霊言の口調と霊的なことについて
コメントで、霊言の口調について、の質問がありましたが、この事については以前から何度かご指摘を受けていたかと思いますので、ブログの本文で、私の今の心境でわかり得る範囲でお答えさせていただきます。
確かに、霊媒師によって違いもあるでしょう。
霊媒師の悟りの度合いや、この世的な知識や様々な条件によって変わってくるでしょうね。
また、話す相手(質問者)によってもかなり口調は変わってきます。
また、話す内容によっても変わってくるでしょう。
様々な要因が考えられますが、大事なのは「何を言わんとされているか」だと思います。
霊的には、概念で降りてきますので、それをこの世的に翻訳する形で言葉が浮かび上がってくるものなのです。そのような状況であると言うことを、ご理解頂ければ、様々な状況もご理解頂けるのではないかと思います。
更には、皆様も人とお話しされる場合、相手によって話し方が違うと言うことはしょっちゅうあると思います。友人に話すときと、先輩に話すとき、子供や先生、会社の社長、お店の店員さん、魚屋のおじさん等、様々な方と話をされるとき、やはり話し方(口調)は変わってくるのではないでしょうか。
まだありますよね、その時の状況によっても変わります。雑談の時、仕事の時、結婚式での挨拶、卒業式での挨拶、お葬式の時の挨拶等、様々な状況で話し方も変わってきます。
また、同じ様に雑談していても、初めて会った方、二回目、三回目でも違うでしょう。
複雑に、この口調と言うものは変わるのではないでしょうか。方言もありますよね。
要するに、生きている人と話すのと同じなのです。
ただ違うのは、霊的な存在は、人(霊媒師)の体を借りなければならないと云う事です。
そこで、「何らかのフィルターがかかって来る」と云う事です。
しかし、このフィルターの部分を必要以上に大きくとらえすぎると、また間違う事もあります。
(ここから少し話は変わりますが、霊的な事について少し話させて下さい。)
要するに、「霊的な存在が、なにを言おうとしているのか」これを読み解かなくてはなりません。その時に仏法真理を正しく学んでいる方は、それを定規として、その霊的存在がどの様な方であるかを見分ける必要があるでしょう。
その事により、霊媒師が変わったとしても、その霊的な存在がどの様な方であるのかが、おおよそわかって来るのではないかと思います。
その時に求められるものは、この世的になりますが、やはり最低でも研究員の資格を取る必要があります。主の定められた、一定の定規に自分自身を乗せて見る必要があります。
そこからが、悟りへのスタートでしょう。研究員の資格を取らないと云う事は、かなり慢心があると云う事です。ここは主の御言葉に素直になり、研究員の資格をとりましょう。
あくまでも、この世的な資格にはなりますが、その知識、その姿勢もまた大事なのです。
「幸福の科学で、正しく学び、正しき心の探究を続けている方は、霊的状況が現れたとしても、大丈夫なのです。他の怪しげな宗教とは違い、幸福の科学は安全であるのです。それだけの教えがあると云う事です。」
過去にも、霊的な状況でおかしくなった職員さん達が居られたと聞いていますし、見ても来ましたが、日々に正しく学び、日々に正しき心の探究を続けている人は、そう易々と魔に翻弄され続ける事は難しいのではないでしょうか。一時的に魔からの攻撃にさらされる時もありますが、仏法真理を正しく学んでいて、また、日々に正しき心の探究をしていて、魔に負け続けると云う事は逆に難しいのではないでしょうか。
幸福の科学は、そう云った意味で安全なのです。
またその様な方は、霊的にも守られている事を忘れてはいけません。
主の教えを、他の教えと一緒にしてもらいたくはありません。
主の教えは、最強であり、最高であるのです。また、主の弟子が心を謙虚にし、主と共に歩む時、大いなる光に包まれている事も忘れてはならないでしょう。
霊的なものは危ない、と云う方が大多数だと思います。
