを入れなくなったのだがうっかりしていた。

 しかも今日に限って鉛筆は一本しか入っていない。

 芯が折れたら大変だ。力がはいりすぎてよく折ってしまうのだが今日はなんとか折れなくて済んだ。

 次からは鉛筆とカッターナイフもクルマのトランクに入れておく方が良いようだ。

 

 以前来た時は閉まっていた城門は今日は開いていた。

 城壁の上に登ってそこからもスケッチをした。

 手前に赤瓦のドーム屋根の古い建物があって曲がりくねった道沿いに丘の上まで小さな建物が軒を連ねていて重なり具合が面白い。

 これも20号くらいの油彩にできるかもしれない。

 お城は城壁と塔だけであとは空っぽである。

 ポルトガルの城はほとんどがこういったものである。

 彫刻が施された柱の一部などが転がっている。

 当時はさぞや立派なお城だったのだろうと偲ばれる。

 

 今日は悪路をかなり走ったので後になって疲れがどっとでたようだ。

 予定通り一泊することにした。

 クルマもラリーを完走したごとくに泥だらけである。

 明日はどこかで水道場を見つけて洗ってやらなければならない。

VIT

 

(この文は2004年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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ポンタヴァン旅日記(上)

2003/10/29(水)曇り時々雨 ポンタヴァンPont Aven-カンペルレQuimperle-ル・プルデュLe Pouldu

 

 朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。今日はトレマロ礼拝堂Chapelle de Trémaloに行く予定だ。

 トレマロ礼拝堂にはゴーギャンが描いた黄色いキリスト像がある。

 

 ホテルの年配の方のマダムに尋ねると4キロの道のりだという。

 往復で8キロはとても歩けない。

 道もよく判らないし雨も降っているのでタクシーを呼んでもらうことにしたが「タクシーが来ない」と言う。

 マダムは「歩くしかないわね。途中の道は散歩には素晴らしいですよ。

 往復で2時間だからバスにはギリギリ間に合うわね」と簡単に言ってくれる。

 朝食が済んだ頃には雨もあがっていたので歩くことにした。

 幸い標識は出ているのでそれに従って行けば道に迷う事もないだろうと急ぎ足で歩き出した。

 町外れから森の道に入った。

 しばらく行くとまた道路標示があって《トレマロ礼拝堂まで500M⇔ポンタヴァンまで700M》と書いてあった。

 合計で1200メートルしかないわけだ。

 ホテルのマダムは歩いたことがないのだろう。ホテルを出てからたった20分で着いてしまったのだ。

 途中は本当に素晴らしい散歩道であった。

 栗の木がたくさん生い茂っていてその実をいがごと道いっぱいに落していた。

 だれも拾わないのがもったいなくて不思議であった。

 どんぐりもたくさん落ちていたし、野生化したような小さなリンゴも足の踏み場もないくらいに落ちていた。

 昨夜の雨で落ちたのかもしれない。

 それに紅葉も美しい道であった。標識には《愛の散歩道》と書かれてあった。

 

リンゴ

 

トレマロ礼拝堂

 

クリ

 トレマロ礼拝堂はそれ自体絵になる可愛い礼拝堂であった。

 礼拝堂の内部の正面にはゴーギャンが描いた黄色いキリストはなかった。

 マリア像とか他の聖人像が何体かがあったがキリスト像はなかった。

 どこかに貸し出しでもしているのであろうか?と思った。

 あるいは貴重なものだからどこかの博物館入りになったのであろうか?とも思った。

 聖人像たちはやはり彩色木彫でカンペールの博物館で観たのと同じ様に面白みがあって素晴らしいものであった。

 

 狭い小さな礼拝堂であるが一番うしろまで下がって全体を見てみることにした。

 そうすると天井から少し下がった梁のところに薄ぼんやりとキリスト像が見えるではないか。

 入口の所にホテルにあるような時間が経てば自動的に切れる仕組みの電灯のスィッチがある。それに飛びついた。

 まさしくゴーギャンが描いた黄色いキリストがそこに浮かびあがったのだ。

 名もない木彫師が作った素朴なキリスト像であるが、僕にとっては絵を描き始めの頃からゴーギャンの《黄色いキリスト》として慣れ親しんできた絵のモデルである。

 ちょっと大げさな表現であるが『感動的』な出会いであった。

 

聖人彫刻

 

黄色いキリスト

 

トレマロ礼拝堂内部

 今までは単なる黄色いキリストとしか考えていなかったが、この旅を通して感じたことは、この黄色いキリスト像が木彫、つまり木であったというのはゴーギャンにとって重要な要素であったのだ。

 もちろんブルターニュの家具(リ・クロ)。その木彫装飾。木骨煉瓦造りの家屋。

 どれもポンタヴァン派の画家たちとは切っても切れない関係にあったと言うのが理解できる。

 それにジャポニズムの浮世絵木版画が加わる。

 観光客の誰一人も訪れない。落ち着いてゆっくり眺めることが出来た、まったく静かな礼拝堂であった。

 

 来る時は途中の標識までは急ぎ足だったのが帰りはのんびりと《愛の散歩道》を引き返した。

 町外れまでくると家の庭に季節はづれの紫陽花が二輪、蔦の紅葉と競い合う様に鮮やかなブルーに咲き誇っていた。

 町に戻ってもバスの時間まではまだまだあったので港まで行ってみることにした。途中は軒並み画廊が林立していた。

 大きな岩がごろごろと川にころがりまるで日本の渓谷の様な景色である。

 ところどころで水車が回っていた。

 

ポンタヴァンの水車

 なるほど100年前からのリゾート地であったことがよく分る。

 港には今は豪華なヨットが数隻停泊してあった。

 

 ホテルでチェックアウトを済ませる時「次はル・プルデュに行く予定だけどそこにホテルはありますか?」と尋ねてみた。

 「ああル・プルデュね。あの村にはマリー・アンリの家があるものね」

 「えっ、マリー・アンリ?」

 「そうですよ、ゴーギャンが家の天井、壁、ドアに絵を描いたところですよ」

 

 意外であった。そんなところが残されているとは思ってもみなかった。

 当時ル・プルデュにも女性が経営する下宿屋があってお金がない画家からは下宿代を請求しないので、それをよいことにゴーギャンたちはたびたびここに滞在して絵を描いていた。

 といった話は知ってはいたのだが、まさかその家が今も残されていて見学が出来るとは…。

 それならばどんな事があっても観てみない訳にはいかなくなった。

 

 ゴーギャンの画集にはル・プルデュの絵がよく出てくる。

 海辺に立つ十字架の水彩画があって、その十字架だけでも見ることができればよいと当初は思っていた。

 どんな村なのか?海の色は。波の音は。それと美味しい牡蠣が絶対に食べる事ができる漁村だと信じていた。

 でも交通の便が悪かったり、天気が悪くなったりする様だったら、このル・プルデュはパスをしてもよいとも思っていた。

 でもそうはいかなくなった。どんなことをしても絶対行かなければならなくなったわけだ。

 

 ポンタヴァンのホテルを出る時には再び雨が降り出した。しかもかなりのどしゃぶりになった。

 バスは5分程遅れてやってきた。昨日ここまで乗ってきた時と同じ運転手である。

 ル・プルデュに行くには一旦カンペルレに行かなければならない。

 そこからル・プルデュ行きのミニバスが運行されているとのことである。

 

 カンペルレの駅前には2台のミニバスが停まっていた。

 運転手がいたのでル・プルデュ行きを聞いてみたらバス停に張ってあるその時刻表を指し示して「次は17時半です」という。

 人の良さそうなその男は「俺がその運転をして行くのだがね」と付け加えた。

 

 まだ昼すぎであるからこの何にもない町で半日も待たなければならない。

 地図を見るとル・プルデュまでは僅か17キロ程の距離である。

 タクシーで行く事にした。でも駅前のタクシー乗り場にはタクシーは停まっていない。

 

