観光業界から福祉業界に入り、畑違いの中最初はただ仕事をこなす「作業」でした。
 ただ、介護保険という事業を1から立ち上げるということ。また、介護保険制度が施行後は、2人で仕事していました。大きい市町村では、資格・認定・保険料・給付と係ごとですが、小さい町役場では、少人数で業務しています。対象者は少なくてもやる業務は同じです。
 そのことも仕事に対する大きな自信になりました。そんな時、介護予防・介護に対する考え方を大きく変える出来事がありました。
 平成14年介護保険推進全国サミットイン東松山に参加したことでした。
 国の考え方・他市町村の取り組みに聞き、自身の市町村でも取り組めることがあるのではということでした。パワーリハビリの効果・低栄養予防の効果、何に取り組めるかを考えていた中で
は、、パワーリハビリに取り組みました。
 デイサービスに参加が少ない男性の方やパーキンソンで笑顔のなくなった方、3か月の実施後には、すべての方が笑顔になり楽しんでいる姿をみるとやってよかったという考えになりました。
 また、当時有料老人ホームもなく、3施設の時代。認定調査に行くと利用者が果たして人としての対応を受けているのかと考えさせられる場面に多く出会いました。自分だったら子ども時代に祖父と過ごしたように認知症だったり、意思の疎通が取れなくても通じた時のうれしさだったり、人との向き合い方が違うのではと考えていました。しかし、公務員。やめるという選択肢はありませんでした。
 大きな転機となったのは平成16年9月だったと思います。
 父が肺がん(小細胞がん)と診断されました。余命3か月と言われましたが、1年半後の平成18年3月に亡くなりました。当時は、祖母の肺がんでそう長くないと言われて叔母により、自宅療養中でした。しかし、同年5月に母がくも膜下出血により自宅で亡くなり、翌日には自宅で看取りを選んだ祖母も亡くなりました。
 父が闘病中から母が継いでいた個人商店も年々大型量販店の影響で売り上げも減少しており、早く閉めるよう母に話をしていました。しかし、この年私も脊柱管狭窄症を患い、闘病中
ふとお店に来るお客さんについて考えました。
 8割は、自動車の運転できない高齢者。今でこそコミュニティバスが走っていますが、当時は500m離れたバス停しかなく、バスの本数も学校登下校時と昼の2~3本と不便でした。店の申告書類を見ても何とか生活できると考え、継ぐことを決めました。
 性格上、決めたら進むだけ。周りからは考え直すよう話がありましたが、心は変わりませんでした。
 今となっては、当時の事を考えると相当家族に迷惑かけたなと日々考えます。
 
                                                 つづく