
米沢から山を越え、会津若松へ。
会津若松と言えば、まずは鶴ヶ城。

幕末の戊辰戦争ではこの城を中心に約1ヶ月に及ぶ攻防戦が繰り広げられ、砲弾を浴び無残な姿となった天守は、その後、取り壊されました。
今の天守は昭和40年に復元されたもので、今年復元後50年ということで内部をリニューアルしたそうです。

天守の内部では、鶴ヶ城の歴代の城主や戊辰戦争や白虎隊などを紹介する展示があり、最上階からは会津若松市街が一望できます。
遠くには磐梯山と、その右下には白虎隊自刃の地、飯盛山も見えます。

本丸の敷地内には茶室麟閣があります。

この茶室は、千利休の子、少庵が蒲生氏郷のために造ったと伝えられるもので、戊辰戦争の後、別の場所に移築・保存されていたものを、平成になって元の場所に復元したのだそうです。

鶴ヶ城から東へ2kmほどのところには御薬園という築泉回遊式の大名庭園があります。

この庭園は、戊辰戦争の際にも西軍の戦傷者の治療所として利用されたため、庭園も建物も、ほぼ昔の姿のまま残ったそうです。

この庭園が御薬園と呼ばれる所以は、二代藩主保科正経の頃から庭園の傍らに薬草園が設けられ、薬草栽培が行われてきたからだそうで、現在でも数百種類の薬草を栽培しているそうです。
売店では、お土産用に薬草茶も売られていました。

御薬園から北へ2kmほどのところには、飯盛山があります。
長い石段を登ると白虎隊十九士の墓があり、

そこから少し歩いたところには、白虎隊自刃の地があります。
額に手をかざした白虎隊士の像の見つめる先には鶴ヶ城があります。

ここから炎に包まれる城下の様子を見て、敵に捕まり生き恥をさらすよりも武士の本分を貫くために自刃することを決意したというのですが...
当時、当人たちがどういう心情だったのかは到底計り知れませんが、違った形で武士の本分を全うすることもできたのでは、といろいろ考えてしまいます。

白虎隊自刃の地のそばには、さざえ堂という二重らせん構造を持つ珍しいお堂があり、

その近くには、戸ノ口原の戦いに敗れて潰走した白虎隊が通ったという戸ノ口堰洞穴があります。

そこからさらに少し歩いたところには、藩主松平容保が陣を敷いた滝沢本陣があります。
白虎隊もここから命を受けて戸ノ口へと出陣していったそうです。

この他、様々な名所旧跡が点在する会津若松ですが、最後にぜひとも訪れてみたかったのは郊外に復元された会津藩校日新館です。

元々は1804年、5代藩主松平容頌の時代に「会津藩の交流は人材の養成にあり」との家老田中玄宰の進言によって鶴ヶ城の西側に建てられたもので、藩士の子弟は10歳になると日新館に入学して勉学に励んだそうです。

教科も、読み書きから礼法、武術、医学、天文など多岐にわたり、水練場、弓道場、砲術場、天文台などの施設も備えていたようです。
その教育システムは規模・内容とも充実したもので、全国諸藩の藩校の中でも最高水準の教育機関であったことがうかがえます。

日新館の入口には有名な「什の掟」が掲げられていましたが、これは日新館に入学する前の子供たちに教え込まれるもので、日新館の道徳的教科書「日新館童子訓」へとつながっていく礎となるものです。
その「日新館童子訓」のもとになっているのは、藩祖保科正之が藩の方針として定めた「ご家訓」であり、こうした幼少期からの道徳教育によって藩を支える優秀な藩士が育成されたわけですが、それが幕末の悲劇へとつながってしまったことは皮肉なことです。
歴史のことをあまりよく知らなかった頃は、会津のことを単純に時代に乗り遅れた守旧派のように思い、ほとんど興味を持てなかったのですが、いろんな本を読んだり、大河を観たりして幕末のことや保科正之のことを知るにつれ、会津の貫き通した義にも敬意を抱くようになりました。
今回、会津で色々なものを見て、そうした思いがより強まりました。
歴史は深いです。