 とりあえずは腹ごしらえ。サンドイッチでも食べようと駅前カフェに入った。

 ところが食べる物は何も置いてない。「その先にスーパーがあるので買ってくれば?」とカフェの人は言った。

 まあなければル・プルデュまで我慢すれば海産物の旨い物が食える。

 コーヒーだけを飲んでいるとタクシー乗り場に一台のタクシーが停まった。

 大急ぎでコーヒーを飲み干しリュックを担いでタクシー乗り場に走った。

 

 でもそのタクシーは客から呼ばれて来ていてやがて列車が着くのだという。

 「1時間あとなら戻ってきて乗せていくがね。」

 「他のタクシーを無線で呼べないのですか?」

 「いや俺はこの町のタクシーじゃないのでね」

 

 そうこうしている内にもう一台のタクシーがうしろに止まった。

 ポンタヴァンのホテルのマダムに教えてもらったル・プルデュのホテル「オテル・パノラミクへ」と言うと「ああ」と運転手は親しげに答えた。

 

 ホテル・パノラミクからは名前の通り海が見渡せた。黒々とした海に大きな白波がたっていた。

 ホテルのマダムに「メゾン・マリー・アンリ」を尋ねると「ホテルの横の道をまっすぐに1.4キロ先のカフェ・レストランの隣ですよ」と教えてくれた。

 さすが海からの風は冷たい。夏場ならおそらく開いているのであろう所々ある店は全てが閉ざされていた。

 途中海岸通の公園の中にツーリストインフォメーションの建物があったので寄っていくことにした。

 次の《メゾン・マリー・アンリ》は3時半からだという。なんでもガイドが付くらしい。

 

 《メゾン・マリー・アンリ》の入口を確かめてから隣のカフェ・レストランに入った。

 それほどは時間がないからサンドイッチくらいがちょうどよい。

 「サンドイッチはありますか?」というと「ない」という。

 仕方がないので他を当ってみることにした。

 すぐ側にもレストランがあったが閉まっていた。ここも夏場のリゾートシーズンしか開いていないのだろう。

 クレープの看板を見つけたので行ってみた。

 クレープ屋の前は大規模に掘り返されていて道路工事の真っ最中であった。ブルドーザの音がうるさい。

 工事の人が近寄ってきて「通るのか?」と聞く。

 「いや、そこのクレープ屋が開いているかだけ知りたいのだ」と言うとわざわざ見に行ってくれた。

 戻ってきて「いや、開いてない」という。

 

 MUZは遠くの方から見ていて「あたりまえやんか」と言っている。それもそうだ。

 仕方がないので再び最初のカフェに戻ってビールだけでも飲むことにした。

 結局この村で開いているのはこのカフェと泊まっているホテルとインフォメーションの3軒だけである。

 それと3時半には隣の《メゾン・マリー・アンリ》が開く。

 ビールを注文して「ポテトチップスがあリますか?」と聞くと、それも「ない」。

 「でもクローク・ムッシュゥだったら出来るけど…」と言うではないか。

 “それを何故もっと早く言わないの!そうすればうろうろしなくて済んだものを。”

 でもこれでなんとかめでたく昼食にありつけたわけである。

 

マリー・アンリの家入口

 3時半を5分過ぎて隣の《メゾン・マリー・アンリMaison Marie-henry》の扉を押した。

 既に3人の観光客が来ていた。

 受付の女性が「2人で9ユーロですよ。」「説明はフランス語でしますけれど分りますか?」

 「分らない時はいつでも質問してください」と言いながら英語で書かれたプリントをくれた。

 他の3人の観光客はいずれもフランス人である。

 入口の扉は鍵を閉めてしまってその受付の女性が皆を案内していった。

 

 大きなはきはきとした張りのある声と強弱をつけた話っぷりはまるで演劇を観ているようで内容が解らなくても思わず引き込まれてしまう。

 ゴーギャンが住んでいた部屋。相棒のマイエル・デ・ハーンが住んでいた部屋。

 行水用の大きなブリキのたらいが置いてある部屋。

 などどの部屋にもポンタヴァン派の画家たちの絵や版画が飾られていた。

 マリー・アンリの寝室にはエミル・ベルナールの油彩もあった。

 僕が目を近づけて熱心に観ていると、ガイドの女性は「これは本物ですよ!」と強調していた。

 各部屋にはポンタヴァン派以外にもマリー・アンリが当時からコレクションしていた様々な絵が飾ってある。

 英泉、晴信、歌麿などの浮世絵版画も5点ほどの本物が飾られていた。

 

 2階から見学して階下に下りた。

 ガイドの女性は一階の扉をおもむろに開けた。

 壁からドアから全てに絵が描かれている。

 中には画集で見慣れている絵もたくさんあった。

 「もちろん外せるものはみんなアメリカの美術館が持っていってしまって、今は印刷が張ってあるけど雰囲気は当時のままですよ」

 観光客は僕たちも含めて皆が圧倒されていた。

 

 僕は『月と6ペンス』の最後のシーンを思い描いていた。

 ブルターニュを旅するにあたっていろいろな本を読み漁った。

 と前にも書いたが『月と6ペンス』サマセット・モーム(角川文庫)もその内の一冊であった。

 この本を最初に読んだのは僕が高校生の時だった。その後も何回か読み返した好きな本の一冊である。

 『月と6ペンス』はゴーギャンをモティーフにして描かれた小説だと誰もが分る。

 でも主人公の名前はチャールズ・ストリックランドというイギリス人でゴーギャンのようにフランス人ではない。

 有能な証券取引人だった主人公は突然妻子を捨て画家になる決心をする。

 やがて自分の絵の真髄を求めてタヒチに渡る。

 最後には頼病に冒されるが、自分の住む小屋の天井から壁からドアまで全てに絵を描く。

 そしてチャールズ・ストリックランドの絵は完成をみる。

 原住民の妻アタに「自分が死んだらこの小屋もろとも燃やしてくれ」と頼む、壮絶な最後である。

 その小屋はサマセット・モームが描いた架空の物だと僕は思っていた。

 でもその下敷きになっていたのがこの《メゾン・マリー・アンリ》なのだろう。

 

 帰りもう一度ツーリストインフォメーションに寄って海辺に立つ十字架の場所を尋ねたが、その存在自体判らなかった。

 

 一旦ホテルに戻った。ホテルの向かいにはレストランがあるが、今日は休みだという。
 夕食はどうすれば良いのだろう。

 海産物や牡蠣どころではない。夕食からあぶれる恐れさえ出てきた。

 小さなスーパーも店の一軒もない。

 でも最悪の場合でも親戚の人から頂いた小袋のおかきがある。

 それにコンカルノーで買ったビスコットも半分は残っている。飢え死にすることはない。

 あとはメゾン・マリー・アンリの隣のカフェに望みを繋ごう。

 昼に見た時、黒板にチョークで肉料理のメニューなら書いてあった。

 

 7時過ぎに再び凍える道を歩き出した。

 カフェに着いて「レストランは開かないのですか?」と尋ねると「開かない。夜に開くのは夏場だけだ。」とのこと。

 カウンターでビールを飲んでいた客たちが口々に「レストランなら4キロ先にある。」と教えてくれるがこちらには車がないのでわざわざ夕食を取るために4キロも歩けない。

 もう既にホテルから1.4キロを歩いてきているのだ。

 

 昼のクロークムッシュゥが結構旨かったので、もう一度それを食べる事にした。

 それしか残された道はなかったのだ。

 ただし夕食なのでダブルで注文した。それに例によってシードルの大瓶。

 よほど僕たち二人は情けなく惨めな顔をしていたのだろう。

 キッチンで奥さんと相談してきたのか「よかったらサラダも出来るけど?」と言う。

 サラダも二人前注文した。デザートには昼からショーケースに入っていた、プラム入りのカスタードケーキがある。

 仕上げにはやけくそでカルバドス(この地方で産するリンゴの絞り粕から抽出した強い焼酎)を飲んだ。

 立派なディナーになった。

 

