昔、中学2年の時に作った小説。
案外今見ると今で言う痛々しい小説なのだが、案外自分の中のアニメ等の
偏見の含む批判を込めていたように思えた。
何かといえば、善悪2元論に対しての考え方である。
元々、アニメというのは善と悪というとてもわかりやすいシンプルな作り方
だったと自覚している。しかし、現実ではどうなのか。
たかが悪と正義を極端に分かることは事実的に不可能なのである。
例えば、正義のために敵を倒すというのは(敵を倒す)という殺戮行為時代を認めてしまっていいのか。
又はそれに対しての批判が全くと言って起こらないというのはそれはおかしい信者のような思考に近い。元々人はどちらかに分類をするという思考を持ち合わせていないと感情自体が成長しきらないのではないかというのも一理あるのかもしれない。親に教えられた教育・知育に対して自分で判断し、学校に出ていき・就職し人生を全うするのかという中で一度はこれは間違ってるという思考を結びつかなければならない。
つまり、その中で善悪という2元論に持っていくのは当たり前なのである。いじめは良くない。犯罪は良くないという無意識の中でどちらが正しいかということもインプットされているということであるのだが、アニメや漫画の娯楽の中でこの2元論を超えるものを埋め込んだところでどうなるかということである。それがいかに恐ろしいものかという事を昔の私は理解していたのかもしれない。
昔は娯楽自体に子供の遊びというイメージが定着していた。
けん玉や鉄棒などの昔懐かしいというしみじみさせた時代を思い返し、あの時代は・・・という物思いにふけたものだ。子供の時にはその娯楽の中で遊び自体を頭の中で繰り返し考えるという事をし続けていた。
ボールという媒体から蹴って遊ぶ・投げる。そして自分の中でもう一度練り上げる力をつける為に娯楽というものは昔存在していたのではないかという風に思うのである。遊ぶ、遊ばない。その2つの選択肢の中からそのようにすれば楽しめるかという思考。まるでつまらないという思考を悪と捉えて無邪気に自分の好きな事をしている子供たちはとても楽しそうだった。
その中で最初にぶつかるのが、本当にそれでいいのかという矛盾なのである。
確かに遊ぶのも重要だ。しかし、それからどうするという耐え難い不安と一緒に自分自身の夢をはっと思い出す。
まとめれば、子供は娯楽を自分の人生の1つとして定着させて生きているということに違いない。
「遊ぶことも勉強。」
その言葉の裏にはそんなメッセージがあるのではないか。という偏見に近い感情を持っていた。
子供にはその2言論自体で十分な教育を施したものだったのかもしれない。
しかし、そんな子供の時に2元論以上の話を引き合いに出したストーリー等がアニメや娯楽等で溢れ始めたのである。でも実際どちらが正しいのか。実際その年齢層に向けて発信したものなのか。それが私にとって怖いのである。
その一例ではアンチという言葉がよく使われることである。
人気なアニメほどそんな人が増えているじゃないの?嫉妬乙wwwなんて言葉が巡回されている。何かアニメが出たらこれはいいアニメだ!いや、つまらないというまるで子供の時と同じ善悪2元論が渦巻いてるではないか。そんなモノ会社や社会に出ればそんな物自体も武器にしてしまうものなのである。このようなものがあるということ自体を念頭に置いて行動しようという信念が技術の進歩を生み出したのではないか。
今の娯楽はそのようなものが乱立し始めている。
特にアニメや娯楽はそれが顕著である。新しい見方自体が出来たこと自体を評価しそれを商業に利用しているという見え透いた商売に囚われ、資金を排出するという文化になってしまった。これに対しては批判もあるだろう。その文化で自分たちは成長してきたのではないかということは明らかなことであり、それは真っ向に反対できない矛盾点である。しかし、それは娯楽で生きなくても一緒の事。
元々フィクションで心を動かされるように心理学で念密に組み合わされた物を取り入れた人工物である。それを一種の階段の一段と言う認識を昔は持っていたのに対し、元のテーマである2言論を超えてしまった存在は娯楽とは言わない何とも言えない奇妙なものという認識は誰も持たないのだろうか。
娯楽は決して人生の重さを超えないのである。これは一種の鉄則であり、今やそれを超えてしまう程の力を持った存在は今の子供たちにどう映るのか。いや、ただ通りすぎるかもしれない。
いったん話を変えるが、今の社会のシステムでは価値のあるものを第一として考えたシステムである。それを他人に同感されて商法が成立するかのコンセプトを練り上げそれを打ち出していく。娯楽と言われた私たちがつまらないという認識だけで捨てたものの1部にはその重さが乗っている。いや、作り手はそれを実感しなければならない。芸術としての価値は今もお金という通貨基金で換算されたものである。皮肉な話、全世界の通貨基金が死んだとき、芸術の価値は0なのか?という矛盾も存在するのだが、それはまた別の話。
ここまで踏まえた上で私は考えた。
1つは
善悪という2元論に対しては絶対の領域がある。それは小説のタブーである視点の変更を行い、双方から同時に見た結果自体が2言論に分かれてしまうのであればそれは変えられないものであるということ。
2つは
善悪を超えた先を書く事は作者自体の答えであり、自己満足でしかないということ。しかし、それを評価し新たなロジックへと移行するための1つのパターンとして置く必要がある。
この2つには壮絶な矛盾があり、それを絶対答えることは今の自分には答えられないのかもしれない。
主人公が平和を取り戻す事が善悪の2元論の結末であり、そこで殆どのアニメは終わってしまう。
しかし、それが飽きた、そのパターンは既出で当たり前と言われればその時に自分が娯楽なんてその立ち位置でいいという考え方になぜならないのか。それを今のアニメ・小説文化は行おうとしている。
一種の意見交換でお金が入る。そんなシステムに見えて、まるで娯楽を待ち望んだ信者と作り手の団体に分けられた何か洗脳のように見えてしょうがないのである。
そうじゃない。人は自分で2元論以上の何かを個別に見出すものだ。というのを思考の0に戻り模索する。
主人公はこの哲学のような矛盾に如何に立ち向かうか。しかし、それは哲学であり、娯楽では無い。
子供はそんな大人の悲しい矛盾でさえ受け止めなければならない。その重さを昔のそんなことはなかった時代の私たちに囚われては一向に理解できないもので、これからの作り手はその大人の偏見的な矛盾をさらに背負うということに見舞われては娯楽の意味もなくなってしまう。いや、このような物を作る時点でそんな教育を受けたものなのか。絵で食うというのはその矛盾を感じさせる1つなのかもしれない。
結局金か、自分の感情をクリエイティブに写し、子供にその判断を委ねる作品を作るか。一種のグロ・エロのような過激表現はその頃から生まれたのか。まだ私には判断できない。
しかし、今までの人生の選択肢をより良いものにするためのシステムを創りだす娯楽は、人の心の休日に入り込むこと自体が簡単すぎて気づかないということも気づいて欲しい。
だから、新しく自分もその矛盾点に足を踏みこんだ。そんな昔の思考をジン・テーゼで呼び起こしたいものである。
