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薫風のブログ

京都のアロマテラピースクールAivan ライブラ京都校を開いております。aroma以外のいろいろな事も考えて引き出しを増やしていこうと思っております。

あけましておめでとうございます。

画像に含まれている可能性があるもの:花、植物

昨年は歴史を大きく動かす要因となったCOVID-19 の感染症によるパンデミィックと言う未曾有の体験の年を受けて、そしてそのまま、まだ始まりにしか過ぎなかったことを思い知る新年を迎えることになりました。

 

”思いやる文化”が根底にある輝かしい伝統は時に弱点となり国民に大きな負担を意味もなく強いることになる場合があります。

よく言われるサンクコストです。

今まで積み上げてきたものを時代の状況から諦めないとより無駄が膨らむとわかりながらも、このような超のつく大変革の時にでもまだ手放せないという状況のことです。

現に、大変残念なことだし、選ばれた選手たちにとっては気の毒なことですが(特にパラリンピックの選手の方々には応援する側もいたたまれない辛さです)延期になったオリンピックを何がなんでもやろうという現状を見ていて他に尽力を注がなければならないことが日本ばかりでなく世界的にある、特にアフリカや南米など貧しい国の援助も必要だろうと。

事実を正面から見ずに事実の解釈を変えてサンクコストと理解しようとしないことが往々にして起こります。

 

おうおうにして当事者たちのみで解決を図ろうとするからです。

新聞社や出版社が社内の当事者たちでいくら会議をしたとしても、それは部数がいくら減少しても現状の継続の考え方しかでないこととは明白で、それと類似しています。

そして、組織の長は責任を取らなくて良いというお上的体質の欠点、すなわちフランス革命のような民衆が積み上げてきた組織ではない責任の擦り合いの欠点が露呈します。

そして、経済成長以外に豊かさとは何か?どうすればいいのか?が創造することができない日本人の貧弱な商人精神がGO TOを皮切りに露呈してきました。

 

"資本主義という企業活動による大量消費を促進するメカニズム" の終焉が否応なく到来する時がやって来ているのにです。

経済と資本主義の両輪によって我々の近代社会が成り立ってきたのは確かです。

それは経済が良くなれば、きっと我々にも幸福の時代が来るのだ!と、より良き明日を信じて頑張って来たわけです。

しかし今やものが溢れ出し、経済が飽和になっても果たして期待したほどの幸福が来ないことに気がつきました。

経済の豊かさが、すなわち自己の幸福とつながることではないと言うこと。

そしてAIなどのテクノロジーによるイノベーションがそれを克服してくれるにちがいないという幻想も、やはり今回のパンデミィックにより富めるものをより富めるだけであって片手落ちであることを証明しました。

それは、現代のAIテクノロジーによるコンピューターとインターネットの時代の資本主義そのもののが従来の資本主義と様変わりしているからではないでしょうか。

 

今までの物質の有形資産による資本主義から、未来の可能性による創造資産による資本主義、無形の資本が会社の価値を決める資本主義なってきているからだと思います。そういう未来型の創造能力をもつ企業がトップに君臨する方向に加速しています。

現に、GAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)は全てそう言うコンセプトのコングロマリットで、この5社だけで日本の株式の総資産を上回ってアメリカ帝国主義を築いています。

例えば、テスラがトヨタを上回る企業として有形資本を凌駕するそういう未来の可能性が株価に反映しているわけです。

 

我々は今後ますますそのような未来型の創造付加価値の社会の中で生活をしていくことになります。

その上、SDGsやESGなどの環境に配したグリーンリカバイリーに企業が力をますます入れていかなければ企業はポンコツとみなされることになります。

しかし、そのようなGAFAMですが、何をもたらしたかと言うと、これらの全てデジタル企業はそれほど下請けを必要としないと言うことです。

それはトリクルダウン(trickle down)(「富裕者がさらに富裕になると、経済活動が活発化することで低所得の貧困者にも富が浸透し、利益が再分配される」証券用語解説集より)の配分のない総取りになってしまうわけです。しかし、ケインズが希有したように、ハイエクの言うこの考えは脆くも崩れました。