 クロークムッシュゥといえば思い出すことがある。

 かつてスウェーデンでストックホルム大学に通っている時に夜中にレストランでコックのアルバイトをしていた。

 夕方から夜中の3時までキッチンにはたった一人での勤務である。

 百貨店の前にあるレストランだから昼時は猛烈に忙しい店だった。

 夜は経営者も交替し、黒人のピアノ演奏が入りバーが主になる。

 一通りの食事メニューはあるのだが、殆ど注文はこない。一日にほんのひとつか二つ。

 でも一応のことは出来なければならないから給料は良かった。帰りには毎日自宅までのタクシー代がでた。

 夜中になってよく注文が来るのがクロークムッシュゥだった。

 僕はクロークムッシュゥに腕を振るった。

 クロークムッシュゥはその店で評判になりますます注文が増えた。

 「いったい誰がクロークムッシュゥを注文するのか?」と聞いたことがある。「娼婦」との答えだった。

 それは仕事にあぶれた娼婦のささやかなディナーになっていたのである。

 

 良い気持ちでカフェを出た。

 気温はますます下がっていた。

 そして満天の星空がそこにあった。これほど美しい星空を見たのは久しぶりである。

 セトゥーバルでは昼間は雲一つない快晴でも夜になれば雲がでだして星空の美しい夜空をあまりみたことがない。

 もっとも早寝早起きを心がけているせいもあるが。

 ホテルまでの1.4キロを星座を眺めながら帰った。

 みち半ばまで戻った時である。

 北斗七星の取っ手のあたりから大きな流れ星がこぼれ落ちるのを2人で目撃したのである。

 

ブルターニュの家

 

月明りのル・プルデュ夜景

 

2003/10/30(木)曇りのち雨 ル・プルデュLe Pouldu-カンペルレQuimperle-ヴァンヌVannes

 

 その日は祭日でミニバスの運行はなかった。同じ道をタクシーで戻るしかなかった。

 同じタクシーを頼んだが昨日とは違う女性の運転手であった。

 カンペルレに着いて料金を払おうとするとメーター料金よりも安い金額で良いと言う。

 往復割引が付いているのかも知れない。

 「またカンペルレに来る事があったら、私のタクシーを使ってください。」と言って名刺をくれた。

 本当にそんな日が近い内に来れば良いと感じている。

 

 カンペルレからは列車である。ブルターニュの古都ヴァンヌでもう一泊してからパリに戻る。

 ヴァンヌに着くとまた雨であった。

 駅前のホテルでも良かったのだが最初に泊まったレンヌのホテルが良かった。

 そのチェーン店がこの町にあることを知っていたので、雨の中そこまで歩いた。

 

ヴァンヌの洗濯場

 

ステンドグラス

 

ヴァンヌの家

 

ヴァンヌの木靴屋

 ヴァンヌでは美術館見学の予定はない。街を楽しめば良いことにしていた。

 先ずはカテドラルを観た。内部は一部工事中であったがここでもステンドグラスが美しかった。

 フランスにはステンドグラスの美しいカテドラルが各地にある。

 雨が降っていたので雨宿りのつもりで《ヴァンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Vannesにも入った。

 全体に大きな作品が多くて、ルーベンスやドラクロアの作品もあった。

 

 雨は降ったり止んだりである。傘をさしたりたたんだりが忙しい。

 初めから傘を持たないでアノラックのフードだけでびしょぬれになっても平気な観光客がたくさん歩いていた。

 港にも行ってみた。「今夜は絶対に牡蠣を食べるぞ。」と決心していた。

 その日の夕食は港の近くの城門の内側で見つけたブラッセリーに決めた。

 

 早くからそこのカフェでビールを飲みながらレストランの開くのを待った。

 7時にレストランが開いてすぐに席を移したつもりだったが、もう既に何組もの客が座っていた。

 今夜は牡蠣だけではなく、表のメニューに掲げてあったシーフードの盛り合わせを頼む事にした。

 蟹、手長海老、普通の海老、2種類の巻貝、あさり、それに牡蠣の盛り合わせである。

 豪華に注文してしまったが、蟹や海老、巻貝などはセトゥーバルの自宅でいつも生きた新鮮なものを食べているのだから

 やはり牡蠣だけにしておけば良かった。

 

ヴァンヌの家並み

 

ヴァンヌの街門の家

 

ヴァンヌ夫妻の木彫

 

店先のシードル

 

2003/10/31(金)曇り時々小雨 ヴァンヌVannes-パリParis

 昼すぎのTGVでパリに戻る日である。

 ヴァンヌの町角でサンドイッチとペリエールを買って乗り込んだ。

 二人席であるが喫煙席しか取れなかったのだ。

 喫煙席と言うのは困ったものだ。

 以前のどこでも喫煙できた時代より今の喫煙席は嫌煙家にとってはきつい。

 愛煙家が禁煙車に座っていてタバコが吸いたくなると喫煙車にやって来て空いた席を見つけて吸い始めるのである。

 吸い終わると又自分の禁煙車両に戻って行く。

 それが入れ替わり立ち代わりだから、喫煙車両から動けない嫌煙者は堪らない。

 見渡すと幼児も何人か乗っていた。この問題は何とかしなければならないと思う。

 

 今は飛行機は全部禁煙になったから愛煙家は大変だろうと思う。

 でもそれになる前に一度大変な思いをしたことがある。

 僕たちは禁煙席を希望したのだが、禁煙席の一番後ろの席で次の列からは喫煙席になっていた。

 前の方の禁煙席に座っている愛煙家が入れ替わり立ち代わり喫煙席にタバコを吸いに来るのだ。

 僕たちの席にはタバコの煙がパリから日本に着くまでずっと漂っていた。

 

 TGVの喫煙車両では幼児が祖母らしき人に絵本を読んでもらいながら、無邪気な可愛い声でずーっと唄を歌いつづけていた。

 祖母らしき人も一度もタバコを吸っていなかったから、僕たちと同じ様に禁煙席が取れなかったのだろう。

 モンパルナス駅に入った時には唄はぴたっと止んでいたので見てみるとすやすやと眠っていた。

 ああいった子供に害が及ばなければ良いがと心配する。

 

 モンパルナスからメトロに乗り換えていつものルクサンブールのホテルに入った。

 フロントの男は僕たちの顔を憶えていた。毎年1~2泊しかしないがもう10年近くもこのホテルを使っている。

 空港との行き帰りにもパリをうろうろ歩くにもこのルクサンブールは僕たちにとって便利な位置にある。

 昨年からル・サロンの会場が替わったがそれにもメトロのクリュニューまで歩けば乗り換えなしのメトロ一本で行ける。

 

 ル・サロンの前にサン・ジェルマン・デ・プレにあるドラクロア美術館に向う。美術館の前に着いたのが5時半だった。

 今回も閉まっている。開館時間の表示をみると17時15分までとなっていた。

 ドラクロア美術館を訪れたのは4回目位だろうか?

 工事中であったり今回の様に時間切れであったりとなかなかうまくいかない。

 また次回に楽しみを残す事になった。

 

 さっそくル・サロンに出かけた。その日はベルニサージュ(オープニング)なので人で溢れていた。

 僕の絵は入口からすぐのところにあった。でも少し歪んでいるのが気になる。

 まっすぐに直してひと回りしてくるとまた歪んでいた。紐の取り付けが悪いのだ。

 人の多いのに閉口して早々に退散した。


2003/11/01(土)曇り時々小雨 パリParis-サン・ジェルマン・アン・レーSt.Germain en Laye-パリParis

 今日は忙しい。

 ホテルで朝食を済ませて《タヒチのゴーギャン展》が催されている、グランパレまでのメトロの路線図を調べているとMUZは「歩いたらええやん」という。

 メトロで下手に乗り換えをたくさんするより返って歩いた方が良いこともある。

 ちょっと遠いと思ったが歩くことにした。歩くのなら簡単である。セーヌ沿いに下って行けばグランパレに着く。

 でもルーブルのところからチュイルリ公園の中に入って紅葉を楽しみながら歩いた。

 

 グランパレに着いた時には既に200人位の行列が出来ていた。

 別の入口では「ヴイヤール展」が催されていた。そこにも少しの行列が出来ていた。

 随分経って、もう少しで開館という時間になって列に向って大声でアナウンスしている関係者がいた。

 側に来たので聞いてみると「今日の午前中は予約をしている人だけの入場です」という。

 「予約をしていないのなら午後1時からまたここに並んでください」

 

黄昏のグランパレ

 今パリでは同時にルクサンブール美術館で《ボッチチェリ展》ポンピドーセンターで《コクトー展》それにここグランパレで《タヒチのゴーギャン展》と《ヴイヤール展》が開かれている。そしてこの行列である。

 常設のルーブルやオルセー、ポンピドーそれにピカソ美術館やロダン美術館とたくさんの美術館が他にもあるのにこの人たちはどこからやってくるのだろうか?と不思議に思う。

 昔はどこでもこれほどの人だかりはなかった。世界中で美術ブームなのであろうか?

