dramatic —愛おしき日々に感謝の意を。

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ほかのひとには真似できない人生を、ありがとう。

傷だらけだった10歳の私を救ってくれた恩師へ。
ことあるごとに私を支えてくれたすべてのかたへ。
そして、私を傷付け続けていた、あなたへ。

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年が明け,誕生日が来て私は6歳になった。

いろんな子に「もうすぐ誕生日やねん!」と言っていたこともあり

誕生日当日は何人かの友達が家までプレゼントを持ってきてくれた。

中には「弟くんと使って」と,弟の分まであったりもした。

それらを母は取り上げ

「なんで余計なことしゃべるんや! あれほど余計なこと言うなって言ったやろ!」

と怒鳴った。


誕生日を言うことは母にとっては余計なことだったのか?

そうぼんやりと思った。

「これは誰にもらってん」と訊かれ,答えられずにいると母は友達の家に一軒ずつ電話をかけ始めた。

「すみません,うちの子がプレゼントを催促したみたいで・・・」

小さな子どもだったけれど,催促の意味は何となくわかった。

違う,サイソクなんかしてない。

そう言っても信じてもらえなかった。


母が電話で話をしている間に,きっと電話を切ったあとも「これは誰からや」と

訊かれるに違いないと予測し,寝室に隠れ,ふすまの戸を反対側から手で押さえつけた。

母が入ってこられないように。


わずか6歳の女の子が大人にかなうわけないってことは充分わかっていた。

それでも,そうせずにいられなかった。

些細な反抗だったのかもしれない。

そのあとの出来事は,母に何かをされたのかも,プレゼントはどうなったのかも,

嘘みたいに何も覚えていない。

そんなある日,私に「名誉」挽回できるチャンスが訪れた。

幼稚園の学芸会で劇をやることになったのである。

母は,さぞかし当たり前のことのように言った。

「どうせやるなら主役やないと。ほかはいてもいなくても一緒やで」

母の言うことは正しいかどうかはわからなかった。

ただ、主役になれば母はほめてくれるに違いない……それだけは確かだった。

母にほめられるチャンスだ!

たったそれだけで,私は主役をやってみることにした。

本当に,それだけで。


主人公の役決めで私が手を挙げた時,先生を含む,その場にいた全ての人が驚きの目で私を見た。

先生は何度も「本当にこの役でいいの?」と訊いてきた。

「うん,これがいいねん!」
「・・・でもこの役は・・・男の子の方がぴったりだと思うんやけどなぁ」

先生がそう言うのも無理はなかった。

その劇は『おむすびころりん』――主役といえば、おじいさん役だったのだ。


結局,最後まで自分の意志を曲げることなく私はおじいさん役を快く引き受けた。

主役は4人いたが,私以外の3人はもちろん男の子がやることとなった。

その日,私は幸せいっぱいで家に帰った。

これでお母さんにほめてもらえるんだ!!!

…しかしそんな希望は、母の一言によって打ち砕かれた。
「お前女やろ? なんでおじいさん役なんか・・・」
いつもと違ったのは,母は怒るのではなく爆笑し始めたのだ。

げらげら笑う母を見て,私は怒りが込み上げてきた。

なんで笑うの?

私,お母さんの言う通り,主役になったんだよ・・・なのになんでほめてくれないの?

悔しくて悲しくて仕方なかった。

この気持ちをいったいどこにぶつければいいのかわからなかった。


しばらく泣いたあと,私は自分の本当の気持ちに気づいた。

仲のいい子たちは,りす役やうさぎ役に決まって,それが羨ましかったのだ。

それでも私は主役を選んだ。

母に喜んでもらえるのなら,本当に何でもよかった。
これが私の「認められたがり屋」の人生の幕開けだった。

劇は無事成功し,私はいろんな人から主役なりにほめられた。


しかし数日後,先生は母にこう言った。
「ありめちゃん,ほかの子よりちょっと変わったところがあるみたいですね」
悪びれた様子もなく,本当にさりげなくだった。

先生はどれだけ大変なことを口にしたのかわかっていないだろう。

結果的に,私は母に嫌な思いをさせてしまった。

一度,園の先生に車で団地まで送ってもらったことがあった。

別にしんどかったわけでもなく。


その日は昼食後にすぐ帰るという日だったのに,私はお弁当に入っているプチトマトが

フォークで上手くすくえず,悪戦苦闘しているうちに気づけばみんな帰ってしまっていたのだ。

それまでも先生が何度か

「ありめちゃん,トマトくらい残したら? みんなと帰ろうよ」

と声をかけてくれていた。


しかし私は聞く耳をもたなかった。

そのせいで「頑固だね」なんて言われた。

冗談じゃない。トマトくらい残したら、って・・・何言ってんの先生。

親が作ってくれたお弁当を残すなんて,殴られるのが目に見えているのに

なんで残せなんて言うの!?