なぜなら、たとえば、コロナ禍でのテレワークの時代には通勤手段である交通機関も会社の近くのレストランも必要がありません。もちろん会社のテナントも小さくなりますから家主さんも困ります。会社のガレージも必要なく、それにまつわる雇用もなくなるわけです。

これらの企業周辺には門前市場のような大々的な雇用を生む食堂やファッション街などのテナントが生まれないと言うことです。いわゆる現代のインターネットなどによるデジタルテクノロジーは企業側の独占となって、消費社会が周りに生まれてこないのです。この輪の中には入れない労働機会がない部外労働者は単なる消費者でしかなくなってしまうのです。

こうなってくると非常に社会は持てるものと持たざる者に別れてしまい不安定になります。

それをどのようにしていくかと言う課題が残ります。

 

今、経済と幸福は全く関連がなく、経済成長は望めない時代が来てしまったわけです。

いわゆる経済成長はないと言う事は豊かなになれば幸せになれると言う保証が資本主義経済にはないと言うことが明白になったのです。

基本条件としては今日より良い明日があったと言うことが基本条件で我々働いてきたわけですが、我々はそういう時代でなければ幸せになれないのだ。と言う心に余裕のない、拠り所のない貧しさがあるのです。

しかし現実は先ほど述べたように経済は幸福とはリンクしていないわけですから、そうなってきたいま、現場で、我々はどのようにすればよいかをクレイセラピーやアロマセラピーの仲間とともに解決していけると思います。

まずは、こう言う状況であることを理解していかねばならないと言うことです。

次に、解決の手法は女性にあることを次にお話ししていきたいと思います。

なぜなら、パンデミックの後には必ず女性の地位が著しく向上してきたことを歴史が証明していますから。​​​​​​

「ネオテニー(子供のままでいること)のもたらす人間文化の可能性」として、 その素晴らしさは、先日述べたように”遊び”の要素が非常に重要であることがわかります。

そうして”遊び”の平和主義、共有の特性を活かして考えることはたいへん多いのです。

たとえば、私が関わるセラピーにも奉仕精神の豊かな方々が多数おられます。

人間は、基本的に奉仕精神の溢れた利他主義(ALTRUISM)なものだと思っていました。

しかし、パンデミックを経験して愚かさの露呈を垣間見てしまいました。

人間というのは哀れで身勝手な利己主義者(EGOIST)だと。

エシカル(ethical 道徳的)、サスティナブル(sustainable 持続可能な)、エコ(自然保護、循環型経済、となんと素敵で素晴らしい言葉のように思えますが、よく考えてみると利他主義などと決して言えない。

自然環境への配慮をする正しい適切なエシカルの上に立って、人間の経済活動をサスティナブルにしましょう。なんか、やはりカタカナ言葉には惑わされる。

結局、企業活動や商業活動、消費活動を実現できるエコ社会を世界中で作っていきましょう!ということ?

たしかに、私は昔からこれらの言葉を目にすると何かむず痒くて馴染めないものを感じてきました。まだ使えるのに今まであったものを捨てて見た目にはっきりと自然素材とわかるような天然木に机や椅子を変える商業施設を目の当たりに見て違和感を拭えなかった。

最近のコロナウイルスと環境破壊の関連について考えているうちに、

そうなんだ人間自体がそもそも利己主義だからだと思うようになった。

私は、人間の中にある、仏教的な概念である自利利他を考えていました。

しかし、そうではなくて、人間そのものが自利なんだと。

何故なら、エシカルとか、サスティナブルって、人間本意な考え方でしかない。

自然に何も無償(利他)で与えるわけではなく、人間本位の都合で持続可能な地球を維持したいから地球や自然から略奪していることには変わりはないのだから。

白々しくもエシカルだのサスティナブルだのと環境破壊を唱える(もちろん私自身も自戒をこめて)が、これって全て人間中心の、人間の都合の良い考え方でしかないのではないか。

自然に何か返礼をしただろうか?

感謝の心で無償の感謝をしているだろうか?

