この程ゴッホの作品「白いボンネットの婦人」が競売に懸けられ 6,600 万円で広島のウッドワン美術館が競り落とした。というニュースの断片をポルトガルで興味深く聞いていた。オランダの田舎ブラバント地方の風景に思いを馳せながら…

  作品は中川一政が所有していた遺品の中に混ざっていたとのこと、ご遺族も中川一政もゴッホの本物とは知らなかったのだろうか?
  始めは参考価格をたったの1万円位と考えていた。という話であった。
  ゴッホ財団に問い合わせて本物だということが解った。とのこと。

  この絵は 1885 年にオランダ、ブラバント地方の田舎の村ヌエネンで描かれた「馬鈴薯を食べる人々」の為の一連の習作であろう。
  「パイプをくゆらせる農夫」「白いボンネットの婦人」「白いボンネットの娘」とそれぞれ沢山の習作を残している。
  「馬鈴薯を食べる人々」も一点だけではない。

  実はわたくしごとの話で恐縮だが僕が中学生の時にこの「白いボンネットの娘」を模写している。
  だから僕は最初その話題の「白いボンネットの婦人」も中川一政が若い頃に模写したものだろう。と直感的に思ったがその直感は見事に外れたという訳だ。
  中川一政の模写だとしても1万や2万では安すぎるが…

  ゴッホはヌエネンで 1884 年から 2 年間を過した。
  それまでハーグで子持ちで妊娠していた可哀想な娼婦シーンを助けようと献身的な気持から同棲するに及んだのだが、淋病に感染して入院、周りからはしだいに見放される様になり、シーンとの生活も破綻するに到りハーグを後にする。
  その後しばらくはドレンテ地方の田舎で泥炭地帯の風景やそこで働く人々を描いていたが、孤独に耐え切れずに、父の牧師館の転任先のヌエネンにやってきたのだ。

  ヌエネンは機織(はたおり)と農業で生計をたてる、何百年もの間生活習慣も方言もいっこうに変えようとしないような小さな村であった。
  村人の殆どはカトリック教徒であったから、父のプロテスタントは少数派である。
  そこに得体の知れない見るからに異様なしかも訳の判らないイーゼルやキャンバスを抱えて村の中を歩き回るゴッホが現われたものだから、村人の怪訝な気持は相当なものだったのだろう。
  血走った眼をしてキャンバスにきたない色をただ塗りたくって売れもしない絵を描いて働きもしないでぶらぶらしている、訳の解らないプロテスタント牧師の胡散臭い30歳にもなる息子である。
  それに加えてハーグでの娼婦シーンとの噂がヌエネンにも伝わってきていた。

  それでもゴッホはヌエネンの風景や農夫、機織をする人などを沢山描いた。

  牧師館の隣にはこの村では少数派のプロテスタントの母親と 5 人の未婚の姉妹が住んでいた。
  この村から一歩も出た事が無い姉妹の内の一人マルゴは恋に憧れていた。
  そしてゴッホに恋をした。当時 30 歳のゴッホより 9 歳年上の 39 歳であった。
 ゴッホは今まで幾つも恋をして全て破れてきたけれど、相手から恋焦がれるのは初めての経験であった。
 やがてゴッホからもマルゴを愛するようになっていった。
 二人は結婚を考えるようになったが、周りは全てが反対であった。
 とりわけマルゴの母親と姉妹たちの反対は激烈であった。
 マルゴには祖父が残してくれた少しの遺産があったのでそれでなんとか暮らせると思っていたが、その金目当てのゴッホと結婚をするのなら、母親は遺産は渡さない。と拒絶した。
 ゴッホは弟テオからの仕送りがあるのでそんなものはいらない。
 一緒にどこか別の土地で暮らそうと言ったが、マルゴにしてみればそれは出来ない。
 想い余ってマルゴはゴッホが野外で絵を描いている傍で服毒自殺を図る。

 そんな事件があってから父の教会に礼拝に訪れる村人はますます少なくなっていた。
 ゴッホは父の牧師館を出て行かざるをえない。
 運良く村の中に二部屋を貸してくれるところが見つかった。

 事件の後、ゴッホの父親も突然亡くなってしまう。

 そんななかで知り合ったのがデ・フロート一家であった。
 貧しい土間の一部屋しかない小屋に一家五人は住んでいた。
 畑で自分たちで収穫した馬鈴薯だけを常食とし、週に一度だけ一切れのベーコンが付いた。
 ゴッホは一枚につき僅かな金額 1 スーのモデル料を支払ってこの家族を描いた。
 「白いボンネットの婦人」はその時に描かれたうちの一枚であろう。

 事件の後完全に村八分にされていたゴッホをカトリックとかプロテスタントとかといった垣根を越えて友人として暖かく迎え入れてくれたこの極貧の家族、デ・フロート一家をゴッホは真の「聖家族」と感じていたにちがいない。

 部屋も永くは借りる事が出来なかった。
 そしてこのヌエネンの部屋を出て行かざるを得ない日の 12 日前から制作に取り掛かったのが、このデ・フロート一家を描いた「馬鈴薯を食べる人々」である。
 習作を重ね、試行錯誤の挙句最後の日にようやく「馬鈴薯を食べる人々」は完成した。
 その湯がいたじゃがいもの湯気が立ち昇る画面には、ほっこりとしたじゃがいもの「温かさ」「香り」までをも描くことに成功した。
 ゴッホはデューラーにもひけを取らない的確なデッサン力を身に付けたのだ。
 そしてこの極貧の「聖家族」によってミレーの「晩鐘」に匹敵する崇高な精神性をものにすることが出来たのだ。

 その「馬鈴薯を食べる人々」は弟テオの家の居間の暖炉の上に生涯飾られていた。
 今もアムステルダムのゴッホ美術館の特別いい場所に展示されている。

 印象派やジャポニズムの影響によって思いっきり明るく、太陽の光に満ち溢れたアルル時代やサン・レミ時代そしてオーヴェール時代のゴッホの作品は素晴らしいが、デューラーの的確なデッサン力やミレーの崇高な精神性を自分のものにしようとしていた、このヌエネン時代の集大成的作品「馬鈴薯を食べる人々」とその一連のゴッホ作品も僕は大好きである。

 もう一つ私事で恐縮だが、絵を気に入ってくれて、ポルトガルで貧しい生活を送っている僕を「応援してやろう」というお気持から沢山コレクションしてくれていたT氏は名画のコレクターでもあった。
 ルノアール、ピカソ、ブラック、ルオー、シャガール、ローランサン、ヴラマンク、ビュッフェ等のたくさんの名画とゴッホのヌエネン時代の「白いボンネットの婦人」もコレクションされていた。
 だから最初中川一政のコレクションという話を知る前は、その競売に懸けられようとしていたゴッホは、てっきりT氏のコレクションをご遺族が手放されたものだろうと思った。が絵の写真が出てきて、見てすぐに別の絵だと判った。
 T氏のそれは確かもっと正面を向いた「白いボンネットの婦人」であった。

 生前中川一政は本当にこの「白いボンネットの婦人」がゴッホの本物だとは知らなかったのであろうか?
 また中川一政はいつ頃、どのようにしてこの絵を入手したのであろうか?
 興味は尽きない。VIT

 

(この文は2003年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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