東北の旅2日目は平泉にやってきました。
平泉と言えば、一番観たいのは中尊寺の金色堂。
まずは、中尊寺の参道前にある伝弁慶の墓にお参りし、
そして表参道月見坂を登って行きます。
月見坂の両脇には杉の大木が立ち並びますが、これは江戸時代に伊達藩が植林した樹齢300年以上の杉なのだそうです。
いくつかのお堂などを両側に見ながら月見坂を登っていくと、東物見台という北上川や衣川が見渡せる場所があり、ここから北上川越しに見える束稲山(たばしねやま)に咲く桜を見て感嘆した詠んだ西行の歌碑がありました。
ききもせず 束稲山の さくら花 よし野のほかに かかるべしとは
さらに歩くと左手に中尊寺の本坊表門が現れます。
中尊寺は比叡山延暦寺の慈円大師円仁によって開かれた天台宗のお寺です。
奥州藤原氏の庇護を受けていた中尊寺は、鎌倉時代以降は次第に衰退し、さらに1337年の火災で多くの建物が焼失したため、古い建物はそれほど残っておらず、この本堂も明治に入って再建されたものだそうです。
ただ、金色堂をはじめ、残された建物や宝物は今日まで大切に守られており、こちらの宝物館讃衡蔵では、藤原清衡公が発願し8年をかけて完成させたという「紺紙金銀字交書一切経」など、国宝、重文クラスの貴重な文化財を多数みることができます。
また、宝物館の奥にある建物では、「平泉」世界文化遺産登録記念行事の一環として「秘仏一字金輪佛頂尊」が5年ぶりに御開帳となっていました。
一字の真言「ボロン」で表されるこの仏様は彩色が施されており、「人肌の大日如来」として尊ばれているそうですが、対面してみると優しく包み込まれるような温かみを感じました。
そして、いよいよ金色堂です。
覆堂の中に大切に守られている金色堂は、内外全面に金箔を押した眩いばかりの金色にまず目を奪われますが、夜光貝を用いた螺鈿細工など、当時の工芸技術の粋を集めた装飾もまた見事で、極楽浄土を具現化しようとした清衡公の思いと、当時の奥州藤原氏の繁栄を今に伝えています。
中央に阿弥陀如来が鎮座し、その脇や周囲を菩薩や天が固める須弥壇。
その須弥壇の中には、藤原清衡から泰衡まで、奥州藤原家四代の亡骸が眠っているそうですが、藤原氏滅亡後も、中尊寺の衰退や火災といった危機を乗り越えて、今日まで大切に守られてきたこと、それ自体が奇跡というか、とても貴重で尊いことですね。
金色堂の前のスロープ脇に宮沢賢治の詩碑がありましたが、この詩に金色堂が今日まで守られてきた理由が示されているような気がします。
七重の舎利の小塔に 蓋なすや 緑の燐光
大盗は銀のかたびら おろがむとまづ膝だてば
赭のまなこたゞつぶらにて もろの肱映えかゞやけり
手触れ得ね舎利の寳塔 大盗は禮して没(き)ゆる
※「七重の舎利の小塔」というのが金色堂を指すそうです。
金色堂のそばには旧覆堂がありました。
今の金色堂の覆堂は1965年に建てられた鉄筋コンクリート製ですが、これはその前に金色堂を覆っていた覆堂で、1288年に建てられて以来、700年近く金色堂を守ってきたそうです。
子供の頃、収集した20円切手のデザインを見て憧れていた金色堂の覆堂はこちらのほうです。
近くには金色堂を詠んだ芭蕉の句碑もありました。
五月雨の 降り残してや 光堂
芭蕉が見たのは雨降りしきる中、薄暗い旧覆堂の中で光り輝いていた金色堂。
いま私たちが見るきれいに照明の当てられた金色堂とはまた違った印象だったことでしょう。
中尊寺で長くなったので、(2)へつづく...