エコと言いながら程よく利用しているだけではないだろうか?

グローバリズムのせいでGNPや効率性という指標がネックとなって、マスクのひとつですら緊急時に国民に行き渡らない、このように、自国で非常事態にマスクすら作れない健康より危機管理より効率を重んじる多くの先進国を見てきたはずだ。

 

環境だ、エコだ、循環型の経済を、と口では言いながら、リニアモーターカーなど我が地震大国の地下の深い深いところまで掘削している。地球の表皮(地表)ってそんなに厚かったでしょうかね?

生物に優しいだけでなく、より基本的な地球に優しいということもかなり怪しい話ではないでしょうか?

人類はおそらく”欲望を消耗する”動物なのでしょう。

リニアの次は宇宙エレベーターだというようにより早くて便利なものを望んで、なお限りがないのですから。

このパンデミックにあたって、感染への恐怖、経済への懸念、ナショナリズム、迫害や虐待、

そして、難民の人々への援助の無力さを国連UNHCRの四条烏丸での活動スタッフの方とお話をしながら思った。

※The office of the United Nations High Commissioner for Refugees 国連難民高等弁務官事務所 の略

ユニクロは、アジアで初めてのグローバルパートナーシップをとおして、世界のユニクロショップで難民雇用や資金援助をしている。

世界には至る所に良質のクレイがあります。

世界のクレイセラピストたちと手を結んで環境を守りながら、ぜひそんなふうに難民の方々や、豊かな自然の中のアフリカや南米などとも繋がれればいいと思う。

私が京都に生まれ、そしてこの厄介で高度な人間関係を愛する町が好きな理由として”遊び”というものがあります。

私はこのことがわからないと、ただひねくれて見えるだけでこの町を好きにはなれないと思います。

・・実はひねくれてません、高度な思いやりのある人間関係なのです(笑)。

(このひねくれて見えるところが全く同じ街がパリで、私が楽しめる理由です)

このような”遊び”の織りなす歴史の風土が日本のノーベル賞の大半と関わりを持つ京都大学のとんでもない校風や市民の気質にも現れています。

 

平安時代末期に後白河法皇が編さんされた有名な梁塵秘抄に

『遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生(むま)れけん

   遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ』

という有名な今様(流行歌の意)があります。

 

ところで、なぜ”遊び”が重要なのでしょうか?

それは、”遊び”は身体を鍛えるばかりでなく、脳も鍛えることがわかってきたからです。

カリフォルニア大学精神科准教授のスチュアート・ブラウン医師によると、遊びは、他者を支配するのではなくフラットな関係を周りに広め伝染していきます。

そして”遊び”は共感をもたらし、前頭葉を発達させ、思いやりと平和主義を学ぶ。ということがわかってきたそうです。

そして、彼によると、凶暴な犯罪者は幼児の時に”遊び”が少なく、人に対して共感ができず思いやりがなく暴力的衝動を抑えられない。という傾向が強いと分析しています。

”遊び”の体験があると社会的敗北があっても、困難を乗り越える対応力(レジリエンスresilience)ができるという。そして、逆に”遊び”の経験が少ないと社会的敗北から立ち直りにくいことがわかった。

”遊び”は、人格形成に必要で、人に楽観的な気持ちを持たせ、達成感を体験できる。そして、自主性を学び、それによって自己認識力をもつことができる様になる。それは創造性を育むことになり他者との共有感をも育てる。と言える。

 

スチャート医師によると、”遊び”は危険なほど、気持ちやリスクのコントロールすることができる。上記で書いた様に重複するが、創造性、自主性、自己認識を学び、人へのいたわり、、困難への対応、独創性、単独生、共同性、社会性を学べるという。

 

”遊び”の5つの特徴(米スチャート・ブラウン精神科医)

1明確な理由がない。

2何度も繰り返す

3大袈裟な動作

4自然発生的

5ストレスのない状態で行われる

 

動物は”遊び”を他の動物にボディランゲージにより誘う。

例えば、愛犬は、前足で軽く人を叩いたり掻いたりして飼い主を”遊び”へ誘う。

そして”遊び”は、時には意外な動物をも誘う。

 

