とりあえず、顔だけでも。
最近 ボーカロイド というのが流行ってますね。
私自身どこか流行に乗るというのがあまり好きでは無く、特に機械音声はちょっと受け付けない感じがあったりもします。いや、その割にはゲームのBGMはよくきいいたりするんですが。
とまぁ、今回はそんなボーカロイドという機械音声での話です。今回はですます調できままにいきます。
私なりに思うのは電動人工声帯というのを思い出します。これは、喉の手術をした時に自分が声を出せない時にもう一度声が欲しいという事に要望した画期的なシステムです。
ほとんどの人はミクとかのツールを思い出すのかもしれませんね。意味は違えど、様々な人に対しての素晴らしいツールであるということに変わりはないと思うのです。如何に様々な人に作り手という言葉をプレゼント出来るか。それが本来の機械音声という言葉の意味ではないかと思うところですね。
これは音楽にも色んな影響を及ぼしましたし、嫉妬ならぬ躍進は大きな功績でした。当たり前と言えば当たり前です。前述のとおり、技術といえば最先端。次世代という意味では正しいものかもしれません。
別にいきなりかわいい絵が出てきて売れたのは事実とは思ってませんよ?いやホント(笑)そう言う意味では機械というのとキャラというものはリンクしているものなんでしょうね。きっと。
でも、もしですよ。もし100%機械音声と思われないものが出来た瞬間。あなたはどちらのほうがいいですか?
完璧な機械を取りますか?
それとも人の声?
・・・・・・その時、ボーカロイドは役割を終える時ではないかと思います。
恐らく、今音楽とはすべて機械という完全なものに対しての評価か、人という不確定な存在自体の音域の評価を問われているのです。ボーカロイドは本当の意味で「都合のいい道具」です。
様々な批判を買うといったのはそこです。いくら音楽が反映して、ジャンルとして確立されたものは今まで声の力、文字の力という聖域を脱することはなかったのです。いや、それは無駄なことでした。
つまり、音楽というジャンルに声という存在と1つ1つの音色に富んだ楽器の存在は多くの感動を生んできました。ついにそれはカノンコードという言葉のように好きな人間のパターンを確立したのですから、離れるべくして離れた事で2つの配色を感じることが出来ました。
言葉には人、楽器には人外の音色を奏でる素晴らしさがあり「日々の日常」で変革する非確定の思いは健在です。故に歌に自分なりの抑揚をつけて、さらに自分の姿を重ね素晴らしい「音楽」として出て行くのだと思っていました。
しかし、今のボーカロイドに至ってはその2つを完成させたいわゆる革新故の問題です。いや、私にはそうにしか見えない怖さが潜んでいると思うのです。楽器という人外の音色を叶え、さらに言葉の力を備えたもの。2つを両立したゆえの結末は、人気という言葉で括られるようになりました。そうじゃない、案外的外れという言葉もあったりするでしょう。それでも、この2つを搭載したもののリスクを作り手は考えたほうがいいのではないでしょうか?
ボーカロイドはロイドというふうにもどきとしての存在です。
歌うことの妥協として使う人はいないと思います。歌詞と音楽を合体させた1つの音楽というイメージよりも、パフォーマンスという領域か。茶を濁せば、本当はそれでいいのかというボーカロイドの葛藤があるのではないかという妄想が激っています。いや、本当にあるのかもしれない。
ボーカロイドがもし答えるのなら
「私の声は日常に浸透するものですか?」
「機械がすべての音楽を超えることはできますか?」
そんな事を言うんじゃないのかなぁ。と最近思うのです。だから、全ての人に理解されない。機械音声は好きでは無い。声が嫌いという言葉の裏腹に本当は人のぬくもりを含んだ一声のほうがどれだけ思いかを知っているのです。嫌いな人はほっておけばいいという考えでボーカロイドは作っていい代物では無いのではないでしょうか?
なぜなら、ボーカロイドはアンドロイドの声帯なのですから。
これから世界がアンドロイドが生まれたと仮定して機械音声が認められたか否かの選択は今なのです。
人は人。機械は機械。
電気羊の夢を見るか以前にそこまで成長していないだろと言われればそれまでですが。
そして、もう一度ボーカロイドを見た私には音楽の止揚にさらなる否の意見があるんですから、さらに成長してもらいたいと思います。
やっぱり一番気になるのが、ソーシャルとネトゲという2つの単語である。
昔ネトゲであっても、中毒という言葉があったようにソーシャルでも中毒という言葉が蔓延し始めたのは事実である。売上という言葉に縛られた上での売買に至ってはそれが忠実に課金というもので存在するのだから、企業として定着するのであろう。
TVに至っては、それがイイという感じにソーシャルのCMを大幅に増やしたりしている。
その割にはそのソーシャル自体が大変な作用を引き起こしているのでやめてくださいというCMは全くと言っていいほど起こらない。まぁ営業妨害だからというのもあるかもしれないが。
だが、中毒というのは決して悪いことではない。デザイナーには絵を描く中毒、プログラマーには・・・というふうに作り手にはそんな言葉は全く使われない。なんという社畜という言葉を隠蔽するかのような上手い隠し文句だろうか。そう言うなら私は一々深読みの中毒なのだろうか、ただの浅はかなおっさんか(笑)
そう。昔は、そんな中毒という行動を起し、企業や学業・・・最悪のパターンではデモや論争などを繰り広げ人生という物を謳歌するものだった。それは他人に作られた静物をじっと見て何かを感じて新しい物を作った人間達の屍が日常の常識として投資されたものである。
しかし、今の社会はどうか。ただ金のために行動し、飽和された日常をひたすら歩いている。それは紛れもない社会行動中毒だ。生きるためには働くしかない。ただ当たり前の行動ゆえに気づかないものが広がっていた。ただ狭い日本という中で、日本人以外の人が入り込みあたかもエリートですという人が金を握っている。それ自体が井の中の蛙であるように、中毒という言葉を一生気づかない虚しさを背負うことになる。
ニートという言葉はその飽和社会という中で拒否反応を示した人たちだ。
コミュニティ障害も言ってしまえば、コミュニティ前提の社会を基盤においた社会の責任というべき批判もある。人口減少も元々中毒という言葉に気づかない政治を斡旋したものの跡地だろう。働けないにも理由があって、それを今や中毒や甘えというふうに変わってしまった。歌詞に「特別なオンリーワン」というのもあったのに甘えの思考自体を排除した偏見的な視点をどうにかしないといけない。勉強には熱心という言葉の位置に対し、ネトゲには廃人・・・。もう子供もその境界線には気づき始めている。
その上でネット・ソーシャル・スマホ中毒というのは人の安楽の地に入り込んだ悪夢である。
お金という媒体で時間が変えるなんて言うがそんなことはない。元々しなければ、お金も時間も無くならないのだ。ただそこに人が中毒であった飢餓のように辛い、もっと欲しいという存在にビジネスを動かしたのだから、今の社会もおかしいというのがわかってしまう。売れればいい。そんな実態を今更馬鹿げていたと気づく。
しかし、それでも抜け出せない。
コミュニケーションという媒体が如何に大切かという事に。
ネトゲもソーシャルも一種の社会なのである。お金を投資すれば一番になれる。そんな人間の欲望を忠実に捉えたシステムをついに完成させてしまった。私はコミュニティリンクゲームという風な印象を受ける。
そこはまさにセカンドライフという世界である。
それを真っ向否定はできない。なぜならもう社会の一部として定着したものであるからである。
今や社会は年功主義ではない実力主義に変わった瞬間、人間は評価中毒という新たな単語で人生を狂わせられるのだろうか。