確かに、私も魔からの攻撃を何度となく受けました。また、これからもあるでしょう。しかし、主の弟子であり続け、また、主の教えがある以上、私は負ける気がしません。
もし、その様な状況が来たとしたら、私の学び不足や、慢心や油断等で心が見えなくなった時でしょう。しかし、悟りへの目標を高くして進んでいる以上、必ずや軌道修正できるものと信じています。
主の教えについても、様々な解釈があり、また多方面に教えが拡がっているので、異論が出ると思います。しかし、それらの総べてのことは、その人の価値観や置かれた立場や状況等で見ているので、意見が違う事がおきるのです。
同じ教えを学んでも異論が出てしまうものですが、研究員と云う一定の学びを得た人達では、この意見の差も、学んでいない人に比べて少なくなって来ると思います。
しっかりと正しく学ぶ事が大切なのです。正しく学んでいれば、主の教えに対して、そう大きく解釈が違うと云う事は無いでしょう。教えに対して、意見が大きく違う場合は、学びが不十分であると言わざるを得ません。
また、「正しき心の探究」と言いますが、この「心」が理解できない方と、何と無くでもいいが心を理解できる方との意見の違いがあります。
同じく研究員であったとしても、この「心」が分からないと、主の教えが抽象論に見えるものですが、心が分かり始めると、主の教えはとても具体的になって来ます。ここに大きな違いが出て来るのです。
その違いゆえ、法友と話をしたり、職員の方と話をしたりしても、その方がどちら側の方なのかが、何と無く解ってしまいます。そんなに違いが出て来ます。
「心」と云うものが分かり始めると、精神世界に自分自身が入った事が分かると思います。これは、はっきりと分かります。今迄とはまったく違った様に、見え始めて来るのです(心で)。
精神世界への参入、この経験が未だの方は、出来るだけ自分自身の心を知る事に努力される事をお勧め致します。主の教えが、具体的に見えて来るのです。自分自身が見えて来るのです。是非、お勧め致します。
活動を通じて、心のあり様を見つめるのもいいでしょう。精舎での研修で、心の発見をされるのもいいでしょう。自分はどの様な存在であるのか、見つめて行く事でも見えて来るかもしれませんね。
様々な方法を主はお教え下さっています。トライしてみては如何かと思います。
一人でも多くの方が、幸福の科学で研究員となり、正しく心の世界へと参入され、守護霊との会話や、より悟りを高めて、高級霊界との交流を経験される事を祈念してやみません。
主の願われる理想社会の建設には、正しく霊的交流が出来る方達の存在が欠かせません。一人でも多くの方が、霊的世界を実感され、主の導きに従って力を合わせ、新時代を切り開いて行きたいものです。
僧団には、正しく審神者が出来る体制が必要になって来るのではないでしょうか。
難しいかもしれませんが、やはり審神者体制を作らなければならないでしょう。
これだけの法が説かれ、一定の時間も流れた今、霊的な交流が出来る方達が増えています。
その方達が、正しく悟りを伸ばして行く為にも、いつまでも弟子による霊的な事を否定する僧団であってはいけません。矛盾しています。
審神者体制がとられないのであれば、どこまで良くて、どこからがいけないのか、はっきりと線引きをする必要があると思います。霊的になると、僧団から弾圧を受ける今の状況を何時までも続けていいとは考えにくいものです。
総べては「霊的なものは危険である。」と云う事から始っている様ですが、しかし、「主の教えを正しく学ぶ者には、安全である。」という考え方もあるのではないでしょうか。
現在は、弟子達が、悟りを上げ、霊的になったらそれをひた隠しにしなくてはならない様な事態であります。そこに魔が忍び込んで来ます。
もっと、明るく、もっと自由に出来ないものかと思う次第です。
主の教えの下での自由、伸び伸びと悟りを高め、伸び伸びと伝道し、伸び伸びと救済にと、自由に活動が出来る僧団でありたいと願うものであります。
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