第1話 ルーツ | 第2話 はじまり | 第3話 最初の試練 | 第4話 挫折寸前 (この記事)
■試練は続く
なんとか無事に卒業レッスンをやり終えた私は、3ヶ月の基礎コースから
応用コースへとコマを進めることになりました。
応用コースでは、エアロビクス指導練習やプログラミングの授業に加えて、
《アシスタントとしてお客様の前に立つ》という次なる試練が待ち構えていました。
当時のティップネスにはエアロ社員と呼ばれる社員インストラクターいて、
それも各店でメインをはるような人気インストラクターばかりでした。
(私たちの養成の先生はその中でもダントツなカリスマインストラクターでした。)
私たち応用コースの生徒は、2店舗に3名いらしたエアロ社員の先生のレッスンに、
アシスタントとして入り、レッスンの一部を担当させていただくことになりまして…
そりゃあもう、めちゃめちゃコワイわけです。
なにしろ「追っかけ」と呼ばれるファンが山のようにおられる先生方ですから。
お客様はもちろんその時間、先生方のレッスンを受けに来られたわけで、
修行中でまだまだ下手っぴな私たちのリードを受けたい方は一人だっているはずもなく。
■挫折寸前の日々
アシスタントの日はレッスンの直前になって担当パートを振られます。
「今日はウォームアップやって」とか「ポストからクールダウンまで」とか。
ある日のこと、養成コースの師匠でもあったH本先生がいきなり
「メインパート全部やって」とかのたまうではありませんか!(゜∀゜;ノ)ノ
あ、、、あ、、、ありえへん!!!
だってお客様はH本先生の熱烈なファンばかり。
先生のレッスンを楽しみに、時間を割いて足を運んで来てるのに、
先生はウォームアップとクールダウンをリードするだけで、
レッスンのほとんどを私がやるなんて…
もう、そう思った時点でココロが負けちゃってますよね。
当然、レッスンはそれはそれはヒドイものでした。
そして、その日を境に
私はスタジオで鏡の前に立てなくなってしまったのです。
養成コースの授業中もずーっとスタジオの後ろに座って見学。
空き時間の練習もトレーニングもレッスンを受けることも、
ほとんどやらなくなっていきました。
あんなに大好きだったエアロビクスが、
いつしかだんだん楽しくなくなっていきました。
「もしかしたら私、このままエアロをやめてしまうかも・・・」
でも、とことん負のスパイラルに陥っていた私を再び浮上させてくれたのは、
他でもないエアロビクスだったんですよね。
■やっぱりエアロが好き
気分転換に休みを取って遊びに行った東京。
一人暮らしの新入社員でしたから、当然のごとく貧乏旅行で、
移動は夜行バス、宿泊先は友人宅。
このとき泊めてもらったのが、私より1年早くティップネスに入社し、
東京の店舗に配属になっていた今川早都子ちゃんのおうちでした。
![1409102707622.jpg](https://stat.ameba.jp/user_images/20140827/10/ariku-pilates/20/19/j/t02200293_0480064013047831544.jpg?caw=800)
そのときのこと、実はお互いにあんまり覚えてなかったりするのですが、
私より1年早く東京で養成コースを卒業しエアロ社員になっていた彼女から、
たぶんいろんな経験談を聞かせてもらったりしたのだと思います。
そして、東京のティップネスで受けたエアロビクスのレッスン!
久しぶりに心からエアロビクスを「楽しい!」って思えた瞬間でした。
「やっぱり私はエアロが好き!どうしてもインストラクターになりたい!」
東京で再びエアロへの情熱を取り戻すことができた私は、
応用コースの授業への意欲も取り戻し、無事に半年間の養成コースを卒業。
紆余曲折あってチャレンジ3回目(!)でインストラクター採用オーディションに
なんとか合格することができ、ようやく念願だったエアロ社員に。
同時にティップネスなんば店に異動になったのが1991年12月のこと。
そして翌年の1992年2月。
エアロビクスインストラクターとしてデビューすることができたのです。
ティップネス京橋店でアルバイトを始めてから、ちょうど丸2年が経過した頃でした。
つづく・・・
ほんとは、オーディションに何度も不合格になった話や、合格したといっても
「条件付合格」というカタチで、その後キビシイ先輩にダメ出しされ続けた話や、
ようやくレッスンデビューできた1ヶ月後に「いつまで経ってもやせない」と
レギュラーレッスンから再び外されて、やせるまで復帰させてもらえなかった話など、
ネタになるエピソードは満載だったりするのですが、それを全部書き出すと、
いつまでたってもピラティスに辿り着けそうにないので割愛します。(笑)