信じられない。


団地に着くと母が一人でぽつんと待っていて,私は身を固くした。

先生が事情を説明してくれている間も,私はこれから自分の身に起こる悪夢を想像して震えていた。

「残したら怒られると思った。だから帰るのが遅くなった」
そんな言い訳はできなかった。


母が私を思うがままに殴っている最中,私は

みんなが帰ってきて列の中に私だけいないことを知ったとき呆然としたであろう母を想った。

私がどれだけトマトと戦った話をしたところで,

みんなと同じ行動ができなければただの「普通じゃない子」でしかない。

私がどれだけ母のことを考えていたって,決して母には届かないのだ。


“普通じゃない子”。

それは完璧主義である母に最高の劣等感を感じさせ,母の一番嫌いなものだった。

きっと重荷であるに違いない。

のちに私は「お前みたいなやつは一番嫌いな人種や」と長年にわたって言われ続けることになる。
母親にでさえ否定される自分が,嫌で嫌で仕方なかった。昔からずっと。

ある日,母が折り紙で鶴の折り方を教えてくれた。
まず私の前で母が一通り手本を見せ,できあがったところで「次は自分で折ってみ」と言われ

挑戦してみたが途中で折り方がわからなくなってしまった。
私は恐るおそる母に尋ねた。
「・・・この次は?」
「お母さんがやるの、ちゃんと見てなかったんかっ」
母は私の手をひねるかのように動かし,手元にはぐちゃぐちゃの鶴ができあがった。

それをあと二度繰り返し,何とか折りあげた三羽の鶴を「園で先生にあげるように」と言われた。

単に「一生懸命折ったんだから先生にほめてもらえば」という想いだったのだろう。

私はどっちでもよかったけれど,母が喜ぶのなら先生にあげようと思った。

先生を喜ばせるのではなく。

同時に,親に逆らうのが怖かった。何をされるかわからないから。


しかし次の日,私は鶴のことをすっかり忘れていた。

帰るころになって思い出したが,恥ずかしさもあって,まぁいいか…と軽く考えていた。

家に着いてから,かばんのポケットに入れてあった鶴を慌てて隠そうとしたけれどすでに遅かった。

母は怒りに満ちていた。

案の定、母は私を問いただした。


「なんで渡さんかったんや、気に入らんかったんか?」
「違う・・・忘れてただけ」
「なんで忘れるねん! アホなんかお前!」

そう言って母は私の腕をぐいっと引っ張った。右腕に鈍い痛みが走る。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・」
謝れば許されるわけではなかったけれど,謝る以外に私ができることはなかった。

その次の日の朝,私は忘れることなく先生に鶴をあげた。

まだ昨日の鈍痛が残った手で。


その時あげた折り鶴の千代紙の柄も

私に向かって「自分で折ったんやね!ありがとう」と微笑んでくれた先生の顔も

母に手をひねられながら折り方を教えてもらったことも

私は今も忘れていない。忘れられない。


今でも折り鶴は苦手だ。

折るのが、じゃなくて、見るのが。

母の前では泣くことさえも許されなかった。

泣くと必ずといっていいほど「泣くなぁ! 黙れ! うっとおしいんじゃあぁ!」と叫ばれ

まるめたティッシュを何枚も何枚も詰め込まれていた。

窒息しそうになり、私は嗚咽を繰り返す。


当時,私は公文式に通っていた。

小学校低学年程度の読み書きや文章の読解力,筆算は私にとって余裕でこなせるものになっていた。

それは小学生になってからすごく助かったので

私が困らないようにと習わせてくれたのには感謝している。

ただ,一問でも間違えれば、先生よりも母に怒られた記憶の方が圧倒的に多い。
「なんでこんな簡単な問題がわからんねん! お前の頭はいったいどうなってんねん」
私は必死だった。母を怒らせないように。

もちろん怒鳴られるというのが嫌だったのもあるし,自分のせいで母を不快な気分にさせてしまう,という

申し訳なさも子供心にして持っていた。

そしてできれば・・・・・・できれば、母にほめてもらえるように。

私は精いっぱいの努力をした。けれど、努力だけではどうしようもないことがあった。

発音。

生まれつきなのかどうかはわからないが,昔,私はうまくしゃべることができなかった。

とにかく発音ができなくて,当時のホームビデオなんかを観ても,ただでさえ聴き取りづらく

早口でしゃべる部分は自分でも何を言っているのか全然わからなかった。

母は「ちゃんとしゃべれぇ!」と怒鳴った。

それでもしゃべれずにいると手をあげた。


「なんでしゃべられへんねん・・・なんでほかの子と同じようにできへんねん・・・!」
母も悔しかったに違いない。

自分の子供が他人より劣っているなんて認めたくなかったのだろう。

「わざとか?」と言われ,私はほとほと困った。


それでも,テレビの画面に映る幼い私は,必死にしゃべっていた。

自分の思っていることを,相手に上手く伝えられない・・・それがどれほどもどかしかったことか。


家では注意されるのであまり口を開くことはなかったけれど

園ではむしろ誰よりもおしゃべりだったんじゃないかと思う。

母はよく私に「余計なことをしゃべるな」と言っていた。

私を怒る理由のだいたいはこれが原因だったが,私自身,自覚はしていなかった。

だって,どこまでが余計なことじゃなくて,どこからが余計なことなのかなんて

幼稚園児に分別がつくわけがない。

なので「『昨日の晩ご飯はカレーやってん』は言ってもいいけど

『昨日お母さんがあいちゃんのおばちゃんの悪口言ってたよ』は言ったらあかんで」と

ちゃんと教えてくれていればよかったのに,と思う。

それなら私だって怒られずに済んだ。

そもそも,外で言われると困るようなことを言わなければいい話ではないか。
「また余計なことしゃべりやがって,この口は・・・まともにしゃべれへんくせに!」
怒鳴られる原因もわからないまま,私は暴力に耐えた。