吉備津神社、備中国分寺の次は、高梁市にある備中松山城を訪れました。
備中松山城は高梁市の中心部を見下ろす臥牛山の山頂に築かれた山城で、岩村城、高取城とともに日本三大山城の一つに数えられています。
マイカーの場合、備中松山城に行くには、まず、5合目にある城見橋公園駐車場に車を止め、ここから8合目にあるふいご峠までシャトルバス(往復400円)で向かいます。
そして、ふいご峠からは山道を徒歩で約700m。
といっても、よく整備された道でそれほどきつい道ではありません。
10分も登らないうちに石垣が現れます。
ここは中太鼓の丸跡という場所で二段の曲輪があり、その上段の突端には櫓が建てられていたそうです。
足元に割れた瓦がたくさん落ちていますが、これは櫓の痕跡なのだとか。
ここからは高梁の町が見下ろせます。
この中太鼓の丸の少し先に前山という山がありますが、そこには下太鼓の丸があったそうです。
これらの曲輪は天守と山の麓との連絡の中継点として使われ、その名のとおり太鼓の音で連絡を取り合っていたそうです。
さらに先に進むと、さらに多くの石垣が見えてきます。
大手門跡です。
大手門跡の右手にはそそり立つ巨大な岩盤。そしてその上に石垣と土塀。
すごい迫力です。
どんな攻め手も寄せ付けない鉄壁の守りですね。
大手門跡を入ったところから見ると幾重にも積み重ねられた石垣が圧巻です。
左側に連なる狭間を備えた土塀は、現存(一部復元)の三の平櫓東土塀。
重要文化財です。
でも、この狭間、下を通る敵を狙わなければならないのに水平を向いています。
狭間風の装飾なのでしょうか?
ふいご峠から20分ほどで二の丸に到着。
二の丸から見る本丸と天守。
天守の前にあるのはいずれも復元された五の平櫓(右)と六の平櫓(左)。
本丸はギュッとコンパクトにまとまっています。
五の平櫓の下から仰ぎ見る天守。
備中松山城は、真田氏の居城であった岩櫃城のイメージに近いということで、(もう少しアップでしたが)この角度から見た天守や、大手門跡のそばの岩盤や土塀などが、大河ドラマ「真田丸」のオープニングに使われていたことで話題になりました。
本丸に上がって正面から見る天守。
岩盤の上に石垣が組まれ、その上に二層二階の天守が建てられています。
この天守は現存十二天守の一つで重要文化財に指定されています。
現存天守の中では最も標高の高いところにあります。
外観では、なんといっても石落としの機能も付いた一階の唐破風の出格子窓が特徴的です。
はじめてこの天守の写真を見た時は、なんて不格好なと思いましたが、見慣れてくるとこれも一つの味わいと思えるようになってきました。
内部は、一階には囲炉裏や装束の間などが設けられており、二階には御社壇があります。
天守二階からの眺め。
二階建てで、周りと比べてそう高いところにあるわけではないので、それほど眺めはよくないですね。
本丸下を奥に進むと搦手門跡があり、天守の裏に二重櫓があります。
この二重櫓も天守と同じく現存で、やはり岩盤の上に石垣が組まれ、その上に建てられています。
現存する備中松山城は1683年に水谷勝宗によって修築されたものだそうですが、古くは鎌倉時代から砦が築かれていたそうです。
1574年に起こった「備中兵乱」の頃には臥牛山の4つの峰(前山、小松山、天神の丸、大松山)に砦二十一丸と呼ばれた出丸が築かれていたそうで、天神の丸、大松山に行く道標もありました。
しかし、江戸時代に入って、城の役割が防衛拠点から行政府へと変わり、立地も山城から平城へと変わっていった時代に、あえてこんな前時代的な山城を築いたのはなぜなんでしょう?
実際の政務は麓の御根小屋というところで行ってはいたそうですが、なんとも不思議な城です。
まあ、そのおかげで山城で現存天守という非常に珍しいものが観れるわけで、それがこの城の魅力ではあるのですが。
そういう点では、戦前、放棄され朽ち果てようとしていたこの城を修築して蘇らせた地元の人々の尽力というものがあってこそということも忘れてはなりません。
さて、現存十二天守制覇を第一の目標としている私の城めぐりも、これで十一天守目。残るは一天守のみです。
そして、高取城、岩村城に続き、日本三大山城全制覇です。
城めぐりは楽しいですね。次はどこの城に行きましょうか。