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薫風のブログ

京都のアロマテラピースクールAivan ライブラ京都校を開いております。aroma以外のいろいろな事も考えて引き出しを増やしていこうと思っております。

最近、この国は本当に出る杭を打つ!と腹が立って仕方がない。
アフターコロナなどと騒ぐ前に、生徒のための教育の本質を考えて、自分自身をアップデートしろと言いたい。
今、高校生の茶髪の問題がよく言われています。
私は、ずっと国立の附属学校で教育を受けてきて、昭和30年代前後では、京都では制服を着たことがない。そして、私の育った学校は、自由奔放で、何かをしでかせば、仕方ないな!といつも担任の教師が上司の教育主任や教頭から私たちを理解と信頼で庇ってくれたことをおぼえている。今の人生の半分はそんな教育による互いの信頼で、バカのようにのびのびそだち、今があること、そんな戦後を生きてきている。

何しろ、信じられないくらい出来の良い仲間ばかりでバカ組は正真正銘の劣等生の私を含めて少数だった。
恵まれた教育に涙が出るほど感謝しています。

よく、いまだに、脇が甘いと友人に諭されたり、人に上手く使われている、私のせいにされるからやめとけ、などとよく忠告を頂くが、それはありがたいが、別に構わない。私如きを利用するほどの価値はないし、私などたいした知識があるわけもなく見掛け倒し。

先に言ったように劣等生は人生でもやはり同じ(笑)
まあ、それでも利用いただけるなら価値があるだけありがたい。使い捨てられれば、またその時は、より上質な人生が歩めるように、前を向いて次の挑戦をすれば良い、私もアップデートするだけだ。


話を戻します、
信頼関係のない、物事を一つの規範に当てはめて、それを根拠に意味のない条件をつける。それが茶髪や制服の条件なのだろう。
しかし、茶髪が教育のどこに影響するのか?

茶髪や下着の色が何と関係するのか?なぜ悪い?

勉強にもっと集中しろと言うなら、生徒とそこを議論する教育をしないと、それこそが学びだと思う。

抑圧の元で効率的な学びができるとでも思っているのか?自分のこととして考えてみればわかる。


それに、今の著名な売れっ子教授は、男女問わずファショナブル!でも、皆さん鋭い多義な議論をされているではないか。
東大、京大、早慶、同立、どこの大学を見ても画一的な教授ばかりではない。
最近は、会社社長も然りだ。
中高だって、そんなファショナブルな教師がいたらカッコ良いではありませんか!
私なら嬉しい。すぐにその教科が好きになるかもしれない。
コンサバでも、リベラルでも、個性は素敵です!
ギスギスして忖度するような風潮は今の日本の行政だけで懲り懲りなのです。
それにしても、なぜ生徒の自主性を考えないのだろうか?
なぜならそういう事は、生徒会で皆で決めれば良いのではないのか。
同級生で、縁あってまた今も一緒に仕事をしてるが、田代教授は、文武両道だったし、生徒会長だったし、中学時代にはすでにマルクス主義に傾倒していて、いつも教師にああ言えばこう言う、で口答えして食ってかかっていたのを覚えています。

脳みその違いに呆れ果てたことを覚えている。

おかげで、私は勉強はあきらめてそこそこの好きな学びに切り替えた(笑)。

自分の能力を早く知り、切り替えることも、とても大事だと彼には感謝している。

今の若者に未来を託さなければ我が国はいくらでも滅びていきます。今ですら、もう世界のガラパゴス(ガラパゴスに失礼ですいません)です、先進国は高校まで義務教育化してると言うのに。
なぜ学校が強権をもって物事を指図するのか。

それこそ、NHKの大河ドラマをぼーっと観てるんじゃねぇ! 他人事じゃなく学びなさいよ!
私はまったく観ないのですが、おそらく間違ってないと思う。
Z世代の若者を見ていても優れているし、自主性を持っているのに、なぜ自主性を育むことの大事さを教育のトップたちは気づかないのか!自分たちをこそアップデートしろと言いたい。
なぜ意味もなく規則を作ることにおいて人権侵害を犯すようなことに疑問ももたず、多様性を育めと言いながら、まさに芽を積むように、権限だけで、いちいち条件などをつけるのか。
信頼を育もうとする気持ちのかけらも見当たらないその行為は、我が国が進学のための偏差値受験教育はするが、本来の人間教育が出来る優れた教師の評価が低いことに起因するのではないか?
偏差値教育をするならどうせ人権侵害のついでに人間性の偏差値でもつければいかがか?
もちろん生徒にではなく、このような制度の中で出世していく教師の方の偏差値であるが。

1つのカテゴリに当てはめようとするそういう考え方に対して、言ってる教師側に疑問を出なければならない。

将来を担う生徒たちへの説明責任があるのだ。
多様性、多元性、多義性が必要な時代に、多面的な教育を!と言うことを言いながら、実はそこに単一的な偏見と事なかれ主義の姑息なバイアスがかかっているような気がする。

私自身は制服は大嫌いだし、茶髪に興味はないが、茶髪の何が悪いのか?
まったく、校則ぐらい生徒に決めさせる度量がないのか!
東京と京都の2ヶ所にあるフランスが設立したフランス教育省のフレンチスクールで、高校(リセ)もある。

教師たちは見学してきたらどうだ!賑やかで自由奔放だ。
もちろん、長所と欠点はある。
そこから学ぶべきものはあるだろう。
天と地の差を学べ!

