竹宮惠子氏のプロデューサーであった増山法恵氏が亡くなっていた…というニュースが流れた。
AEAJ認定教室 調布アロマシオンを主宰し、アロマテラピー研究室でも活動中の島田さつきです。
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アロマテラピー研究室は、故・髙山林太郎氏が創設しました。
髙山氏は、多くの書籍によってアロマテラピーを日本に広く紹介した日本アロマの火付け役でした。
ロバート・ティスランドの本、ジャン・バルネの本、アロマテラピー界のバイブル「アロマテラピー大全」を翻訳したのも髙山氏でした。アロマテラピー研究室では、髙山氏から後継人指名をされた林琳さんとともに、髙山氏の思いを引き継ぎ、髙山氏のアロマ遺産管理とアロマテラピー啓蒙活動をしております。
半年ほど前だったろうか…『一度きりの大泉の話』(萩尾望都著)をやっと読んだ。
私の漢字力や語彙力の80%は、マンガやアニメでできている。
一番古いアニメの記憶は、白黒画面の妖怪人間ベムだ。
オープニングがあまりに怖くて、毎回、テーブルの下に隠れていた。
一番初めにストーリー漫画を読んだのは、友人の家にあった別冊マーガレット(別マ)だったかと思う。
和田慎二氏の『銀色の髪の亜里沙』のカッコよさに衝撃を受け『金色の髪の亜里沙』なるマンガを描いた。
(まんまパクリやんけ…)
小学校2、3年生の時だったと思う。
3学年上の姉がいたせいで、マンガは家にあって、週間マーガレット(週マ)で西谷 祥子やらを知り、
ベルバラやエースをねらえなど、世間のヒット作品はずっと読んでいたと思う。
本屋で好きなものを買って良いと言われたとき、なぜか目当てのものが無くて、
初めて自分のマンガとして手に入れたのは、わたなべまさこ著『怪奇ロマン傑作選』だった。
怖くていつもお守りを首から下げているような子どもたったのに、その後、買った単行本も、
真光(まひかり)の手かざしを劇画にした怪奇ロマンものだったり…
伯母の家にあった怪奇モノのマンガをわざわざ読んだりして…今思い返せば随分と変な子だった。
姉が週マを買う一方で、私は『別冊少女コミック』を買い、そのうち姉と手分けしながら、『りぼん』『花とゆめ』『LaLa』『プチフラワー』サンリオが出版した『リリカ』そして『マンガ少年』あたりまで手を出していた。
小学生の頃は、友人と祖師谷、成城、時には二子玉まで足を延ばし古本屋巡りをし、おこずかいはほぼマンガで消えていた。
私はちびまる子と同い年だ。当時の子どもたちはマンガやアニメに育てられ、大いに影響を受けた時代だ。
当時、新たな風を呼んでいたのは24年組と呼ばれた、昭和24年生まれ前後の女性漫画家たちだった。
萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子、樹村みのり、ささやななえ…
好きな漫画家を書くとき、彼女らの名を何度となく記した。
70年代、時は美少年モノの走りだったせいだろうか…
坂東玉三郎をモチーフに描かれた『玉三郎 恋の狂騒曲』の単行本も買った。
『摩利と新吾』も楽しみにしていたし、その後、高校生になると『JUNE』にハマることになる。
美少年モノと言えば竹宮恵子氏である。
彼女の第一期全集も全てそろえたがなぜか『風と木の詩』の最終回まで見た覚えがない。
萩尾望都全集も、竹宮全集とともに今でもロフトにある。
小2くらいで『銀色の髪の亜里沙』のパクリを描いて以来、友人とノート交換でマンガを描いたり、中学の時には、新たにマンガとアニメを扱う同人誌を作ったりして、宇宙戦艦ヤマトのパロディとか、表紙にルパン三世の初めての劇場アニメチラシをトレースし描いたり、初期のコミケに出展したりもした。
そのうち、御多分に洩れず、年とともにフェイドアウトしてしまうのだが…
自分のマンガ史を思う時、あらすじを忘れていても萩尾望都氏の独特な世界観はずっと残っている。
コマわりの中の彼女だけの作品が持つ空気感というのに、酔っぱらってしまうことがある。
現代世界に戻れなくなるような感じだ。なので、できる限りそこにはどっぷりと浸からないようなとこもあった。
現実生活できなくなるからだ。こういうのは私だけなのかもしれないけれど…
その萩尾氏が書いた『一度きりの大泉の話』は、やはり読んでおこうと思ったのだ。
この本は、24年組と呼ばれた漫画家たちがたくさん登場する。
内容には詳しく触れないが、萩尾氏が漫画家になったきっかけや、
上京して大泉に住んで24年組と言われる人たちと、どのように関わってきたのか、
そして、この本を書くに至った竹宮氏との決別についても描かれている。
また、6/30に亡くなった竹宮氏のプロデューサーであった増山氏とのことももちろん描かれている。
彼女らのファンであったなら、萩尾氏と竹宮氏がものすごく仲が良かったこと。
そして、その後、互いに絶対に触れることがないほど仲たがいをしたこと。
そして、本人たちが口を割らなければ絶対に知られない真実があること、だけは知っていただろう。
その真実を墓場まで持って行けなかったのは、竹宮氏だった。
『少年の名はジルベール』という自伝本で、大泉サロンでのことを描いてしまったからだ。
そして、これがきっかけでマスコミが大泉サロン時代のドラマ化だの両氏の会談だのを画策することになり、執拗に来るマスコミをきっぱりと断るため萩尾氏が書いたのが『一度きりの大泉の話』である。
『少年の名はジルベール』を私は読んでいない。
『一度きりの大泉の話』の中では、もちろん竹宮氏や増山氏の話題は出てくる。
萩尾氏が自分の気持ちを書いているのだから、どれだけご本人にとって辛い出来事であったかはわかる。
しかし、この本の竹宮氏とのくだりを読んだ時、私は思った。
竹宮氏はこの長い間、ずっと胸の奥深くにある鉛の塊に苛まれていたのだろうと。
もう、老年期に足を突っ込んでいる竹宮氏にとって、このまま何もせずに終われないと思ったのだろう。
自分の一生をふり返る時、その鉛を抱えたままを選択できなかったのだ。
それほどに人生の闇であったのだろうと…
そして、この経験をともにした増山法恵氏が亡くなってしまった。
それは、竹宮氏によって公にされた。
萩尾氏と竹宮氏の間の“できごと” は、公を巻き込み未だに終わらずにいる。
そのどちらも書籍で残ってしまったから、ともいえる。
一人、先に終わらせたのは、増山氏だ。
私の勝手な想像だが、両氏の間に立てた唯一の人物は増山氏だったと思う。
萩尾氏は全てを遮断することで、おそらくこのことに区切りをつけられるだろう。
しかし、できごとをずっと見て、また、そのさなかにいた増山氏を失くした竹宮氏はどうだろうか?
私は、竹宮氏の暗がりがあまりに黒すぎて、光の射さないブラックホールのように思えてならない。
萩尾氏が抱えた当時の当惑や、竹宮氏の言動が理解できない苦しみとは明らかに違う。
ただ、この闇は両氏のわだかまりが解けることで解決するようなことではなく、
個々に、そのこととどう向き合うかでしか、成し得ないことなのだとも思う。
これが『一度きりの大泉の話』を読了し、増山氏の訃報を聞いて思ったこと。
増山氏の死については突然であり、色々と持病を抱えていらしたらしいのだが、最近は調子が良くと書かれており、
気になるのは、ワクチン接種1回目は済ませていたらしいということ。。。
私としては、それが…って思ってしまうけれども。
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