何がきっかけか…
夫との関係性に悩み、その根源が自分にあると気づいたことでした。
その後、セルフ・カウンセリング®をはじめ、カウンセリングの学びを深めます。
心の問題の原因の大半は、元の家族、特に親子関係に遡ります。
学ぶうち、私自身もご多分に漏れず、父・母との関係性が浮き彫りに。
自分の親は好きな人間ではないな…
クラスメイトにいたとしたなら、友達にならない人たちだろう。
そんな風に思える人たちでした。
父は介護時期を数年過ごし、2017年には亡くなりました。
そして、現在、2018年から要介護となった母の介護通いが続いています。
ある学びでは、毎年レポート提出が必須で、心に起きた出来事を振り返ります。
今回は、2019年に書いたレポートをここに掲載します。
介護で向き合う嫌いな母との時間
2018年夏、救急搬送された母は、熱中症による脱水から脳梗塞となり、家に戻れるまで約1年かかった。
後遺症の高次脳機能障害は、四肢麻痺などと違い他覚も自覚もしにくい。
一見ボケ気味な高齢者止まりだが、実際は記憶障害、遂行機能障害、視覚認知障害(視野欠損)が残った。
衣食住とほとんど自分でできるが、投薬管理など習慣にないことは一人でできない。
様々な介護サービスを使いながら、週末は姉弟と交代で泊まり・買い出しや見守りを続けている。
信号を見ていないなど交通事故の危険性から一人での外出を禁止するも、自分は大丈夫との過信から出かけてしまう。そして迷子で他人の世話になったり、転倒したりと次々問題が起き、交番から電話が来たりとその都度かけつける。
家族の中で私だけ常勤仕事がなく自由が利く分、母のあれこれの8割が私の仕事だ。
しかし、タイトルの通り私は母が嫌いだ。
小学生の時、生きた道徳教材のように扱おうと画策した担任によって、友人Aとその継母がクラスの晒し者にされた。
当時、Aは後から生まれた腹違いの妹ばかり可愛がる継母に反抗的になっていた。
それまで可愛がってもらっていた分寂しかったのだろう。
私はAの誤解を払拭すべく担任に促されるまま継母に質問を投げかけた。
後日、そのことで深く傷ついたとAの継母から母に電話があった。
その一連の出来事の中、母から放たれた一言で、母は自分の事しか考えていない人間だと知ることになった。
「あんたが恥ずかしいことすると親が笑われるんだよ」
Aが抱く継母への嫌疑を晴らすため、私が継母に聞いた問いを問題視していた。
「Aちゃんのこと差別してないですよね?」
ことの顛末を説明しようとすると「言い訳するな!」といつものように言われ…
私がなぜそう言ったのか母は聞く耳も持たなかった。
そして、言ったことを咎められるならまだしも、自分が恥ずかしい思いをしたことが何よりも問題だと言ったのだ。
こんな親いるのだろうか?
親は誰でも成れる。
それは資質の問題ではないからだ。
しかし、子にとって神のような存在である親が、とんでもない人間だと知った時のカルチャーショックは計り知れない。
こうして私は11才にして母親との心的決別、
いわば「子の親殺し※」を済ませてしまった。
私にとって反面教師でしかなくなった母は、年と共に変わったかというと、ガンを患っても大して変わることはなかった。
他者が好意で貸してくれたものを返すそぶりもなく、「好意なんだから貰っていいのよ」とか、資産を持っている友人に対して「お金の使い方知らないから(自分が)使ってやればいいのよ」などと言ってしまう。
私がこういう人のとこに生まれてきたのは、道徳観念や一般通念というものが幻に過ぎず、こういう人間でも存在してよいのだと、身をもって知るためなのではないかと思うことがある。
一般論を話しても話が通じないのでまともに相手にしなければよい。姉はそう言うが、一番接している私は何かにつけて決定事項を迫られることがある。
母本人の希望も重要だし意向を無視すると後々面倒なので、どうするか意見を聞こうとするが、いつものように違う話になり時間だけが過ぎて行く。
例えるなら、いちごとりんごどちらにするか?の問いに、●●で食べたいちごは本当に不味くて酷かった…などと延々文句を続けるのだ。
人は問いに対して主観を述べる傾向がある。
質問そのものに答えることなく、心に浮かんだあれこれを語ってしまうのだ。
その日は、全く話が進まずそのうち介護スタッフの悪口が始まったので「あなたのために試行錯誤してケアしている人に対して失礼過ぎる」と捨てゼリフを残し、怒り心頭のまま帰宅したのは午前様だった。
その後、母に用事があり電話すると「この間は悪かった。いつも色々やってくれて本当に感謝している」のような事を言った。
母は、謝ることができない人だ。
謝らない、感謝の言葉を述べない。
これは半世紀以上前から変わらない。
なのでこういう時、いかにもわざとらしい芝居がかった様子なのだ。
思わず背筋が寒くなった。
しかし、私は電話口でこんなことを言ってしまう。
「いや、私のほうこそあなたのこと(心情)を全然聞いてあげなくてごめんね」
自分で言っていて背筋が寒い。
そう思っていないわけではない。
母の心の声を聴くことはできるし共感らしいこともできる。
だが、<そんな心にも無いわざとらしい詫びなど要らない>というのが心のセリフだ。
ここまで記述して振り返ってみてわかった。
ああ、私はこの人に心底詫びて欲しかったのだな。
あの11才の出来事を
Aの継母に質問をした理由を言わせなかったことを
Aの継母を信じ自分の子を信じなかったことを
子どもより自分の面子が大事と言ったことを
20年程前、母にこの話をしたが全く覚えていなかった。
そういうものなのだろう。
では、翻って、私は母の心情を心の底から聞いてあげられる日は来るのだろうか?
母との本当の決別もそう遠くない。
次回に続く
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※「子の親殺し」についてわかりやすい解説を見つけました こちら
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