日々職員の皆さんから仕事のこと、家庭のことで相談を受けます。

 

僕の考え方として、仕事の悩みを家庭に持ち込んだり、また逆の場合でもメンタル的バランスを保つことは難しいと思います。

 

家庭や仕事を、仕事に家庭を持ち込まないことをまず不可能だと思います。

しかし、相談できる人がいて、少しでも気持ちが楽になってくれればと日々思っています。

 

当施設では、夏には職員の子どもたちと焼き肉をしたりすることで、子どもたちがクリスマス会や餅つきに参加してくれます。

また、「はなたてに遊びに行っていい?」と職員の仕事に付いて来てくれたりと、うれしいことばかりです。

 

私も子どもの頃、父の職場では運動会やキャンプがあり連れて行ってもらっていました。職場のほかの子どもたちと友達になったり、キャンプの朝は、なぜかレトルトカレーだったことを今でも鮮明に覚えています。

 

 お父さん・お母さんがどんな人と一緒に働いているのか、どんな職場なのか。また、子ども達も学校や保育園という小さなコミュニティでしか人と知り合えない中、他の地域の人知り合う機会ができること。

 絶対、将来この子達に何かしら影響を与えてくれると信じています。

 

 職場は、家庭を理解し、家庭は、職場を理解する。そうなれば、職員個々が満足いくライフワークバランスが保たれることと信じこれからも職員とその家族と向き合っていきたいと思います。

 

 
有料老人ホームはなたてを開設して、4年が過ぎました。

オープン当初びっくりしたことは、金曜日の夕方に包括支援センターより、「今から週末だけでも見てほしい」という相談がよくありました。聞くと、大きい施設は調査しないと対応できない。ショートステイも調整聞かないということ。

介護は、いつ必要になるかわかりません。

 介護保険は、申請をしたらその日から使えることになっています。しかし、ケアマネジャーによっては、認定までのサービスを入れようとしません。私たちの施設でも明らかに寝たきりの状態でも何度も同じことを言われました。

 入院もできない状態で、もし私が断ったらこの方はどう週末を迎えるのか。当施設では、一度も緊急対応については、断りませんでした。

 病院もですが、一時期「たらい回し」が問題となりました。
 入所相談でよくある質問が、「要介護5になってもここにいれますか?」と聞かれます。
 介護施設でもすぐ入所できないことや介護度によっては退所を迫られること医療と変わらない問題があること。
 
有料老人ホームはなたてでは、すべての方が相談してもすべてが解決できよう。職員と日々勉強の毎日です。
 
 話が長くなってきていますが、もう少しお付き合いください。
 
 平成19年4月から個人商店として営業を引き継ぎました。店に買物に来る近所の高齢者の方、また、地域内の高齢者に配達に行ったりと日々過ごしていました。応援してくれる方もいらっしゃりそれなりに営業できていました。また、当時の焼酎ブームにのっかり、地元宮崎の焼酎や鹿児島の焼酎を店頭販売、ネット販売と少しでも売り上げアップのため頑張っていました。
 しかし、常連である高齢者の方が入院したり、施設入所したりと一人また一人と減っていき、売り上げも同じく減っていく中、年々今後の事を考える日々でした。
 僕たちが今まで生活してこれたのも地域のおかげということ、高齢化していく地域を元気にしたいという思いの中で、地域の有志に声をかけ「夏祭り」を開催しました。第1回では、テレビで見る人がこんな田舎に来るといことで、大森うたえもんさんをゲストに呼んだり、50人規模の高校生の吹奏楽を呼び野外で演奏してもらったり、打ち上げ花火をしたりと普段味わえないドキドキ感・ワクワク感を味わってもらえるイベントだったと思います。第5回出る杭は打たれることを実感したのもこの祭りでした。通算7回開催しましたが、昨年から有料老人ホームの夏まつりとして形を変え実施しています。
 この個人商店で一番考えさせられたのは、競争についてです。価格競争は、大>中>小と当たり前ですが、仕入量だったりでとても太刀打ちできません。だって、僕の仕入れ値より量販店での売値が安い。どうやったって勝負になりません。勝負できるのは独自性・オンリーワンになること。大手にどのように勝負していくのかを勉強させてもらいました。
 有料老人ホームをしたいという夢は、公務員をやめた時からありました。しかし、多額の融資を受けるためにどうしたらいいのか。わからない中、知人から金融機関と話す機会を持っていただき、なんとか有料老人ホームを建設できる運びとなっていきました
 