 

 午前中はサン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》に急ぐ事にした。

 一度行ったところなので地図も何も見ないで歩き始めた。

 セーヌを渡ったところのRERの駅から乗れば一本で行けると間違って思い込んでいたのだ。

 間違った思い込みのお陰で随分複雑な乗換えで時間もたっぷりかかって、ようやくサン・ジェルマン・アン・レーにたどり着いた。

 駅から《プリウレ美術館》への道のりもすっかり忘れてしまっている。

 ちょうどとおりかかった在住らしき日本人に尋ねてみたが行った事がないという。

 方角だけ聞いて歩き出したら見覚えのある道にさしかかって無事プリウレ美術館の塀が見えた。

 

プリウレ美術館

 プリウレ美術館はかつてはモーリス・ドニの屋敷であった。

 ドニの手になる教会がある。ステンドグラスや壁画それにそのエスキース。

 ドニのタイル絵が天板として張られた木彫家具もあった。

 それにドニ自身が集めたコレクションがたくさんある。当然のことながらポンタヴァン派のコレクションが多い。

 ゴーギャンのタヒチでの素晴らしい木彫が2点あった。

 その内の一点は木の葉型の大きな皿に熱帯魚が二尾彫られ一本の繋がった紐のようなものを二尾がそれぞれの口にくわえている。

 

ゴーギャンの木彫

 

ドニの木彫レリーフ

 

ドニのドア

 これと同じ図柄を別の絵でも見たことがあるが、なにか意味があるのだろうか?

 それと珍しいモーリス・ドニの6号くらいの着色木彫レリーフも素晴らしいものであった。

 彩色の施し方はあのブルターニュの聖像の彩色に似ているとおもった。

 ここでもエミル・ベルナールやセリジェの作品とゴーギャンの油彩。

 

E・ベルナール

 

P・セリジェ

 それにボナールやヴイヤールの作品もあり結構見ごたえがある美術館であることを再認識した。

 でもパリの美術館の行列が嘘のようにここでは僕たちのほか一組の家族づれがいただけであった。

 庭に出るとブールデルのブロンズ像がいくつもあり、紅葉の蔦とコントラスト良く映えていた。

 

ブールデルと蔦

 こんどの旅は本当に強行軍で、お昼はたいてい電車かバスの中でのサンドイッチということになってしまった。

 サン・ジェルマン・アン・レーからの電車でもサンドイッチである。幸いフランスのサンドイッチはどこで買っても旨い。

 いや但し、フランスでのサンドイッチはパン屋で買うべしである。

 シシカバブ屋のサンドイッチは量ばかり多くてあまり旨くない。

 帰りはまともにシャンゼリゼに到着した。

 

 ゴーギャン展の入口に着いたのは1時をかなり過ぎていた。

 行列はたいしたこともなさそうで、2~30人づつどんどんと入って行く。

 入口でテロ対策の荷物検査をやっているのだ。

 入ればかなりの人でしかも多くの人が『電子解説』とでも言おうか?

 携帯電話の様な器械で作品の前に来たらその書いてある番号を押すとその解説が聞こえる仕組み、を入口で借りていてなかなか次へ進まないのだ。

 でもさすがいままで画集で観ていた本物がよく集められていた。

 アメリカのボストン美術館からロシアのプーシキン美術館から日本の倉敷のものまで、それにオルセーのもの、個人所蔵の物もあった。

 そしてやはり木彫と木版画も多い。

 ゴーギャンは画家であると同時に僕は彫刻師であるとここでも実感した。

D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

『われわれは何処から来たか?われわれは何か?われわれは何処へ行くのか?』の集大成的油彩大作(139.1X374.6)もボストン美術館から運ばれてきていた。

 が今まで画集で観なれていた印刷物とは全く異なった鮮やかな色彩に驚いてしまった。

 

 僕は今年日本に帰国した折にゴーギャンの小説『ノアノア』を探したが残念ながら手に入らなかった。

 その『ノアノア』の原画、原稿も展示されていた。

 

2003/11/02(日)曇り パリParis-リスボンLisboa

 

 いよいよポルトガルに戻る日。今日もスケジュールは目いっぱいである。

 ドゴール空港を15時45分発のエール・フランス機に乗る。

 ドゴール空港には2時間前の13時45分に着く必要があるのだ。ルクサンブールを13時に出れば間に合う。

 それまでに3つの美術館のハシゴをする予定である。

 朝食を済ませ、荷物をまとめてホテルのチェックアウトを完了しておいてリュックをホテルに預けた。

 ホテルからサンジェルマン大通りを歩いて先ずはオルセー美術館に行くのだ。

 今日は日曜なので美術館は無料である。

 オルセー美術館には今日の開館の9時を少し回っていたがすんなり入る事が出来た。

 エスカレーターで最上階まで上がってポンタヴァン派の部屋を観るのだ。

 途中ゴッホの部屋を通り過ぎた。横目で見ながら通り過ぎたが以前来た時とはかなりの絵が入れ替わっている。

 やはりオルセーにしろルーブルにしろポンピドーにしろしょっちゅう来なければ駄目だ。

 

紅葉のルーブル

 

夕映えのノートルダム遠望

 

エッフェルとA三世橋の欄干

 

オルセー美術館

 エミル・ベルナールとポール・セリジェの絵を初めて観たのがここオルセーであった。

 ここにも作品は少ししかないが今回の旅でたくさんまとめて観ることができたので僕には充分である。

 ゴーギャンの部屋ではタヒチ時代の絵はグランパレの特別展に行っていたので

 その分ポンタヴァンの絵が多く展示されてあったのは僕にとって好都合であった。

 この一週間でこれほど多くのゴーギャンをまとめて観たこともない。

 

 タヒチに向う前にゴーギャンはゴッホと弟テオの要請にしたがって、ポンタヴァンを去り南仏アルルでゴッホとの共同生活に入る。

 でもそれは2人の強烈な個性のぶつかりあいによって僅か2ヶ月で破綻を迎えることになる。

 しかしその僅か2ヶ月のアルル生活がゴーギャンにとっても、ゴッホにとってもその後の作品に大きく影響を与え転機になったことは言うまでもない。

 ゴーギャンが他のポンタヴァン派の画家たちよりは強さに於いても、文学性に於いても、また装飾性豊かな色彩の多様さに於いても一歩抜きんでているのにはアルルでのゴッホとの2ヶ月の共同生活を抜きにしては語れないのではないのだろうか?

 それはまたゴッホに於いても同様のことが言える。

 

 オルセー美術館を早々に退散して次は《市立近代美術館》に向った。RERを2駅乗ってセーヌを歩いて渡ればすぐだ。

 ところが行ってみると《市立近代美術館》は先月から一年間の工事に入っていて休館であった。

 

 仕方がない、あとは《ポンピドーセンター》を観るのみである。再度メトロに乗りシャトレで降りた。

 勝手知ったる駅である筈がひとつ出口が違うと戸惑ってしまう。

 

 ポンピドーセンターでも以前と展示内容が随分と違っていた。

 ルオー、マチス、ピカソ、ブラックなどの作品もかなりが入れ替わっていた。

 それに市立近代美術館にある筈のモディリアニとスーティンがポンピドーセンターに避難?してきていた。

 

 予定をしていたドラクロア美術館には4度目の挑戦で今回も観ることは出来なかった。

 市立近代美術館も工事中でかなわなかった。

 

 市立近代美術館では今回重点的に観てきたポンタヴァン派の後に続くナビ派とポンピドーセンターではフォーヴィズムとキュビズムをちょっとだけ覗いておきたかった。

 

