セオリツヒメと磐座を考える | misaのブログ

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遊びに来てくださって ありがとうございます!

アリエスタメーズ結成1周年記念・神戸への旅から、昨日無事帰宅しました。


4日間が1週間以上にも感じられるほど、濃くて楽しい旅でした。

当初、沖縄在住の久美ちゃんが、ゴールデンウィーク中は沖縄から脱出出来ない(航空券が高い)というので、参加を見合わせる予定でしたが、無理を言ってGW前に関東に来てもらっていたのでした。

そして、神戸は皆詳しくない為、いつも京都の加藤ますえさんのコンサートの時にお会いする「神戸在住のSさん」という男性に、案内をお願いしたのでした。

Sさんは、本当にいい方で、私たち4人の無理難題を快く受け入れて下さり、あちこち車で連れて行って下さいました。


本当にありがとうございました!忘れられない旅となりました。

今回の神戸への旅で、特に印象的だったのは「六甲比命神社」です。

何がすごいって、標高1,000m近い場所に巨大な磐座(いわくら)があったのです!


磐座という言葉は、「古事記」「日本書紀」「大祓詞(おおはらえのことば)」の中に出て来ます。

磐座とは、岩でできた神の座を表し、神が天から地上に降臨して、祭りが終わると天に帰っていく依り代であるようです。

アイヌの人々もそうですが、日本の縄文時代の人々は、全ての自然、動植物、自然現象などあらゆるものには神が宿っていると考え、それを崇めて来ました。

森羅万象が神であり、人間も神の一部、生命は神の分霊なのでした。


そして、岩石に神が降臨するという考えを持っていたのです。

一本の立石を「メンヒル」
数個の支石の上に天井石を乗せたものを「ドルメン」
天井石を2枚以上乗せたものを「ツムルス」
岩石を環状に並べたものを「ストーンサークル」と呼んでいます。


長い長い縄文時代には、山の頂上付近にある磐座の前で祭祀が行われていましたが、時代が進むにつれ次第に、山のふもとに社を建てるようになり、さらに、人々が暮らす身近な場所に神社を建てるようになっていきました。



やがて、磐座が本来の御神体であったことは、すっかり人々の記憶から忘れ去られ、磐座がどこにあったかも分からなくなってしまいました。




神の岩の意味を知らない人々は、住宅を建てるために安易に磐座を破壊するようにもなってしまっています。


今回訪れた「六甲比命神社」の御祭神は、ムコ姫・ムカツ姫との記録が残っており、この方は瀬織津姫との見方が有力です。



瀬織津姫は、罪や穢れを流す水の神として大祓詞にしか登場しない神ですが、ホツマツタエではサクナダリ・セオリツヒメホノコとして登場し、男神の天照大神が彼女を正室「天下る日前向津姫」として迎え入れています。

後世に天照大神は女神と変えられてしまった為、矛盾が生じて瀬織津姫は消されたようです。


標高860mの「六甲比命神社」の磐座が山宮、200mの目神山の高隅原が里宮、30mの廣田神社が田宮となっており、廣田神社の主祭神も瀬織津姫です。

時代と共に、段々と身近な場所に移動して来た神さまですが、元を辿れば山上の磐座に行き着くのです。


古代の磐座は、天文観測の装置だったり、道しるべだったり、光を反射させて使った通信ネットワークだったり、測量の基点だったり、聖地の境界を示し、悪霊が入らないようにした結界の役割りを果たしているものもあります。

磐座は、自然の形成のものか、人工物かで論争が分かれるところですが、巨石が自然現象で積み重なったとする説の1番大きな理由は、「古代において、そんな大きな岩を人の手で動かせるはずがない!」との思考からきています。


けれど、自然に形成されたにしては、多くの偶然が奇跡的に重ならないと不可能な石組みも多く、むしろ人工的と捉えた方が説明がつくものがあるのです。

世界には、エジプトの大ピラミッドや、イギリスのストーンヘンジ、ペルーのオリャンタイタンボの遺跡など、どうやって出来たのか未だに解明されていない巨石文明が数多く残っています。

日本の磐座がこれにあたるのです。


縄文時代の人々の英知が、世界に広まったという説もあるのです。


私も、これから折にふれて日本の磐座や世界の巨石文明を調べていきたいと思っております。


六甲の山頂で出会った磐座の数々が、私の巨石文明の興味にまたまた火をつけてしまったのでした。

唐人駄馬行きたい。。

他にも、「ここの磐座すごいよ!」という所があったら教えてね。