 
 
 観光業界から福祉業界に入り、畑違いの中最初はただ仕事をこなす「作業」でした。
 ただ、介護保険という事業を1から立ち上げるということ。また、介護保険制度が施行後は、2人で仕事していました。大きい市町村では、資格・認定・保険料・給付と係ごとですが、小さい町役場では、少人数で業務しています。対象者は少なくてもやる業務は同じです。
 そのことも仕事に対する大きな自信になりました。そんな時、介護予防・介護に対する考え方を大きく変える出来事がありました。
 平成14年介護保険推進全国サミットイン東松山に参加したことでした。
 国の考え方・他市町村の取り組みに聞き、自身の市町村でも取り組めることがあるのではということでした。パワーリハビリの効果・低栄養予防の効果、何に取り組めるかを考えていた中で
は、、パワーリハビリに取り組みました。
 デイサービスに参加が少ない男性の方やパーキンソンで笑顔のなくなった方、3か月の実施後には、すべての方が笑顔になり楽しんでいる姿をみるとやってよかったという考えになりました。
 また、当時有料老人ホームもなく、3施設の時代。認定調査に行くと利用者が果たして人としての対応を受けているのかと考えさせられる場面に多く出会いました。自分だったら子ども時代に祖父と過ごしたように認知症だったり、意思の疎通が取れなくても通じた時のうれしさだったり、人との向き合い方が違うのではと考えていました。しかし、公務員。やめるという選択肢はありませんでした。
 大きな転機となったのは平成16年9月だったと思います。
 父が肺がん(小細胞がん)と診断されました。余命3か月と言われましたが、1年半後の平成18年3月に亡くなりました。当時は、祖母の肺がんでそう長くないと言われて叔母により、自宅療養中でした。しかし、同年5月に母がくも膜下出血により自宅で亡くなり、翌日には自宅で看取りを選んだ祖母も亡くなりました。
 父が闘病中から母が継いでいた個人商店も年々大型量販店の影響で売り上げも減少しており、早く閉めるよう母に話をしていました。しかし、この年私も脊柱管狭窄症を患い、闘病中
ふとお店に来るお客さんについて考えました。
 8割は、自動車の運転できない高齢者。今でこそコミュニティバスが走っていますが、当時は500m離れたバス停しかなく、バスの本数も学校登下校時と昼の2~3本と不便でした。店の申告書類を見ても何とか生活できると考え、継ぐことを決めました。
 性格上、決めたら進むだけ。周りからは考え直すよう話がありましたが、心は変わりませんでした。
 今となっては、当時の事を考えると相当家族に迷惑かけたなと日々考えます。
 
                                                 つづく
 
 小学校3年で祖父が亡くなるまで、当時家庭奉仕員(現在の訪問介護)の方が週2~3回訪問して、髭を剃ったり、入浴を行ったり、していたのを今でも覚えています。
 また、小学校から帰るとベッド上の祖父と会話にならない会話をよくしていました。いつも天井に向かって独語があるかと思うと祖母の作るごはんに毒が盛られていると食べなかったり、認知症について自分なりに理解していたと思います。
 しかし、現実は甘ったるい小学中学と過ごし、その延長線上に高校時代もありました。
 音楽が好きで中学生からバンドを組み、ライブハウスのない田舎なので、ライブといえば文化祭や卒業式後の音楽室だったりでした。
 高校3年生の卒業の1月。阪神大震災があり、3月に義援金ライブを近くの体育館で行ったりしました。
 親を安心させるために北郷町役場地方公務員になり、このまま60歳定年を迎えるものと当初は考えていました。
 実際、公務員は11年間。業務は、観光2年・福祉8年・観光1年でした。
 僕を大きく変えたのは、福祉担当の8年間でした。
 平成10年に福祉課に異動となり、華やかな観光担当時代と比べると少し不満を待っていました。
 4月から措置担当だった時、特養や養護の入所希望者の調査・資料作成をいきなりすることとなり、ADLという初めての言葉、素人の僕の調査で入所が決まるなんてと思いながら不安な日々でした。急遽12月から介護保険制度保険者の立ち上げ作業も業務に入り、制度の変革期が味わえる貴重な経験をさせてもらいました。(その時はそうは思っていませんでした。)
 
 
   つづく