 またドラクロアは近代美術に大きく暗示を与えている画家である様に僕には思えるから、そのアトリエをちょっとは見てみたいとかねてから思っているのだが…。

 

 今回のポンタヴァンへの旅はタイムリーにも《タヒチのゴーギャン展》に出くわしたこと、ル・プルデュで《メゾン・マリー・アンリ》の存在を知り、観ることが出来たことなど、思いもかけずに観ることができた、といったものを差し引いても予想以上に収穫の多い旅であった。

 そしてこの旅が今までにしてきた全ての旅がそうであった様に、今後の僕にとって宝物となることを確信している。

 

 ルクサンブールからドゴール空港までのRER内でもサンドイッチの昼食を取る事にしていた。

 日曜なのでいつものサンドイッチ屋は閉まっている。

 学生アルバイト風の男が駅の入口のところでサンドイッチとクレープの店を開いていた。

 僕たちの前に2人のパリジェンヌがクレープを焼いてもらっていた。

 僕たちはブルターニュで本場のクレープをさんざん食べたので、ここでは普通のチーズとハム入りのサンドイッチを注文した。

 男はクレープ台の上でサンドイッチを温めてくれた。

 今日もいまにも雪にでもなりそうなしんしんと冷える寒いパリである。

 

 パリからリスボンに戻ってくる飛行機では隣になんと半そでに短パンの髭顔男が座った。

 どこか熱帯の国から来てパリを中継してリスボンまでの旅の途中であろう。

 まさかタヒチではないであろうが、べつに聞くこともしなかった。

 さすがパリ出発の時には寒そうにはしていたがリスボン空港に着いた時には僕たちも服を2枚は脱がなければならなかった。VIT

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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 ル・サロンとサロン・ドートンヌに出品するための作品を持ってパリに行き、搬入してからその展覧会を観るためには始まるまでの1週間を何らかの形で潰さなければならない。
 パリの美術館をくまなく観て歩くのだけでも良いのだけれど、どうせなら「佐伯祐三の足跡を訪ねてみよう」と思い立ったのが1994年。
 画家がどんな環境に住み、どんな気持ちでそのモティーフを選び、何を強調し何を省き。というのを観察するのは、僕にとって勉強にもなるし楽しみでもあった。

 佐伯祐三の足跡を訪ねる旅はゴッホとも重複している。
 次にゴッホを訪ねるとまたいろんな画家との拘わりが出てくる。
 といった具合にそれ以後毎年、拘わりを求めた旅をしてきている。

 そうして今回はゴッホと拘わりの深い、エミル・ベルナールとゴーギャンらが活動した、ブルターニュ地方のポンタヴァンを目指す旅とした。

(文章は日記形式とし、かなりの長文になりました。一部美術に関し専門的で読みづらい箇所もあるかと思いますが、そういった興味のないところは飛ばしてお読み下さい。また関連した写真をカット的に挿入しました。大きくはなりませんのでご了承ください。下線の入った美術館のホームページへはリンクが繋がっています。但しフランス語です、併せてご了承ください。武本比登志)

 

 プロローグ

 ブルターニュのポンタヴァンという響きは僕の心の中でかなり以前から持ち続けていた。

 それは高校生の絵を描き始めの頃にさかのぼる。

 美術部顧問の恩師・藤井満先生から課外授業で教わった『美術史』

 その教科書に使われたのが福島繁太郎著『近代絵画』(岩波新書/昭和27年第1刷)であった。

 その中に《ポンタヴァン派》という記述が登場する。

 

 ポンタヴァン派《L'École de Pont-Aven》とはゴーギャンを筆頭にエミル・ベルナール、モーリス・ドニそれにポール・セルジェらが中心となって起った近代絵画史上重要な位置を占める絵画革命のひとつであった。

 セザンヌの理論的背景とジャポニズム(浮世絵)の影響を受け後のナビ派やフォービズム、キュビズムそして抽象絵画へと発展、暗示を与えたことになる。

 それまでは印象派による光線の分割理論によって七色の色彩を混色することなく点描で表わしていたものを、浮世絵版画からの発想による黒い線の縁取りの中は点描ではなくて原色や混色した平塗りでもって、そしてその色は自由に最も自分が好きな色を塗れば良いのだ。

 といった自由な発想がポンタヴァン派であると思う。

 それは色や塗り方だけではなく大胆な構図、装飾性、モティーフにも自由な考えは広がって当然のことであった。

 芸術とはひとつの抽象作用であるという《サンテティズム》(綜合主義)を明確に表わした。

 

 縁取りのことを《クロワゾイズム》と言う。

 僕は油彩を描き始めた当初からこの縁取りを多用してきた。

 もっとも僕の場合黒ではなく赤土色であるが…。

 そんなこともあってかポンタヴァン派には人一倍興味があるのかも知れない。

 

 そしてこの程ようやくブルターニュのポンタヴァン行きの実現にこぎつけたわけだ。

 でもいざブルターニュへ行くとなるとその資料は殆ど見つからない。

 インターネットで検索してみても薄っぺらな観光案内しか見つからなかった。

 

 ゴーギャンと並んでポンタヴァン派の中心的画家エミル・ベルナールはポンタヴァンにいる時やパリにいる時に頻繁にゴッホと手紙のやりとりをした。

 そのゴッホからの手紙をまとめて『ゴッホの手紙』(エミル・ベルナール編)として出版した。

 エミル・ベルナールはその他にも『回想のセザンヌ』と言った著書を著していることでも知られているが、それらの本の中にもポンタヴァンについての記述は殆どない。

 

 色々読み漁ったあげくひとつの興味深い文章を見つけた。

 あまのしげ著『ゆらぎの時代-環境文化誌』(リトルガリバー社)の中の《ブルターニュの小箱》という章の記述である。

 僕たちもパリに住んでいた時によく行った《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市。

 そこでもう30年も前になるがひとつのコーヒー挽きを買って今も日本に帰った時には使っている。

 著者のあまの氏が見つけたのは《木彫りの小箱》。

 《木彫りの小箱が想像を掻きたてブルターニュへの旅を誘う》という書き出しである。

 それはヨーロッパに於ける木の文化について触れられていて興味深い。

 僕はこれを読んでブルターニュではあまの氏が言うその木彫の寝台《リ・クロLit-clos》をしっかり見て来ようと思った。

 

 2003/10/25(土)曇りのち小雨 セトゥーバルSetubal-リスボンLisboa

 

 親戚の人が団体旅行でポルトガルに来ているという突然の電話が入ったのでリスボンで逢うことにして自宅は一日早めて出発した。

 当初の予定なら朝4時に起きてセトゥーバルを5時発のローカルバスに乗らなければならなかった。

 パリに行く時はいつもそうしているのだが、今回はそういう訳で親戚の人が団体で泊まる予定の同じホテルに一泊することにした。

 幸いリスボン空港に比較的近い位置にそのホテルはあった。

 それでもホテルを朝5時半には出発しなければならない。

 

 2003/10/26(日)曇り リスボンLisboa-パリParis-レンヌRennes

 

 リスボンを発つ日はちょうど夏時間が終って冬時間に変わったその朝で一時間得をした。

 パリで出品の手伝いをしてくれている画材店のマダム&ムッシューMは昨年で永年営業してきた画材店を閉じた。

 今までならその画材店に絵を持って行けば良かったのだが今回からは自宅に持ってゆく必要があるわけだ。

 同じモンマルトルの18区なのだが自宅には行った事がないのでうまく逢えるかどうかが心配だった。

 

 その日のうちに行くブルターニュの最初の町レンヌ行きのTGV(フランスの新幹線)の切符をド・ゴール空港のTGVの窓口で先に買っておくことにした。

 モンパルナス駅を予定の15時05分発ではちょっと不安だったので、2つ遅らせて17時05分発を買うことにした。

それでも7時過ぎにはレンヌに着くことができる。

 

 だが禁煙席はもう既に満席で喫煙席ならあるという。それでも仕方がない。

 思ったよりも結構混んでいるようだ。他の区間も心配になったので、次の日のレンヌからカンペール行きも、そして帰りのヴァンヌからモンパルナスもまとめて買っておくことにした。

