属性を考える | 薫風のブログ

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京都のアロマテラピースクールAivan ライブラ京都校を開いております。aroma以外のいろいろな事も考えて引き出しを増やしていこうと思っております。

このところ、世間を騒がせている意識の差異、いや、文化へのリテラシーの問題だと感じる。
私はあまり分類とか属性は考えないようにしています。
なぜなら、それは偏見に繋がるから。
たとえば、一番多いのは、あの人は常識がない!と言う原因に帰結させるもの。
それってご自分の立場を正当化したいだけでしょ? といつも思う

ともかく、人間は必ず、原因と結果を求める。
まぁ、この内容も、私は天に唾吐いている、lのは覚悟の上。

結果や原因が求められないとどんどん一般化した属性に帰結しようとする。
そして、自分の立つ位置をメジャーで強い立場として、対象者を異なるマイナーな属性に原因や結果を置いて糾弾しようと試みる。

今回の話も、わかりやすく?男女に二分した話だが、今どきLGBTQの時代にこれもおかしい。
言ってみれば、そのようなLGBTQというカテゴリーわけすら偏見を生むだけで 日常でいちいちそんな属性の必要のない社会になれば差別は通用しなくなる。

昔は、片親だと就職に支障があったり、国籍で判断されたりしたが、
今の時代、差し詰めGAFAMレベルの企業なら国籍すら属性にしていては面倒極まりない、それに差別の対象になりそう。

そんな時代に、婚姻、夫婦同姓や家督、権利、あまりにも明治、大正、昭和な属性意識なことだ。

コロナ禍で、大きな変革の流れにサーフィンと洒落込んでいる人間と、なんとか踏みとどまらないと溺れてしまう恐怖を抱きながら流れに恨みつらみをいいながら、過去の実績やそのヒエラルキーを印籠の如くかざしてるのはみぐるしい。

弱気を助けるために手段としての印籠も、実は黄門様は本来はリベラルで謙虚な方で、コンサバな相手には属性が通用するから逆利用されてたと言う解釈はいかがかと。