最近面白い内容を見た。
ツイッターの炎上があとを絶たないのだ。
これについてどう考えようと思った自分が様々なところを見るうちにある人の言葉が。
製品をデザインするのはとても難しい。多くの場合、人は形にして見せて貰うまで自分は何が欲しいのかわからないものだ。
そう、あのアップルのジョブズの言葉。
実はこの2つ。何か曖昧なものでつながっているという事に気付いた。
炎上の原因とは言葉だ。
ツイッターというものは本当はつぶやきという些細な事を言うためのツールだ。
それを元々多大な言葉で埋め尽くされたと勘違いした人が多すぎる。
故に些細な言葉ですらもデザインしなければならない社会が続いてしまった。なんとつまらないものか。
まるで揚げ足取りのようなプロと素人の潰しあいのようで、全く違った物を追いかけている矛盾がそこにあった。素人にはツイッターはそのような人を吊るし上げるための存在でそれが形になったものという。
実際ツイッターの本質とは、どんな人でさえ変わりはなく、しかし貧富の差が生まれ、如何にリアルの充実が人の本質的に違いが現れてしまったのか・・・。
もといブログもそうだ。
このサイトでも同じだが、どんな人であれ1人の人という認識を植え込まれてしまい、そこに身分、立ち位置によって見方が変化してしまう。一旦形を見た人にはそれが一生離れない。
そう、形にしないとわからないのはこの思考のせいだ。
炎上を知り、このツールをそのような人を見つけるためのツールとしてご認識しているということ。
自覚して欲しいのはどんな場所にもそう言う人は絶対にいるということだ。
言い換えればそんな人を応援してしまう、そんな思考を自分は持っていたということ。
製品をデザインすることが難しいのはこの本質的問題を改善できないままで作り上げてしまったことである。私自身、最近の作品には次世代の作品というものを感じなくなった。
それは単に感情がなくなったというわけではなく、どんな作品であれ今の社会には(ものを売る)
という感情がつきまとっている。そうしないと生きてはいけない。
グローバルなものというのは本当は生まれてはいけなかったのではないか?
なぜなら、バブルの時に金で動くという思考を持った人は絶対にいるはずだ。
しかし、今ではその思考は炎上してしまう結果になるだろう。昔は了承されたことでさえ、なぜ今はそれを許さないのか。それがこのネットという媒体においての直ぐに言葉が直結してしまう環境からである。
ここでは言葉を(結果)としてしか残さない。ただの工程ではなく結果だ。そんな些細なつぶやきにすら反応してしまう社会は今や自由と言えるだろうか?
しかし、このような社会自体が隠蔽工作を気づかせるきっかけになっている。
逆に隠蔽工作をカンタンに行える時代になった。
ワンクリだけで人を黙せる時代になった。
逆にそれが違うと言える力も持っている。
いささか、つぶやくのでは無くて意見くらいにまで集約した言葉を言って欲しい。
成功者もただの人。苦しんでる人もただの人。
その境界線自体が曖昧な中、本当にグローバルなデザインは必要なのか。
世の中核家族が増えて、コミュニケーションが増えたとは何か皮肉なのであろうか。
形にしてもわからない人にはわからない。
ジョブの言葉にそんなものが含まれてそうで怖いのだ。
もし、間違った形を持ってきても浸透してしまうということを理解しているような言葉である。
故に難しい。人は直ぐに自分のほしいものを直感的にわかるというがその誤認識が様々な戦争・言葉の行き違いが起きている。それでも気づくだろうという声があったとしても欲しいものと理想は必ずしも永劫に一致するものではない。変化するものだからだ。
誰もグローバルの次という言葉を出さない。
それが楽で、当たり前のように感じている社会ではこの先はないだろうと思っている。
本当は今の社会はグローバルでは無く、愚痴や詭弁の言い合いで成り立つ社会を作った功罪を認めないと先は無いのだろうと思う。