人間も他の哺乳類と同じ脳組織を持っているので、あらゆる哺乳類などと遊ぶことができます。

 

この”遊び”という幼児性がどれほど重要な影響を人に与えたか、人類の進化において解き明かされてきた。

 それは、ヒトが同じヒト科ヒト族のチンパンジー、ボノボともはっきりとした違いは、言葉や時間を持つなどの異なる成長過程での進化の理由にあるからなのです。

ちなみに、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボはヒト科でサルではありません。

言葉は意味を持ち、それにより物事と現在を共有することが可能になります。

言葉は未来を想像し、創造することができます、また言葉は記録に残せます。すなわち、時間は未来を描き、過去を認識して記録に残せます。

 

今、With Corona の時代にあって、人はネットワークの大きな恩恵によって、これらのコミュニケーションを利用しています。

移動する時間や会議室も必要がない、非常に効率的、経済的なコミュニケーションが可能になります。

 

ヒト族のチンパンジーやボノボと人の違いは、ヒトは大人になっても”遊び”をしますが、他のヒト科の動物は大人になると、ヒトほど”遊び”をしません。

元々、ヒトは大人になってもほとんど幼児のチンパンジーの容姿とそっくりのままです。チンパンジーと比較すると、ヒトは胎児や幼児の特徴を持ったまま成長しましたが、チンパンジーは成熟すると顎が出て全体に毛も生えて正常に二次性徴したというわけです。

この様に、生殖機能が成熟しても容姿などが大人になりきらない成熟の形を『ネオテニー』(Neoteny 幼形成熟)と言います。

わかりやすいのは、ウーパールーパー(アホロートル)で、外見上はおたまじゃくしのような幼生のままですが生殖機能は成熟して可能なサンショウウオの仲間です。

つまり、ヒトがチンパンジーと異なるのは、成長組織を阻害するように進化を止めるなんらかのプログラムが働いたからだということができます。

 

オランダ・アムステルダム大学教授で解剖学者のL・ボルクは1926年に、ヒトのように成長速度を遅らせた生物が言葉や知性を持つようになったのはネオテニーのせいではないかという、胎児化説を唱えた。

アメリカの人類学者M・モンターギュは、人間の身体は他の類人猿の身体よりも弱体で子供のままであるが、そのことが知能に特別有効な社会的な可塑性を持たせたのではないかと考えた。彼は「子供のままでいることのもたらす人間文化の可能性」として、形態にとどまらず、ヒトの行動にも大きな影響を与えていることを明らかにしています。

その特徴は、遊び心、好奇心、感受性、友情、学習性、知識欲、感受性、学習意欲、寛容性、創造性、想像性、柔軟性、愛の希求、共感、共有、楽天性、強力性、平和主義、ユーモアなど

”遊び”で述べたままなのです。

これらの人間的な特徴は要するに子供の特性であるということです。

幼形成熟が、進化の過程で淘汰されて残ったものだとしたら、母子関係が愛の希求の必要性からか、平和主義の必要性からでしょうか、それとも性の淘汰からでしょうか。

少なくとも、最近よく言われることに、絶滅危惧種はほとんどが猛獣、猛禽類です。

犬や猫は人間と共存して生き残り、狼や虎は絶滅の瀬戸際です。

 

マッカーサーは、米国の上院議会の委員会で、「日本人は未だ生徒の段階で12歳の少年だ」と証言したのは有名ですし、キッシンジャーも同じようなことを言っている。

おそらくトランプもそうなのだろうか?と思えます。

彼らは、日本人の平和主義の原点がネオテニーだとわかっていないと言えるかもしれませんね。

日本のアニメが世界的に喜ばれるのはおそらく、キャラクターの容姿がネオテニーのせいでもあると思います。

 

パンデミックとはいえ、ゲームばかりせずに、何とか早く外で遊ぶ時間を幼児体験の中で増やす必要が絶対にありますね。

でないと、現在のテクノロジーによるネットゲームは、身体を使う遊びの長所をなくしてしまいます。