このところ、世間を騒がせている意識の差異、いや、文化へのリテラシーの問題だと感じる。
私はあまり分類とか属性は考えないようにしています。
なぜなら、それは偏見に繋がるから。
たとえば、一番多いのは、あの人は常識がない!と言う原因に帰結させるもの。
それってご自分の立場を正当化したいだけでしょ? といつも思う

ともかく、人間は必ず、原因と結果を求める。
まぁ、この内容も、私は天に唾吐いている、lのは覚悟の上。

結果や原因が求められないとどんどん一般化した属性に帰結しようとする。
そして、自分の立つ位置をメジャーで強い立場として、対象者を異なるマイナーな属性に原因や結果を置いて糾弾しようと試みる。

今回の話も、わかりやすく?男女に二分した話だが、今どきLGBTQの時代にこれもおかしい。
言ってみれば、そのようなLGBTQというカテゴリーわけすら偏見を生むだけで 日常でいちいちそんな属性の必要のない社会になれば差別は通用しなくなる。

昔は、片親だと就職に支障があったり、国籍で判断されたりしたが、
今の時代、差し詰めGAFAMレベルの企業なら国籍すら属性にしていては面倒極まりない、それに差別の対象になりそう。

そんな時代に、婚姻、夫婦同姓や家督、権利、あまりにも明治、大正、昭和な属性意識なことだ。

コロナ禍で、大きな変革の流れにサーフィンと洒落込んでいる人間と、なんとか踏みとどまらないと溺れてしまう恐怖を抱きながら流れに恨みつらみをいいながら、過去の実績やそのヒエラルキーを印籠の如くかざしてるのはみぐるしい。

弱気を助けるために手段としての印籠も、実は黄門様は本来はリベラルで謙虚な方で、コンサバな相手には属性が通用するから逆利用されてたと言う解釈はいかがかと。

SDGsな化粧品をクレイを通して、仲間と開発していきたい。

そう思いながら、色々な行動を、コロナ禍で始めています。

 

しかし、SDGsを学んでいくと、それには、持続可能なソーシャルイノベーションが不可欠です。

そこで、来月初めからZoomを使って、Clubhouse でも面白そうですがこちらはアーカイブが残らないですね。

ともかく、私なりに学び考えたことの勉強会をやろうと思います。

ぜひ、ご興味のある方はご参加ください。

しかし、SDGs <Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)>

私なりの目の位置で、ビーガン化粧品とか、敏感な米国の巨大世界の化粧品メーカーや欧州のアロマやナチュラル化粧品とか、

そんな消費者目線での世界の動向などの話題を取り入れて会話をしていこうと思います。

しかし、その前に、結構基礎的な環境問題や社会学的な哲学思想が大事ですね。

なぜなら、SDGsには資本主義経済の方向が変わらない限りなす術がありませんから。

なぜ? それがおそらくZoomでの会話の第一回目なのではと考えます。

それは、大きく構えると、なによりも官民一体の信頼関係だと考えます。

面白くないかな?

でも、互いにお話をすればそんなことはぜったいにありません。

 

そんなことを考えている最中、

政府は緊急事態宣言を出し、そしてそれを主要都市では一ヵ月延長することとなりました。

それは、亡くなられた死者の方々の人数を考えますと専門家の方の意向に従わなければならないかと思います。

しかし、その宣言をした政府は国民のケアを第一に考えて、生活のケアをすることを第一に考える必要があると思います。

日本の未来を背負う若者の教育の問題、家族の生活の補償、感染者、そして、エッセンシャルワーカーのケアなど、多くの課題が山積しています。

その具体的な対応措置の全てを説明して、国民を安心させる必要が第一にあります。協力を取り付けることが必要で、権力はそれがなければ有効ではないことは極端と思われるかもしれませんがアサド政権などの悲惨さを考えれば明白です。

しかし、先進国という鈍感さによって、それをずっと政府は怠って、あろう事か、先に罰則規定を設けて、刑罰で押さえ込もうとしています。

それが実刑であろうがなかろうが、ケアをすることを怠って国民の背中に汚点を増やそうとする事が良策とは思えません。

 

安倍内閣、菅内閣、ともに、政府は国家権力、パワーに対して本当に鈍感であると思います。

もちろん、パワーに対してセンシティブで反対を繰り返すことが良いこととは思いませんが、それにしてもこのSNSの時代にもう少しパワーというものに対してデリケートであるべきだと思います。

でないと、国民は意味なく理不尽な抑圧をされたと思うだけで、自律性、相互理解を伴う創造性のある協力を国民から得ることはできないと思います。

人間には、行動の結果に単純ではないにしても必ず原因があります。

罰を加える前に、丁寧にその原因を解き明かさなければコロナ禍の問題は解決しません。やみくもに罰を与えるほど国民性は低下しているとは思えません。

実のところは、悲しいかな、このところの政府の方が正しい日本語で、きめの細かい説明責任が成し遂げれるとは思えませんが。

協力は強制力より手間はかかりますが、生産性の大きさは明らかに協力の方が大きくて、そのコストは明らかに安く上がります。

東京オリンピックにおいても、コロナに克つとか、何が何でも国家の威信をかけて開催することが証明することなのだ!というような、観念的な発言や、女性が弊害をもたらしているような時代錯誤のステレオタイプな女性蔑視の差別発言はもうお辞め願いたい。

この観念論のレベル意識で、持続可能な開発目標は誰もが納得できる価値観として、資本主義経済におけるロジカルなSDGsへの行動ができるとはとても思えない。