 カンペールからヴァンヌのあいだはTGVではなく、普通の列車かバスでの移動になる。

 その間に目指すポンタヴァンがある。

 

 モンパルナスでもし時間が余ってもぶらぶら歩いて、久しぶりに《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市を歩くのも悪くないとも思っていた。

 18区のムッシューMの家の前まで来るとムッシューMが寒い中、家の前まで出て待っていてくれた。

 おりしも2~3日前からヨーロッパにはかなりの寒波が来ていて例年に増してパリは寒く、ポルトガルよりは15度程も気温は低かったのだが…

 お陰でル・サロンとサロン・ドートンヌ用の二枚の100号はすんなりと預ける事ができた。

 画材店のあったところと自宅はすぐ1ブロック程であったのでその場所のメトロを目指して歩き出そうとするとムッシューMは「メトロならこちらの方が近いですよ」と言う。確かにメトロ駅がもうすぐそこに見えていた。そのメトロ駅にはユトリロの絵になって見慣れている《ジュール・ジョフリン教会》があった。

ジュール・ジョフリン教会

 そこからモンパルナスには15程も駅があるものの乗り換えなしの一本で行くことができる。

 そんなわけでモンパルナス駅には2時過ぎには着いてしまっていた。

 

 切符売り場に行き「15時05分発に変更が出来ますか?」と尋ねたところすんなり切符が取れてしまった。

 僕たちには好都合の禁煙席で、しかも20ユーロもの金額が戻ってきた。

 「なんで?」と尋ねたら、ひととおりぺらぺらと説明してくれたが、それでも解らない振りをすると、切符売り場の女性は「いらないのなら私が貰っとくわよ!」と笑っている。

 これで《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市には行けなくなってしまったが、予定どおりブルターニュに明るい内に着ける。

 

 それでも1時間程の時間が余ったのでモンパルナス高層ビルの横から延びている、

 以前にも行った事のある露店市に行ってみることにした。

 今日は日曜日なのでやっている筈である。

 以前この露店市では美味しそうな暖かいソーセージとシュクレの盛り合わせが売られていたので、それを買い込んでTGVのなかで食べるつもりである。

 

 行ってみると露店市ではなくテント張りの展覧会会場になっていた。

 そしてそのテントは果てしなく続いている。

 テントのひとつのコーナーはそれぞれの個展会場になっていて10点づつ程の展示である。

 ル・サロンがまもなく始まろうとしている時期にまるでかつての《サロン・ド・リュフュゼ》(落選展覧会)の様相である。

 全てを見ることは出来なくて途中からモンパルナス駅に引き返した。

 

 駅の売店でサンドイッチとペリエールを買って列車に乗り込むことにした。

 戻ってきた20ユーロでサンドイッチ代を払ってもまだおつりがきた。

 リスボンからの飛行機のなかで機内食が出たので遅い昼食をTGVの中でするのは当初からの折込済みである。

 

 僕たちの席は18号車になっていて、手前から1号車だからホームを延々と歩かなければならなかった。

 車両は20号車までで、機関車両が前後と中程にも二両が付いていて全部で24両編成の超長車両である。

 どこかの駅で切り離すのかも知れない。

 僕たちの席は4人掛けである。さっそくテーブルを引き出してその上にサンドイッチの入った袋を乗せた。

 TGVが動きだすとすぐにでも開いて食べるつもりである。

 

 出発間際になって向かいには中学生くらいの女の子が二人座った。

 祖父母とおぼしき二人が見送りに来ていた。

 たぶんブルターニュから祖父母の住むパリに週末を利用して遊びに来ていたのかも知れない。

 テーブルが小さいのが不満らしく、もっと大きく出せないのかとやってみたくて僕たちのサンドイッチの袋を一旦どけてくれと言う。

 そうしてやってみるがそれ以上は大きくはならない。

 

 TGVが走り出したので僕たちはすぐにサンドイッチを食べ始めた。

 サンドイッチの袋がなくなったテーブルにその女の子はキャンバス地で出来た大きな手提げ袋の中身をぶちまけた。

 自分の持ち物をこの際整理したかったのだ。

 CDモニター、数枚のCD、ゲーム機、雑誌、それにクッキーの箱とジュース、その他もろもろ。

 CDをセットし耳にイヤホンをつけ、クッキーの箱とジュース、雑誌を一冊だけ残して荷物を再び袋の中に詰めなおし雑誌を読み始めた。

 僕たちはこのTGVが停まる最初の駅ブルターニュの入口レンヌで降りる。レンヌにはわずか2時間で着く。

 その2時間のあいだ雑誌をみたり、ゲームをしたり、CDを聴いたり2人で笑いあったりと、手提げ袋ひとつで随分手軽な旅のようにも見える。

 まるで隣町に買い物にでも行く様な感じである。

 いまTGVを使えば本当に短い時間でフランス国内どこにでも気軽に行ける。

 しかも日本の新幹線ほどは運賃も高くはない。

 

 100年前のゴーギャンの時代はどうだったのか?と考えてしまう。

 TGVも飛行機もない時代、煙を吐く汽車はあったにしろ線路のないところは馬車か歩くしかなかった。

 そんな時代にゴーギャンといえベルナールといえ随分気軽にパリとポンタヴァンの行ったり来たりを繰り返している。

 いやポンタヴァンには限らず、パナマやタヒチ、マルケス島、アルジェリアなどとほんとうに気軽に世界中を歩き回っているのには驚きである。

 

 TGVはほぼ満席である。出入り口の補助椅子にも人が座っている。

 僕たちがフランスを訪れるのは展覧会の都合でいつもこの時期なのだが、今回も車窓を流れる紅葉が美しい。

 寒すぎたり、天気が悪かったりまた日も短く旅をする条件としてはあまり良くはないのだが、紅葉だけは本当に美しい。

 それとホテルなどは空いているし格安で泊まることができる。

 

 今回の旅でもいくつかの美術館を観る予定を立てている。

 レンヌの《レンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Rennes

 カンペールの《カンペール美術館》Musée des Beaux-Arts de Quimperと

 《ブルターニュ博物館》Musée Dèpartemental Breton

 それにポンタヴァンの《ポンタヴァン美術館》Musée de Pont-Avenである。

 

 またパリに戻ってから自分の出品している《ル・サロン》Le Salonを観たあと

サン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》Musée du Prieuré

パリの《市立近代美術館》Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris

《オルセー美術館》Musée d'Orsay《ドラクロア美術館》Musée National Eugène-Delacroix

《ポンピドー現代美術館》Musée National d'Art Moderneを予定している。

 勿論それらの美術館内の全てを観るのは無理なので《ポンタヴァン派》に関連深いところだけをポイント的に観ていくつもりである。

 

 ところがリスボンからパリへのエール・フランスの機内で、その機内誌を見ていて”あっと驚く記事”を見つけてしまったのである。

 『タヒチのゴーギャン』と題した展覧会がパリのグラン・パレGrand Palaisでちょうど催されているのである。

 ゴーギャンはその時期ポンタヴァンとタヒチを行ったり来たりしている。これを観ない手はない。
 昨年はちょうど『モディリアニ展』がホテル近くのリュクサンブール美術館で開かれているのをポルトガルに戻る前日に気がついて戻る日に朝早くから列に並んだのに飛行機の時間が迫って時間切れで見ることが出来なくて悔しい思いをした。

 そんな事もあったので今回はその機内誌をよく調べておこうと思っていたのだが、これほどのタイミングの良さだとは想像もしていなかった。

 

 TGVはきっかり予定通り17時08分にレンヌ駅に到着した。

 駅前のホテルに大急ぎでリュックを下ろし、早速《レンヌ美術館》に行ってみることにした。

 予定では明日の朝からの見学だが、もしかしたら1時間くらいは観ることが出来るかも知れない、と思ったがあと5分で閉館となっていた。

 切符売り場の黒人女性は「今日はもう時間はないわ。明日にしたら。明日は10時からだからね」と言う。

 出来たら少しでも予定を早送りしてあとの予定になかった『タヒチのゴーギャン展』を見なければならないと思ったからだが…。

 

