ゆとり教育は結局失敗だったのか。とかいう話の思考メモ。
一番のデメリットとか言われてるのが学力の低下。
学力が学校の授業で枠数が少なくなり教えられない・・・・・・とか言っているがまるで違うのではないかというのが私の意見。
どういうことかといえば、教育は日本だけだが全ての人に教育を施している国でもある。外国にしちゃあとても素晴らしいこと。普通はそんなことは出来ない。
英才教育だがなんだか言われているが、今の子供たちはそんな心理学者達に踊らせれてテレビや心理教育の規制をたくさん勧めているのだが、元々ストレッサーは必要なもの。ゆとりは嫌だと言って自分たちがゆとりにしていると言う悪循環にも気づいてはいない。
例えば、グロテスクな表現を規制することが本当に正しいか。
いや、必要ではあるが子供の時に経験して視認し判断できる性格を構築しなければならない。故にその時の判断が曖昧になってしまう。アニメがやっていたのでという問題が起きたのもその通りなのである。
人間が実際に見たという判断がなければこの部分は成長しない。恐らく大人になっても改善できない部分があるのだろう。
そう、ゆとり教育は成功だった。
なぜなら子供たちはその時に自分たちが思いのままに行動できるという時間が必要なためである。当時の教育でさえサボる時間もあるならば結局は同等の時間なのだ。でもほとんどの人はゆとりは失敗だと言っている。そう、大人になれば子供の時間など既に忘れているものなのだ。あの時こういうことがあって・・・という思考でさえ忘れてしまう。
では最近のゆとりだと言われている問題はどこにあるか。
私は、核家族になってしまったこの社会システムが問題であるのではないかと思う。
コミュニケーションの不足もほとんどこれに当てはめることができる。
どういうことかといえば、日本は平和になりすぎた。
私の親の世代にはバブル経済が起きて、とてつもない格差社会が発生してしまう。今や、その差を埋められるのは1割もいない。勝ち組と負け組のシステムというものの発生に伴い、独自に家を離れる思考が大きくなった。いわば反面教師となった親である。
どんな英才教育よりも、この核家族は大きなデメリットになる。なぜならコミュニケーションを取る時間自体が大きく変化してしまう事。ついには両働きによる存在が大きい。
これではストレッサー以前の問題でもある。ただただ教育を詰め込んだ、あるいは教育をしない故にニートや引きこもりという現代病が続出。故に平均年齢とゆとり世代が年齢的に一致してしまう結果となった。いわば社会的に犠牲になったのが今のその世代である。
無縁社会の始まりである。私には全く面白みのないものである。
核家族化した家計には1人働く人がいなくなっても連帯責任感が欠落している。
昔の5人組のように数が多い方がコミュ二ケーション能力・HQの向上に伴ったものの向上が測れるものを自分たちで壊してしまった。
多い家族ゆえに共有し合う感情自体が欠損してしまう。身内だけど知らないというのは昔の時代から見ても悲惨なもの、しかもその世代はゆとり世代ではない。その前の世代だ。
これはゆとり世代を攻める理由にはならないのではないか?
経済が成り立ってないのもある。実は子どもの教育はそんな些細なところから遮られているのではないか。そんな気がしてならない。そうではないだろうか。無縁社会を作ったのはゆとり世代ではないということ。つまり次世代にはその反省を生かした社会を作って見直そうではないかということである。
バブルの器はほとんどの人には備わっていなかったということらしい。今のゆとり世代にはどう映るのだろうか。政治の動かし方にも期待である。