湯布院から南へと車を走らせ、竹田にある岡城跡にやってきました。
岡城は竹田市内を流れる大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する地点の崖の上の台地に築かれた城で、南北朝時代に豊後国守護大友氏の分家志賀氏の居城となり、その後、1594年に播磨国三木城から入部した中川秀成によって近世城郭の形に整えられた城だそうです。
駐車場前の受付で入場料を払うと、こんな巻物のようなガイドマップをいただきました。
なかなか洒落てますね。
このガイドマップを見ながら、早速、お城を散策します。
まずはこの坂を登って大手門跡を目指します。
あとから知ったことですが、この坂の崖側の石垣は、一番上の石が半円状に加工されています。
この石は「かまぼこ石」と呼ばれ、全国的にも珍しいものなのだそうです。
坂の途中から見上げる石垣。
積み方がとてもきれいで、見事な石垣です。
大手門跡。
かなり立派な門があったと想像できます。
大手門跡を入ったところにあった岡城鳥瞰図。
東西1km近くあり、かなり広大な縄張りです。
とりあえず、本丸を目指し、果てしなく続くかに見える道を進みます。
西中仕切跡あたりから見る三の丸北側の高石垣。
岡城跡には建物は全く残っていませんし、復元もされていませんが、立派な石垣が多く残っています。
中でも、ここから見るこの高石垣は、岡城跡の代表的風景となっています。
草に覆われた石垣は蒼枯として、遠くに見える山々との対比が、悠久の歴史を偲ばせます。
太鼓櫓跡を抜けると三の丸。
そして、さらに進むと二の丸。
ここには岡城の名を広く知らしめた「荒城の月」の作曲者、滝廉太郎の像があります。
滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、この岡城に登って遊んだ思い出から「荒城の月」を作曲したのだそうですが、実際にこうして城跡を歩いてみると、その曲のイメージどおりであることが実感できます。
岡城跡は高台にあるため、眺望も抜群。
滝廉太郎像の背後には九重連山が見えます。
西の丸からは阿蘇山も見えます。
本丸からは祖母山(右端)から傾山(左端)までの山並みが一望できます。
二の丸から一段上がったところにある本丸には、中川秀成が入城した頃、城内東側にあった天神祠を移転建立した岡城天満神社があります。
本丸から南側の石垣の下を見下ろすと、川沿いを走る国道502号線が見えます。
この岡城跡下の国道502号線にはメロディー舗装が施されており、車で走行すると「荒城の月」のメロディーが鳴り響くようになっています。
このメロディー、走行している車内で聞こえるのはもちろんですが、岡城跡に居ても耳をすませばその音が聞こえてくるんですね。
あとは、一応、搦手にあたる東端の下原門跡から、
西端にある近戸門跡まで歩いてみましたが、
このようなだだっ広い屋敷跡のような敷地が至るところにあり、山城的でありながら、平山城的、平城的でもある不思議な作りで、とにかく広大な城跡でした。
隅々までじっくり見たわけでもないのに、一回りするのに1時間強を要しました。
しかし、なぜ、九州の山間にこのような広大で強固な城郭が必要だったのでしょう?
1586年に起こった豊薩戦争では、わずか18歳だった志賀親次が城を守り、押し寄せる島津の大軍を退けたそうですが、やはり、その島津を抑えるためだったのでしょうか?
この石垣が連なる古城の佇まいはとても素晴らしいものでしたが、この場所にこの城郭という違和感の方が強く残りました。