 しかたがないので薄暗くなりかけた旧市街を歩き回った。

 木骨煉瓦造りの家並が続く。上階に上るにしたがって道に張り出している。

 また上階に上るにしたがって隣に食い込んでいたりもする。

 隣は隣でまた更に隣に食い込んでいる。まったく面白い。

 柱は太くセピア、赤、緑と様々な色のオイルステンが塗られまるでアンデルセンやグリム童話の世界か、「まるでブリューゲルの絵の中にでも入り込んだようだ。」とあまの氏は書いているが全く同感である。

 なるほどあまの氏の言うヨーロッパの木の文化がこの街にも息づいている。

 同じフランスでも南のプロバンス地方とはあきらかに違う。

 むしろドイツなどの北ヨーロッパで同じ様な建物を見ている。

 

 ヨーロッパはローマ帝国が支配した時代からどうも石の文化の様に見られがちだが、どうして木というものも見過ごすわけにはいかないのだ。

 そう言えばスウェーデンの伝統的な建物も木造であった。

 ノルウェーはベルゲンにはヨーロッパ最古?の木造教会があった。

 

 ひときわ明るく輝いている地区があったので行ってみることにした。

 夜の露店市でも開かれているのかな?と思ったのである。

 行ってみると大きなメリーゴーランドであった。

 そのメリーゴーランドが面白い。乗り物一つ一つがまるでボッシュの絵の世界から飛び出てきた様である。

 あるいはハリーポッターのイメージなのだろうか?子供たちは大喜びで興じていた。上の方でひきつっている子供もいる。

 このレンヌにはここの他、狭い地域に3つものメリーゴーランドがあった。

 

レンヌの木骨煉瓦造りの家

 

メリーゴーランド

 

レンヌの街並み

 

レンヌの通り

 

2003/10/27(月)快晴 レンヌRennes-カンペールQuimper

 

 その朝も早くから街を歩き回って、10時の開館と同時にレンヌ美術館に駆けつけた。

 入口には既に幼稚園児が20人ばかりとその先生たちが4~5人で列をつくっていた。

 その美術館は博物館も兼ねていてエジプトの発掘品、ギリシャ時代の陶器、ローマ時代、イコン、と一通り美術の歴史順に展示がされている。

 ルーベンスの迫力のある大作がある。本当にルーベンスの作品はヨーロッパ中どこの美術館にもある。

 シャルダンJean-Baptiste Siméon Chardin(1699-1779)の2点の静物画が素晴らしかった。

 

 18世紀の絵が飾られている部屋に幼稚園児が座り込んで美術館員の説明を受けている。

 やがてゲームが始まった。美術館員が一枚の絵の部分写真を持っている。

 「この絵はこの部屋のどこにありますか?」という部分当てクイズなのだ。

 子供たちは一枚一枚絵の前に立って「ノン」「ノン」などと可愛い声で答えていた。

 僕たちはそういったところもひととおり観ながら《ポンタヴァン派》の部屋に急いだ。

 

 印象派のシスレーやカイユボットのいい絵もあったが、ゴーギャンのピサロやセザンヌの影響をそのまま受けている初期の静物画も興味深く観た。

 そしてエミル・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セルジェなどのポンタヴァン派はさすが充実していて、じっくり観ることが出来た。

 またピカソの時代の異なった絵が数点、現代美術のサム・フランシスまで、エジプトから20世紀までと実に幅広い。

 

 この日のレンヌからカンペール行きのTGVも予定していた時間の切符は取れなくて2時間遅れである。

 お陰でレンヌの街はゆっくり堪能する事は出来たが…。

 

 TGVはレンヌを14時11分に出てカンペールに16時23分に着く。

 お昼は少々味けがないが駅で軽くリンゴ入りクレープとシードルのハーフボトルで済ますことにした。

 でもこれもブルターニュ式である。

 

クレープ屋の看板

 レンヌからのTGVは昨日のよりも更に満席であった。

 入口の補助椅子にも座れなくて立っている人もいる。

 僕たちの席も別々である。

 しかも窓が小さくまるでスペースシャトル(乗った事はないが)のようでもあり、監獄(入った事はないが)のようでもある。

 1時間ほどの途中の町、ロリエントで殆どの人が降りてしまい、それからカンペールまでは4人席に2人だけでゆっくりする事が出来た。

 カンペールでは美術館と博物館の2つを観る予定なので今日中にひとつはどうしても観ておかなければならない。

 カンペールにもTGVは定刻通り16時23分に到着した。

 

 レンヌでは駅前のホテルが想像以上に良かったのでカンペールでも何も考えずに駅前の一番目立つホテルに飛び込んだ。

 後でよく見てみるとその隣にもっと設備の良さそうなホテルがあったのだが…。

 ここでもリュックを放り投げてカンペール美術館に急いだ。

 

 美術館に着いた時には薄暗くなりかけていたがその日は充分に観賞する事が出来た。

 ここでも初期のゴーギャン[Paul Gauguin](1848-1903)をはじめ、エミル・ベルナール[Emile Bernard](1868-1941)モーリス・ドニ[Maurice Denis](1870-1943)、ポール・セリジェ[Paul Serusier](1864-1927)に加えて、クロード・シュフネッケル[Claude-Emile Schuffenecker](1851-1934)、アンリ・デュラヴァレェ[Henri Delavallee](1862-1943)アンリ・モレ[Henry Moret](1856-1913)、マキシム・モウフラ[Maxime Maufra](1861-1918)ジョルジュ・ラコンブ[Georges Lacombe](1868-1916)、マイエル・デ・ハーン[Meijer de Hann](1852-1895)シャルル・フィリジー[Charles Filiger](1863-1928)、モーゲン・バラン[Morgens Ballin](1871-1914)アルマンド・スギャン[Armand Seguin](1869-1903)、ロドリック・オコーナー[Rodric O'Conor](1860-1940) 、フェルディナンド・プィゴドウ[Ferdinand LoyenduPuigaudeau](1861-1930)、ウラディスラヴ・スレヴィンスキー[Wladyslaw Slewinski](1854-1918)といった、ポンタヴァン派の画家たちの作品がひととおり網羅されていた。

 やはり後のタヒチのゴーギャンに比べるとどれももう一つ強さや個性といったものに欠けるのかも知れないが、その当時の競い合って新しいもの、独自のものを捜し求めていた息ずかいを感じ取ることが出来る充実した展示であった。

 

 フランスに来た時はいつも何度かは牡蠣を食べる事を楽しみにしている。

 フランスの牡蠣は旨い。

 今回は特にその産地のブルターニュである。勿論この時期が旬でもある。

 そんな訳だから「毎夕食には牡蠣ばかり食べまくるぞー」と張り切っていた。

 パリでもニースでも牡蠣は氷をびっしり敷きつめたお盆のようなものに盛られて出てくる。

 レンヌではあまりの寒さにとても氷に乗った牡蠣を注文する気にはなれなかった。

 暖かいシーフードスープと暖かいムール貝を注文した。

 カンペールでは牡蠣専門店のある市場の隣のブラッセリーに入った。

 ここではいくら寒くても牡蠣を食べないわけにはいかないだろう。

 暖房も効いていたので思い切って12個づつの24個を注文した。旨かったがやはり身体が凍えた。

 身体を暖めようとムール貝のクリームソース煮を追加注文した。それもぺロリと平らげてしまった。

 デザートにはブルターニュではフロマージ・ブランが良い。甘くないヨーグルトのようなものだから。

 それを食べたら再び身体が冷えた。いずれにしろ食べすぎである。

 

カンペールのカテドラル遠望

 

氷の上の牡蠣

 2003/10/28(火)快晴 カンペールQuimper-コンカルノーConcarneau-ポンタヴァンPont Aven

 

 その朝は芝生にもベンチにも真っ白に霜が降りていた。

 先ずは昨夜入ったブラッセリーの隣の市場に行ってみた。やはりセップ(まつたけもどき)が出ている。

 それに市場の中だけで3軒ものクレープ屋があった。

 カマンベール入りとハム入りのクレープを焼いてもらって歩きながら食べた。

 

セップ

 

クレープ屋さん

 

 ポルトガルと比べるとフランスの市場は小綺麗だがあまり元気がない。

 大型スーパーに客を取られて活気がなくなっているのであろうか?

 

 インフォメーションがあったので地図をもらった。そのインフォメーションの前に1枚のポスターが貼ってあった。

 なんと『ポンタヴァンのゴーギャン』と題された展覧会ポスターである。

 でも期間は7月12日から9月30日となっていて、残念ながらもう終っている。

 

ゴーギャン展のポスター

 

 パリといいここカンペールといい違う時期のゴーギャン展を同じ様な時期に催すとは…。

 《ゴーギャン》がいま流行っているのであろうか?

 

 カテドラル内部のステンドグラスも朝の光りを透して美しく輝いていた。

 パステル調で色の優しいモザイクがあったのでサインを読んでみると《モーリス・ド二》と書いてあった。

 

ステンドグラス

 

ドニのモザイク

 10時の開館を待ってカテドラルの隣のブルターニュ博物館に入った。

 先ずはこのあたりに点在する紀元前2~5世紀頃の巨石群の石のレリーフの展示である。

 

 それに教会の為の聖人の彫刻。これが彩色木彫でありどれもこれも面白い。

 ヨーロッパでは大理石の聖人彫刻が主流である。フィレンツェのすぐ隣シエナでは陶器の聖人像もあるが…。

 

 それにしてもこのブルターニュの聖人彩色木彫は面白い。

 まるで子供に見せる人形劇にでも出てきそうな、マリオネットとして今にも動き出しそうな温かみがある。

 街並みの家の柱にそのままノミを入れたようでもある。

 

 この博物館にあまの氏が言う大きな寝台(リ・クロ)が展示されていた。

 栗の木であろうか?扉とベンチの付いたずっしりといかにも重そうな大きな寝台(り・クロ)Lit-closが箪笥Armoireや揺りかごBercerまでが一体となったものにどっしりとした彫刻が施されている。

 

木彫家具

 

寝台,箪笥が一体となったリ・クロ

 

 展示室にはそのような木彫家具が所狭しと展示されていた。

 そんな中に囲まれていると、ゴーギャンがたくさんの木彫を彫ったのが当然のなりゆきであったかのように思われてくる。

 

 カンペールからコンカルノーそれにコンカルノーからポンタヴァンはバスである。

 コンカルノー行きのバスは駅前つまりホテルの真ん前をお昼の少し前に出発する。

 だから今日も昼食はバスの中でサンドイッチを食べる事にした。

 

 コンカルノーは城壁に囲まれた町が港の中に突き出た島になっていて橋ひとつで繋がっている。
 でもその島の中はみやげ物屋、売り絵画廊、レストランなどと観光的な色彩ばかりが目立ってあまりたいしたこともなかった。

 直径20センチほどもある大きなクッキーを焼いている専門店があったので一枚買ってみた。

 どうもこの島の名物らしくて「ビスコット」というらしい。

     

コンカルノー

ハロウィンの飾り

コンカルノーのビスコット屋

 次のポンタヴァン行きのバスには時間が余ったのでカフェのテラスでシードルを飲むことにした。

 気温は低いのだが天気が良いので陽の当るところでは陽射しが強くて気持ちが良い。

 ブルターニュ名物のシードルはアルコール分5%くらいと低いので僕にはちょうどよい。

 このコンカルノーでゴーギャンは船乗りと喧嘩をして怪我を負っている。

 ゴーギャンはシードルでは済まなかったのだろう。

 ここでもアルコール分70%のアブサンを引っ掛けていたのかも知れない。

 

 コンカルノーのバス停のうしろには椿の生垣があって蕾をたくさん付けていた。

 ゴーギャンをはじめポンタヴァン派の画家たちはたくさんの木版画を残している。

 浮世絵の影響なのだろうが、こうして観てくると昔からブルターニュでは木に細工をするというのは日常に行われてきたのが分る。

 版木には何の木を使っていたのだろう。棟方志功は「版木には椿が最も良い」と言っていたのを思い出していた。

 

 20歳くらいの女性がバスが行ってしまったのではないか?とあせりまくっている。

 僕たちは時刻表の5分前からバス停に座っていたが、そう言えば時刻はもう過ぎている。

 やがて5分遅れでバスはやってきた。バスの本数が少ないのでひとつ逃しても大変なのだ。

 でも乗客の殆どはその女性も含めてすぐに降りてしまってポンタヴァンまで乗っていたのは僕たちともう一人の3人だけだった。

 30分ほどバスに揺られていよいよポンタヴァンに到着した。

 僕たちを降ろしたバスはさらにカンペルレまで行く。

 ここでもバスを降りてすぐの広場に面したところにあったホテルに迷うことなく決めた。

 隣に美術館の看板が見える。リュックを置いてさっそくポンタヴァン美術館に出向いた。

 

ポンタヴァン美術館

 ここでは文字通りポンタヴァン派の展示が中心である。

 この時代のゴーギャンの作品が少しと、その他のポンタヴァン派の画家たちの作品がたくさん展示されていた。

 それとその当時の写真が展示されていて興味深いものであった。

 ゴーギャンや人の良さそうなベルナールは以前から少しは写真を見ていたがセリジェは初めてであった。

 髭面でいつも笑っていて絵からは想像ができない容貌である。

 恐らくゴーギャンが居ない時はこのセリジェがリーダー的だったのかも知れない。

 でもやはりゴーギャンがいなかったらポンタヴァン派という動きは出来なかったのだろう。

 

 美術館はポンタヴァン派の常設展示場と特別企画展示場になっていて企画展でもポンタヴァン派の画家たちの個展を定期的に催しているようであった。

 その日はポンタヴァン派よりは少し後の時代だが、ポンタヴァンゆかりのシャヴィエー・ジョッソXavier Josso(1894-1983)という画家の個展が催されていた。

 水彩と主に木版画の展示でモティーフとしてはブルターニュの風景には違いないのだけれど、木版の細かい彫り方や構図の取り方などまるで東海道五十三次の広重の様であった。

 

 夕方ホテルに戻ると「もしここで夕食を考えているのなら席を予約をしておいたほうが良いですよ」とのことだったので予約をしておいた。

 とても寒くなっていたしこれ以上歩き回るより…

 それになによりキッチンからは食欲をそそるとても良い匂いが漂ってきていた。

 7時半の開店を待ちかねて部屋を出た。

 ホテルの受付のマダムもウエイトレスに変身して、他の2人のボーイと共に大忙しである。

 すぐにレストランは満席になった。ポンタヴァンの町の人たちが大勢このホテルのレストランに食事に来ているのだ。

 町にはたくさんレストランがあったがどれも皆夏場のリゾート客向けで今の時期は営業はしていない様子だったから、

 このレストランに集中したのかも知れないが、なによりも味が良いのだろう。

 良い匂いがしていたのでここでも牡蠣は止してブルターニュ料理にした。

 さすが早い内に満席になるだけのことはあって、素材も味も盛り付けも第一級であった。

メニューは

t.Soupe de Poisson(魚味のスープ-チーズとさいころパンが別盛になっていて極深椀で出てくる。ブルターニュ風)

u.Lieu Jaune(鱈のシードルソース和え)

v.Eglefin Au Chou(キャベツと鱈のクリームソース和え)

x.Baba Framboise(木苺と3種類のソースのカステラ)

y.Charlotte Fromage Blanc(クリームチーズのシャルロット)

         
         

 ホテルは広場に面した良い部屋であった。

 部屋にはそれぞれポンタヴァン派の画家たちの名前が付けられていて僕たちの部屋は「Henri Moret」となっていた。

 アンリ・モレもポンタヴァン派の中心的画家でいい絵をたくさん残しているが、まだ印象派のピサロあたりから抜け出せないでいるように僕には思えた。

 窓からはゴーギャンたちが泊まっていた『グロアネク夫人の下宿屋』の建物と、入り浸っておそらく飲んだくれていた『カフェ・デザールCafe des Art』が見える。

 広場の名前は今《ゴーギャン広場》と呼ばれていて、ゴーギャンの胸像が建てられている。

 今までは快晴続きだったのが夜から雨になった。

   

カフェ・デザールと下宿屋

ゴーギャン像とホテル

ポンタヴァン旅日記(下)へ続く。

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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